3・僕にはできません。
目の前で人が電車にひかれて死んだ。
電車に跳ね飛ばされた際に彼から飛び散った無数の血液ですらも、僕の体に降りかかることなくすり抜けていく。
「・・・・・・・」
言葉を発することができなかった。
受け入れられなかった。
たった今僕が殺したんだと、死神として不必要な罪悪感に飲み込まれていた時。
「し・・・・・・tあ・・・く・・・nあい」
甲高い不気味な声が僕の耳の中に入ってきたことをきっかけに、僕ははっと我に返った。
胸の芯から沸きあがってくる生命的恐怖が、僕の生命が危ないと僕に全神経を通して伝えてくた。
僕は声のする方を恐る恐る見上げて・・・固まった。
「!?」
そこにいたのは、人の形をかたどった。しかし目を当てられない程醜い風貌をした真っ黒で巨大な怪物だった。
手足は折れ曲がり、顔面どころか体中がつぶれ、体中から黒い液体をドロドロと垂れ流しながらそれは僕を見下ろしている。
「え・・・」
僕がこの怪物の存在を認識した瞬間。ぶつっという音と共に僕は右腕のすべてがしびれたような強烈な違和感を感じた。
僕はその瞬間バランスを崩してしりもちをつく。怪物の左腕は人の腕の形から、大きな鎌のような形に変形していた。
いやな予感がする、こんな状況だ、いやな予感は大当たりだった。
腕がない。
「ぐあああああああああああああああああああああああああ」
切断された右腕が両手で持っていた鎌をいまだにしっかりと握りしめている。
僕がそのことを認識したとたん、自分が全力で叫んでいることすらも気づかない程の激痛に見舞われた。
腕の切断面からは怪物と同じ真っ黒な液体が勢いよく噴出していく。
「クロ!あぶない!!」
この怪物の存在はここに来るまでの道のりでワイトから聞いていた。
魂が抜かれた人間の中にある精神的原動力とも呼べる欲望や感情。未練と呼ばれるこの怪物が、魂を取り戻すために死神に襲い掛かってくる。
心臓部分にある弱点を壊し、暴れ狂う人の未練を鎮めてやることも死神の仕事なのだと。
しかし僕にそんなことができる余裕はない。
何せ腕が切り裂かれた激痛で今にも気を失いそうなのだ。
「ぐあっ」
切断面を抑えもがき苦しんでいる僕に、未練は容赦なくハンマーに変形したもう片方の腕で僕の体をホームの端まで殴り飛ばす。
強い衝撃で意識が朦朧としたおかげで、右腕の痛みは和らいだものの、いっそ今すぐ死んでしまいたいと思うほどの不安と恐怖は健在だ。
「し・・・にtあkうなーーあああいーーーー!!!」
未練はまたあの甲高い奇声を上げると、折れ曲がってまともに歩行できない足で僕の方へ向かってくる。
僕は先ほどの悲鳴で枯れてしまった喉元から声をひねり出す。
「た・・・す・・・けて、ワイト」
未練は僕の目の前までやってくると、その右腕をハンマーからカッターのようなものに変形させ、振り上げた。
死を覚悟した、その瞬間だった。
「おつかれさん・・・」
ぶちぶちっという音と共に、未練は頭から真っ二つに切り裂かれた。
切断された体は黒い液体となって形状崩壊し、割れた水風船のようにばしゃっと地面に叩きつけられ広がっていく。
「いやー、流石に初っ端で未練と一対一は無理あったかー、申し訳ねえ」
未練の黒い液体を目いっぱい浴びている異様な状況であるにも関わらず。ワイトは陽気な顔で頭をポリポリかいている。
そんなワイドの顔を見て、僕は未練に襲われるこの状況から脱したことを自覚して心底安心した。
「よいしょっと」
ワイトは地面に広がっている黒い水溜まりを無造作に救い上げると倒れた僕の体に雑に振りかけた。
「あ・・・」
振りかけられた黒い液体は僕の体にみるみる吸収され、切断された右腕や折れ放題になった肋骨はみるみる治って行った。
「ま、今回はだめだったかもしれないけどそう落ち込むなって 次もまたいくらでもチャンスはあるんだから、その時またキチンと未練を晴らせれば良いさ」
声帯は治っているはずなのに、僕は声を絞り出すように呟いた。
「僕にはできません・・・」
「いや、大丈夫だって、また次があるって言ったろ?」
「この仕事は僕には向いていません。人を殺した上に、未練に襲われるなんて僕には・・・耐えられない」
必死に和まそうとしていたワイトの表情はすぐにしゅんっとする。
「・・・正直、こんなことを続けられるワイトの気が知れない・・・」
「クロ・・・でもな、俺はこの仕事に誇りを・・・」
ワイトの言葉をさえぎるクロ。
「人を殺す仕事は・・・僕にはできません」
沈黙が走る。
「・・・そうか、そう・・・だよな・・・だけどさ・・・」
うつむくクロの背中にワイト優しく手を置く。
「俺たちがしていることは、人の為だってことを忘れないでくれ」
「・・・・・・」
「帰ろうか・・・」
「・・・うん」
先に空に飛んだワイトを追って、僕もこの駅を後にする。
その時の空は、雲一つない美しい青空だったことに、僕は気づかなかった。
列車事故で駅のホームにいる人の注意が彼の亡骸にくぎ付けになっている中、一人だけ、空を見つめている女子高生がいた。
「これは・・・夢?」
その女子高生は、二人の死神の背中を駅のホームからただ見つめている。