世界選手権当日
そして迎えた世界選手権当日。
僕の出番は、刻一刻と迫っていた。
「男子は、オリンピックで銀メダルを獲得したアメリカのマイケル選手が引退を表明し、佐藤選手のライバル候補がどなたになるのかが注目ですね。」
イヤホン越しからも聞こえてくるアナウンサーの声が僕により一層緊張感を与えた。
僕は、これまでマイケルと優勝争いをしてきた。1度目のオリンピックでは、マイケルがまさかのショートで転倒。表彰台には、わずかに届かなかった。それから彼は、その悔しさをバネにこの4年間世界選手権では負けなしだった。そして迎えた2度目のオリンピック。結果は、僕が2連覇を果たした。彼がいなければもっと早くに辞めていたかもしれない。そう思わせてくれた戦友だった。そんな彼は、オリンピックを最後に引退したのだった。
「君は、クレイジーだよ。」
彼が最後にかけてくれた言葉だった。
僕は、彼にかけたいと思う。
「君もクレイジーだよ。」
彼がいなくなったフィギュアスケートでは、新世代が台頭していた。ショートプログラム1番滑走は、中国の期待の新人ワンフェイロン選手だった。彼は、これまで誰も降りたことがない5回転ジャンプを演技に組み込もうとしている。ショートプログラムでは、ルール上跳ぶことは、できない。だが確実に明日のフリーでは、降りてくるに違いないだろう。
「ワンフェイロン選手の出番がやって来ました。」
アナウンサーの実況と共に彼の演技が始まった。その頃僕は、控え室前で最終準備をしていた為、彼の演技を見ることは、できなかった。しばらくして控室まで聞こえてくる程の拍手が会場内に鳴り響いていた。そうか。彼は、完璧な演技をしたんだ。その事実が僕の闘争心に火をつけた。
「舞斗、行くわよ。」
鬼塚コーチと共にリングサイドへと向かった。
「ワンフェイロン選手の得点、115.02点。現在の順位は、第1位です。」
会場内に彼の得点がアナウンスされた。僕は、リンク内へと入った。彼の得点に会場内の観客達のどよめきが耳に入った。115.02点?もしかして…
「115点、出ました。佐藤選手が持っていた歴代世界最高得点を塗り替えました。」
実況席に座っていたアナウンサーが椅子から立ち上がり興奮したように声を上げていた。彼は、初めての世界選手権で僕の持っていた得点を上回った。これは、久しぶりに心が浮き立つ瞬間だった。僕もこの得点を超えたい。超えてやるぞ。そう思った。だがそれと同時に僕は、思い出したのだ。今回この大会に出場した理由を。
「せっかく最後なんだから、お母さんに向けた演技にしたらどうだ?」
僕は、勝つために滑るんじゃない。最後のこの大舞台で母に届ける演技をするのだ。そう心に誓い、最初のポーズを取った。
「次は、最終滑走者。オリンピックチャンピョン佐藤舞斗が登場しました。曲は、Motherです。」
映画Motherの挿入歌が会場内に流れる。
僕は、いつも4回転ルッツ+3回転トゥーループ、トリプルアクセル、4回転フリップの構成をショートプログラムでは、組んでいる。だが今回は、4回転サルコウ+3回転トゥーループ、4回転トゥーループ、3回転アクセルに難易度を落とした。それも全て表現に力を入れるためだ。
冒頭明るい音楽から始まる。僕と父、母3人で暮らしていたころの思い出だ。初めのジャンプ、4回転サルコウ+3回転トゥルループ。少しバランスを崩したが、なんとか降りた。ここをコンビネーションにしたのには、意味がある。両親の離婚と母との別れ。2つの別れが僕に訪れたことを意味している。そして2つ目のジャンプ。3回転アクセルも順調に決まった。そしてスピンも全て終わり。最後は、曲調が激しくなっていく。世界ジュニアで迎えに来てくれなかった悲しみ、そしてオリンピック2連覇後の絶望感を表現するステップ、コレオへと繋がっていく。そして最後のポーズを決めた瞬間、僕の目には、涙が浮かんでいた。そしてその場に崩れ落ちた。
「佐藤選手、すばらしい演技を披露しました。佐藤選手がその場で泣き崩れています。このように佐藤選手が感情的になっているところを今まで見たことがありません。」
会場内の観客たちが波のように立ち上がり、僕に向けて拍手をしてくれた。早く立たなくては。僕は、精一杯の力を振り絞り、立ち上がり、観客達の声援に応えた。
リンクの外を見てみると、全身ヒョウ柄の女性が僕よりも泣いているように見えた。
「舞斗!今までで1番最高の演技だったわ。」
「ありがとうございます。鬼塚コーチ。」
コーチと共にキスアンドクライに座った。
「ワンフェイロンの得点超えるかな?どう思う?」
僕は、コーチに問いかけた。いつもならここでコーチによる冷静な分析を聞くことができる。だが今日は、満面の笑みで
「点数なんて関係ないわ。今日滑った誰よりも良い演技だったわ。」
そう言ってコーチは、僕を抱きしめてくれた。
「佐藤舞斗選手のショートプログラムの得点112.03点、現在の順位は2位です。」
ワンフェイロンの得点には、わずかに届かなかった。だが僕は、今日の自分の演技に満足していた。
「君は、レジェンドだよ。」
「僕は、君に憧れてスケートを始めたんだ。」
インタビューエリアまでの道中でいつもの様に海外選手が声をかけてくれた。クレイジーからレジェンドか。僕は、もうレジェンドになってしまったのか。時の流れを感じるようだ。
「今回は佐藤選手にとっては珍しい曲調であるmotherという曲を選択されましたが、どうしてこの曲を選ばれたんですか?」
アナウンサーが僕にこの質問をすると、周りの記者たちのヒソヒソ話が聞こえてきた。
「あのアナウンサー、新人か?」
「佐藤選手にお母さんの話は、NGっていう決まりだろ?」
「業界では、誰もが知ってるのに。」
僕は、母の話を公の場で話したことは、ない。もし聞かれたとしても嫌な顔をして答えてこなかった。すると、業界内で佐藤選手には、家族の話を聞くのは、NGだという噂が流れたのだ。それから誰も聞かなくなっていた。
「僕がフィギュアスケートを始めたきっかけを作ってくれた母に感謝の気持ちを込めた曲にしようと思っていたのでこの曲を選びました。」
僕は、覚悟を決めて、母について話したのだ。僕にとっては、第一歩だった。マスコミで母について話すことで僕のことを見つけてくれるかもしれないと。だが、この僕の判断があんなことを引き起こしてしまうなどこの時の僕は、知るよしもなかった。