一章09―紅の羽根―
クァージ都心の片隅に、古びた居酒屋「紅い羽根」はあった。ご察しの通り、店名は不死鳥より取られている。半世紀以上続く老舗として広く親しまれており、木造の店内はゆったりとした設計となっていた。テーブルとテーブルの間隔が程よく広い。壁には、紫紺に染まるラシーヌ湖の写真が飾られ、深い色が気持ちを鎮める。荒れくれ者もギルドの強面も、この店へ訪れる者は皆表情が柔らかくなるともっぱらの噂だった。店主の性格がそうさせているのもあるのだろうか。親から受け継いだ店を自分と他数名で切り盛りしていたが、あまりの盛況ぶりに近々人員募集を考えていた。
ところで老舗「紅い羽根」の利用客は、クァージの中層から下層まで実に多様だった。昼は学者や科学者、自営業などの中流層、夜はいわゆるブルーカラーの労働者、ならず者まで様々。だが好評を得ている「紅の羽根」にも一点だけ、人々が頭を抱える難点があった。太陽光を中へ入れるための大窓だ。普段は心地よい風を招入れ、労働で流した汗を乾かしてくれる。しかし晴れた日は、光輝く首都の象徴が垣間見え、神聖の名に相応しい威光を放っているのだ。皮肉なことに象徴たる王宮もまた不死鳥を連想させるものだった。
「おやっさん、無料メニュー二つ! 」
「はいはい、もうちょっとお待ちくださいね」
クァージで立て直しが始まっておよそ四年。貿易も再開され、経済状況は日に日に回復へ向かっている見解が示されている。だが下位層の人間にしてみれば、戦争終結後と何ら変わらぬ生活だった。戦火に怯える日々が過去ったことに安堵せども、先の見えぬ未来。家を失って以来ろくな職にも就かず、各地を流浪している市民達も珍しくないのだ。「紅い羽根」には、そんな下町の人間も多く集まっていた。
「国王には政治能力がない」
この言葉は、クァージが貧困から抜け出せぬ原因を如実に物語っている。若き国王は、全く政治に関心を示さないのだ。戦争以外の政治を知らないと批評する者もいる。しかし国王の従兄弟は、その噂を全面否定していた。才覚がないのではなく、やる気がないだけなのだと。勿論、この馬鹿正直なフォローは国王に対する反感を更に煽った。最早あぶれた人間達にとって、国王の威光など腹の足しにもならなかった。単なる自然の光に過ぎず、「王に注がれし神聖なる御光」など愚かな戯言と等しい。三つ編み赤髪の科学者に言わせれば、「人間に注ぐ光など皆同じ」だろう。
そんな「威光」を天気の良い日に注がれては、美味しい食事も不味くなると言うものだ。なんとかしろよ、としょっちゅう苦情が来る。だが、そこはやり手の店主である。持ち前の陽気さと人の良さで、客の足が遠のくことはなかった。
巨大なフライパンから、魚と貝が焼ける香りが漂ってきた。今日の無料メニューは、魚貝のパスタだ。不況により仲間の老舗が次々と消えていく中、「紅い羽根」盛況の秘密がここにあると言っても過言ではない。金のない旅人や貧しい人々へ、タダで料理を分け与えているのだ。巷では無料メニューの名で知られている。元々は、戦時中家を失った人々へ施していたものだったと言う。その噂が各地に広まり、何時しか店の目玉になっていた。お陰で集客力が高まり、繁盛してる訳だ。言うまでもなく、長く親しまれているだけあって店主が振るう料理の腕は確かである。脂ぎった料理に埋もれている上層の貴族より、中層の人間達のほうが舌は肥えていたが、その彼らでさえ舌鼓を打つ程。無料メニューの資金がどこから調達されているのか。と言う問い掛けに、店側は決して秘密を明かそうとはしなかったが、タダで食べられるのだ。文句は言えまい。
だが、裕福な人間達にも体面と言うものは存在した。というより、彼らの人生の半分は体面で成立っていると言っても差し支えないが、食費へお金を掛けないことに多少なり気後れがあった。埋め合わせをすべく、無料メニューと伴に他の品も頼む。「紅い羽根」のは収入は、実質それらで賄われていた。
店主はひっきりなしに掛かる声へ対応しながら、香辛料を振り掛けた。出来上がった料理を皿へ載せると、待構えていたウェイトレスへ。銀髪の店員は素早く腕に載せ、足早に客の許へ去っていった。それから時間を確認し、年期の入った前掛けを取り外しにかかった。そろそろ宿屋の掃除をしなければならない。彼は居酒屋の二階で、宿屋も経営していたのだ。
