2.回想
ワシの名は松井芭蕉。
この現代においても、なお存在を続ける「俳聖」とまで呼ばれた英霊である。
決して、忍者の悪霊や地縛霊ではない。
さて、俳諧とか、俳聖とか言われてもピンと来ないかもしれないから弁明しておくのだが、ワシは俳句を詠む文化人だ。
決して、忍者とは似ても似つかないジョブなのだ。
忍者と誤解されたまま、この世を去るわけにはいかぬのだ。
さて、俳句といえば五七五。
五文字、七文字、五文字と限られた文字数に季語を入れリズミカルに読むことで心情や風流を表現するポエムの一種だ。
日本には昔からそのような伝統があって、奈良や京都に都があった時代には五七五七七で歌勝負をしたり、和歌集を編纂したりと、嗜まれているエンタテイメントだ。
かくいう私も六歌仙と呼ばれた奇撰法師や焼原業平をリスペクトしたものだ。
たかだか言葉遊びの類と舐めてはいけない。
それで飯が食えるほど甘い業界ではなく、確かに限られた文字数を文理的に解釈すると、
「えっ、何言ってんの?この人」
「意味フでワロター」
と評価されてしまいがちだ。
たとえ文字数が少なくとも、行間や文字と文字の間に潜む多様多彩な含蓄を、ときには作者の想定以上に感じさせ、心や人生を豊かにする至高の文学なのだ。
一見すると簡素な句でも、見た瞬間にぶわっと、心の中にコスモが広がる感じだな。
コスモだよ、コスモ!
俺の俳句は宇宙だ!
で、ワシはその業界の第一人者、というわけだ。
断じて忍者ではない。
だが、大法螺話だとしても、現代に至るもワシが忍者という説が存する耐え難い事実。
その所以で不安にもなろうというものだ。
ワシは目を閉じて過去を回想する。
もう何百回とも何千回ともしれず回想している。
そして、生前より遥かに精度が「劣化」したフォトグラフィックメモリ、否、ビデオグラフィックメモリが発動した。
ワシの生まれは忍者の里で有名な伊賀の国である。
ハイ、忍者確定~!って、それは短絡的過ぎるってもんだろ?
確かに伊賀には百地、福地、服部など、忍者の名門が存在していたかもしれないが、だからといって里の人間全員が忍者というわけではないのだからな。
事実ワシの生まれた実家は貧しい農民のようだ。
幼心に染み付いた、古き懐かしの我が庵。
居間の片隅には刀が置かれている。
うん?刀?
松井家に伝わる由緒正しき家宝だっただろうか。
農民とはいえど、苗字があるからな。
過去に多少は地位があったのかもしれぬ。
まぁ、刀など所詮は刃物、農作業に使えなくもないから、それほど不自然さはないな。
そして、フラッシュバックは離れにある倉庫へ。
なにか遊び道具がないかと、幼少の頃はよく物色したものだった。
お!奥の方に埃を被った古い箱を発見!
ワシは中を開けてみた。
・・・ふむふむ、たくさん入っておるな。
子供の理解力だから、なにやらもやっと霧がかかったようになっておるのだが、真っ先に目に入ったのは十字型や楔型で刃物状になっている金属で、まとめて持つ用であろうか、十字型の方は中央に穴が空いており、楔型の方は持ち手の方に、まるでストラップをつけて下さいと言わんばかりに輪がついている。
で、丸っこい紙に包まれた玉が数個?直観的になんだか爆発しそうだから刺激しないよう気を付けよう。
そして、金属でアミアミになっているシャツと草履と呼ぶには面積がやけに広く水に浮きそうな履物、木や落ち葉の模様をした等身大の布、カツラ。
大きい筒と小さい筒があって、大きい筒は片方がマウスピースのようになっていて、なんだか水中でも呼吸ができそうなイメージで、小さい方は小さい針のような部品と紫色の液体の入った小瓶が紐括られており、用途は不明だ。
ワシの本能が叫んでいる、これ以上は危険だと。
意識が明滅して、ワシは過去から帰ってきた。
もしかしたら、
本当に、或いは、仮に、万が一、もしかしたら、ワシの父か、祖父か、ひい爺さんあたりは、忍者だったのかもしれん、認めたくはないが。
だが、たとえそうであったとしても、
あえて、きっぱりと、あからさまに、いやむしろだからこそ、主張しておこう。
ワシ本人は決して忍者ではない