5・へたれが・・・。
腹の底から湧きあがり、喉元まで登ってきたこの熱が頭まで到達するよう、僕は何とかこの感情を受け入れようとしていた。
「こんな奴……殺して……」
口に出して。自分を奮い立たせる。奮い立たせなければ、たちまちこの熱は、時間の経過と共に心に余分な灰を残して冷え切ってしまうだろう。
躊躇している暇はない。
「殺してやる!」
自分の中の感情を肯定するため、再び声に出した。
この女性の命を泣きものにするべく、僕は鎌をゆっくりと振り上げる。
僕が人を殺せるとしたら、今しかないのだと、この感情に準ずるほかないのだと。
「……」
……振り上げた鎌を振り下ろすことなど、造作もないことであるはずなのに。
重力の事を考えれば、振り上げるより、振り下ろす方が圧倒的に楽なはずなのに。
これほどまでにこの鎌は……重かったのだろうか。
僕の意志というものは、これほどまでに……軽かったのだろうか。
時間切れだ、熱が冷めていく。燃え切った僕の心の燃えカスは、灰となってむなしさを蔓延させる。
人を殺す感情として、一番妥当な憎しみ、怒り……その助けがあってなお、僕は人を殺せなかった。
いよいよ、僕の死神としての存在価値も無くなった。
ここに来ても何も得ることはできずに、それを再確認しただけ。
鎌を強く握りしめていた両手から力が抜けていき、振り上げた鎌は手から落ちていく。
ああ……
「……何で僕、ここにいるんだ……」
ぼそっとそう呟くと、床に落とした鎌を拾いあげ、逃げるように僕はこの喫茶店を後にした。
それと同じタイミングで、しびれを切らした彼女の友人も、目に涙を浮かべながら、喫茶店にお金を払って出て行ってしまった。
「もう……勝手にして……」
そう吐き捨てられて喫茶店に取り残された彼女は、ばつが悪そうな顔をしながら、届いたランチを口の中にほおばる。
「っ!……」
突然、彼女がランチを食べる手が止まった。
口の中に詰まっていた食べ物をボロボロとこぼし、彼女は気を失ったかのように突然、ばたんとランチの皿の上に顔をうずめて倒れてしまった。
「……お客様?」
別の人のランチを運んでいた男性店員が、異変に気付き彼女に近づく。
「お客様、どうなさいましたか?」
店員が肩をポンポンっとたたくも、反応がない。様子がおかしいと、店員が彼女の体を強く揺さぶる。
「お客様!大丈夫ですか!」
その光景を、クロと同じ高校生くらいの少年が、不敵な笑みを浮かべて見つめている。
少し小柄で、痩せ気味のその少年のいで立ちは、まるで天使のように背中に真っ白な翼をはやしている。
だが、天使ではない。死神の持つ大鎌を肩に担いでいるのがその証拠だ。
そして、Ⅴiという文字が書かれた不気味な仮面をつけている。
少年は、喫茶店を後にして飛び立って行ったクロの方を睨みつけて呟いた。
「ヘタレが」
※
夕方。
少し前まで、登下校の学生たちでにぎわっていたこの通学路を歩いている女子高生も、今の時間帯では彼女くらいしかいないだろう。
駅のホームで、クロとワイトが飛び立って行くところを見ていたあの女子高生。
しかし、朝の彼女とはどこか様子がおかしい。どこがおかしいのかと言われれば、全身だろう。
彼女は、何故か頭から足先まで、大雨に打たれたかのごとく水浸しになっている。
直後、スマホの着信音が、学校から指定されたバッグから鳴り響く。
彼女は水浸しの手でスマホを取り出すと、か細い声で電話に応答する。
「……もしもし」
「もしもしあかね?お友達と遊んでるところ悪いんだけど、今大丈夫?」
スマホの向こうから彼女、あかねの母親の声がする。
しかしいつもとはどこか違う。無理やり自分を落ち着かせて優しげな声にしているような……。
嫌な予感がする。
「……うん、大丈夫」
「落ち着いて聞いてほしいんだけど」
あかねの母親は話を続ける。
「よーく聞いてほしいの。おじいちゃん実は数日前から病気が悪化してて、今日の朝お医者さんから連絡があったの、今日が……最後かもしれないって……」
とぼとぼと歩いていたあかねの足が止まり、目に涙を浮かべて固まってしまう。
「え、そんな……何で急に……」
「あなたに心配かけたくなくて、おじいちゃんが言うなって、おじいちゃん、あなたおの事大好きだから……お友達と遊んでるところ悪いんだけど、今すぐおじいちゃんの為に病院に来てほしいの……」
「分かった……今すぐ行くから」
あかねは通話を切ると、今来た通学路を走って戻って行った。
同時刻、死神界にクロが戻ってくるも、ワイトはまだ戻ってきていないようだ。
ワイトの向かった方向に伸びた三途の枝がいまだ残っている。
「まだ帰ってきてないのか……」
クロが三途の川に近づくと、新たに三途の川から枝が分かれ始め、ワイトのいる方向とは反対方向に向かって行く。
「え……」
現在、死神界にいる死神はクロ一人。
「……」
枝の伸びる様子を、クロはなにもせずに目でおった。
その後、三途の川の前で座り込み、頭を抱えてうずくまった。
「嫌だ……行きたくない!!」