「あー忙しいです忙しいです」
額に浮かんだ汗を拭く。仲間に後を任せ、バンダナを巻き直す。すると厨房を出たところで見知った顔を認めた。青年は長い外套を羽織り、壁へ寄り掛かっている。ただそれだけなのだが、酷く様になっていた。店主が「おや」と声を上げると、青年は軽く顔を動かした。
「相も変わらず、盛況のようですねぇ」
「ディス君……! おかえりなさい。元気そうで何よりです。ええ、ほんとに何より」
繰り返す癖のある店主に、ディスと呼ばれた青年は軽く笑みを浮かべた。常日頃の皮肉った微笑とは違う。眼帯の間から覗く藍色は鋭利だったが、彼と話す時だけは幾分優しい光を灯していた。店主は満足したように相槌を返す。そして、今日の宿はどこにするのか。まだ決まっていないなら、是非泊まって行って、色んな話を聞かせて欲しいとにこやかに語った。それに対し、ディスは了承の返事を返した。他人へ任務の土産話をするなど、普段なら死んでもごめんだ。しかし、彼にとってこの宿は我が家も同然。世話になっている店主へ、多少なり心を許していても何ら不思議ではない。
言葉を交わす傍ら、店主は立派になった青年を誇らしく眺めた。彼らと出会ったのは、おおよそ二年前。ディスがまだゲヘナと呼ばれていた頃、妹と共にクァージへ流れ着いた時であった。二人は厳冬の山脈越えをやり遂げたばかりで、非常にみすぼらしいみなりをしていたと言う。その際ギルドの長に拾われ、食事を分け与えるために「紅の羽根」へ連れて来られたのだ。
「全く……無料メニューなんてよくやりますよ」
ねっとりした嫌味を放つ。
「報酬がなければ、仕事を引き受ける意味がないと思いませんかね」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。年寄りの私にも出来る社会貢献ですから」
気の良い笑みに、ディスは呆れたように首を振った。店主は軽蔑混じりの笑みを認めて、青年が次に発言する内容を察する。すると案の定、「社会貢献と言うのは、回り回って自分に何がしかの利益が返ってくることが前提にあってするものだ」と持論を聞かされる。
「国なんぞに貢ぐより、己の私腹を肥やしたほうが賢明でしょうに」
しかし、この台詞をディスが言ったところで説得力はなかった。無料メニューの資金元は、他ならぬこの青年なのだ。彼もまた、自ら無意味と称す社会貢献をしていることになる。その矛盾の裏に何があるのかは、本人のみぞ知ること。が、シェオールに二ヶ月間延々と頼み込まれていたとか、散々渋った挙げ句、一年分のお小遣いと引き換えに承諾したとか。様々な理由はあれど、人間誰しも持っている特定の感情によるものだと、僅かな希望を込めて語りたい。
性善説信望者の店主は、断りを入れて二階へ上がって行った。青年はすることもなく、カウンターに向かう。一画でチェスを嗜む赤髪を横目に、腰を降ろした。
「ヴェルヴェットさん、知ってるか。クァージはこの先、レダンの歴史を踏襲することになるんじゃないかって噂」
「ああ……先日の学会でも、仲間が似た様なことを言っていた」
チェス盤に向かい合う二人は祖国の行く末を案じ、噂話に花を咲かせていた。斜め後ろの席だ。一人は銀髪を短く刈り込み、片眼鏡を掛けた男。学者の風体をしている。そしてもう一方は、長い赤髪を三つ編みにしている女だ。綺麗な男と捉えられぬこともない。ディスは、ヴェルヴェットと呼ばれた女とは顔見知りだった。が、背を向けているため相手は気が付かぬ。女は「しかし」と先を続け、次のターンを待った。
「現実味のない話だ。レダンと違って、クァージの民は反乱を起こすだけの財力を持っていない」
「でも、商人がいるだろう」
「それはない。この国の商人は、国王の名の下で潤っている」
とワインボトルを傾けた。銀髪は、ふむと頷く。ヴェルヴェットの言うことは一理あった。国交回復したとは言え、完全な自由貿易を承認している国は少ない。例えクァージ国王が自由貿易を容認したとしても、国家の印がなければ他国は――とりわけドーラ国や弱小国アイリスは、取り引きを拒否するだろう。少なくともあと十年は、国王の「威光」が必要だ。それから女は駒を一つ動かし、チェックメイトを唱えた。
「ああ! 俺のキングが! 」
「私に勝つなど、十年早い」
見たところ、ヴェルヴェットの圧勝だった。男は悔しそうに嘆息した。名残惜しそうに壁時計を見遣り、立ち上がる。短針は一時を指そうとしていた。昼休みも終わりに近い。ワイシャツの襟を直し、一礼をした。
「それじゃな、ヴェルヴェットさん。次は絶対に勝たせてもらう」
彼は黒い帽子を被り、猫背のまま扉を潜って行った。それを確認して、ディスは席を立つ。そしてヴェルヴェットの向かい側、空いた座席をすかさず奪った。
「やぁ、お医者さん。随分と楽しそうな話をしていたね」
「……お前か……」
迷惑そうな表情をされる。予想通りだ。しかし見なかったことにした。嫌がられていることを理解した上で敢えて近寄るのは、一つの楽しみなのだ。すると相手は、私を医者と呼ぶな、と睨み付けた。医者と名乗ると行動に制限が付くためらしい。ディスは笑みを深くし、「失礼、お医者さん」と返した。嫌がらせついでに、片付け途中のチェス駒を奪う。
「シェオールは、一緒じゃないのか」
「あの子は置いてきたよ」
悪びれず告げるディスに、ヴェルヴェットは深々と溜息を吐いた。
「少しは気を遣ってやれ……。二週間程前も、お前に置いていかれたと嘆いてたんだぜ」
「仕方ないでしょう。あの子が遅いのが悪いんだから」
反省の色、なし。自分勝手にも程がある。振り回されているシェオールが酷く哀れに思えた。相棒へ任務内容を伝えず、先に出発した人間がよく言うよ。と、彼女は被りを振る。出会った当初よりディスとは反りが合わないと薄々感じていたが、当らずも遠からずと言うところか。自分ルールを通して生活出来るところは至極羨ましい。青年はワイングラスを口へ運んだ。――と、女にすかさず静止を掛けられた。
「身体に障る」
「たかが酒で、僕が死ぬとでもお思いで」
「顔が蒼白いぜ」
ヴェルヴェットの口許に、皮肉った笑みが浮かんだ。
「お前は、魔科学を使用したばかりだと見受けるが」
違うかな、と続けた。他の者なら灯のせいにしてしまうところ。しかし彼女は、確かな観察眼で見抜く。親友から頼まれてディスの主治医をしているのも、そのためだ。性格の面でも能力の面でも最適だと判断されたからだろうが、迷惑千万なことだった。鋭い指摘に、藍色の瞳が細められる。それから彼は目を伏せ、楽しそうに喉を鳴らした。気遣ってくれたお礼に助言をあげようか、と呟いたのが耳に入る。
「ねぇヴェラ。君は、ギルドへ入るべきですよ」
妖しい囁きに、赤髪の片眉が動いた。ヴェルヴェットは、藍色の中に狡猾な光が宿ったのを見逃さなかった。この目をする時は、大抵良いことがない。話し相手にとって都合の悪いことを言及する時の目なのだ。だからこいつと付き合うのは嫌いなんだ、と脳裏を過ぎる。止めたにも関わらずワインを飲み干す青年へ、意味が分からんと科学者は呟いた。
「あーあ……君は名医のくせに頭が悪いんですね」
ディスはわざとらしく両手を上げ、上を向いた。一々癪に障る。分かってやっているところが、救い様がないと思う。彼はチェス盤を開き、クイーンを取り出した。「良いですか、このクイーンはギルドです」と現実に当てはめる。
「わざわざ言う必要もないでしょうが、ギルドはクァージ国家の要。そして精神的支柱です」
「認めよう。ギルドが無ければクァージは潰れていたしな」
その通りだと頷く。すると、まさしくそれが問題点なのだと彼は告げた。曰く、ギルドは少々力を付け過ぎた。軍事面に置いても、民の信頼に置いても。ギルドが蜂起した場合、国軍など戦闘部隊の前に為す術もなく粉砕されてしまうに違いない。そして万が一国王が保ち堪えたとして、長く保てるはずもない。ギルドが持つもう一つの顔――剃刀のような文人部隊が待構えているのだ。軍事、知略どちらにおいても国王に勝機はない。
ここで、一端ヴェルヴェットが口を挟んだ。商人についてだ。ギルドも商人の支援で成立っている。彼らが渋れば上手くいかないだろうと。するとディスは、明らかに見下した笑みを浮かべた。
「今こそ商人達は国王の前に平伏しているけれども、ギルドに力があると分かれば途端に寝返るに決まっているよ」
無論貿易の問題が商人の心に引っ掛かろう。しかし他国が国王の権威を認めている本当の理由を理解させれば、味方に付けることは容易だ。するとすかさず「理由とは何だ」と切り返される。青年は頬杖を付き、嘆息した。
「分かりませんかねぇ。他国が何故自由貿易を推奨していないか――国家に貿易権利を認める裏で、彼らに何を望んでいるか」
「……民衆に対する、統制力及び圧力か」
的確な返答に、ディスはにこやかに微笑んだ。やはりヴェルヴェットと話すのは楽しい。改めて再認識し、満足して続きに集中した。
「然り。そしてそれは、産業の弱い国ほど顕著でしょうね」
他国が保護貿易――自由な貿易を推奨せず、あらゆる規制をかけた貿易――を行なう裏には、自国の産業を発展させ、甘い蜜を独占したいと言う渇望が潜んでいる。ならば必然的に、商人達を統制し勝手気侭な取り引きをさせない努力が必要になる。そこで、国で最も力ある国王にその権利を認め、代わりに統制させるのだ。しかし、ギルドが権力を握ればどうだ。その統制力たるや現国王をも上回ることは目に見えて明らかだ。他国もギルドを権力の媒介として認めざる得なくなる。貿易が通常通り再開されると分かれば、どうして商人達は反乱資金を渋ろうか。
「だから君も今のうちにギルドに所属して、媚びを売っておくべきだ」
意地の悪い微笑みで付け加えた。この一言でヴェルヴェットは全てを悟った。助言など全くの嘘っぱちだったのだ。単に嫌がらせの続きをしたいだけ。そもそもこの青年が他人のために為すことと言ったら、金の入る仕事か、己の欲求を満たすことのみだ。今回は優越感と称された後者だろう。ヴェルヴェットは苛立ちを覚えながら、しかし論理を重んじる科学者らしく冷静に話を吟味していた。腕組みをして目を伏せる。
ディスの話は、確かに筋は通っていた。理論上は可能だ。いつだったかシェオールが、「ギルドとレダン国の六大伯が、時々重なるんだ」と零していたことがあった。どこが似ているのかと尋ねると、彼は「power」とシザール語で答えた。その時は意味を理解出来なかったが、力を付けた六大伯達が皇帝に反旗を翻したこと、ギルドにもその可能がないと断言出来ぬことを暗に示していたのか。しばらく後、ヴェルヴェットは重い口を開いた。
「理論は通る。だが、机上の空論に過ぎない」
「へぇ……一体、何故? 」
すると彼女は、ディスの手から白のクイーンを奪い、鼻先まで持ち上げた。
「ギルドの長は、国王の従兄弟だ。仲が良いのに、反乱など起こすはずがない」
「しかし、やる気のない発言で国王のイメージダウンを起こした本人でしょう」
「正直過ぎるだけだ。私は、フィリップのことを昔から知っている」
だから有り得ない、と断固主張する。それから、お前も上司のことを悪く言うものじゃないと厳しくたしなめた。譲らぬ口調にディスは口を閉ざすしかない。形の良い唇が一文字に結ばれた。指先でチェス盤を叩くと、硬い音が響く。彼は思案深げに目元を覆い、しばらく何も発さなかった。しかし不意に、口角が上げられた。ふふ、と男から笑い声が漏れてくる。その声が次第に大きくなると共に、ヴェルヴェットは木が裂けるような音を聞いた。嫌な予感がして、視線を手元へ落とす。と、チェス盤と机にヒビが入っているではないか。
驚いて身を引いた途端、机諸共チェス盤が砕け散った。派手な破壊音が鼓膜を震わせる。青年の仕業だ。ヴェルヴェットは舌打ちをした。不必要にヘカテを使うなと、幾度忠告したことか。素直に聞き入れると思っていないが、己の管理くらい自分でなせと言いたい。無数の視線を感じながら、彼女は紡がれる言葉に耳を傾けた。
「嗚呼ヴェラ……僕は一つ、君に教えてあげなければならないね」
笑いを含んだ声が、猫なで声へ変わる。いつになく優しい声色が、酷く気味悪かった。ディスは、気を落ち着かせるために深呼吸を一つ。それから立尽くす科学者へ向かって、満面の笑みを投げ掛けたのだった。
「明日以降も、君の幼馴染みが息をしているなんて確証、どこにもないんだよ? 」
その笑みを見て、ヴェルヴェットはある記憶を思い起こした。ヴェラ、お前は必要以上にディスと関わるな――フィリップに言われた言葉が、今しがた漠然と理解し得たように思えた。