一章08―不死鳥の住う地―
脆くて柔い檻の中に彼はいた。手を伸ばせば突き抜ける。そうと望めば、狭い空間から出づることは至極容易なことと思えた。弾力のある壁に身を沈めていく。優しく包容され、赤子に戻ったようだ。何も見えない。全てが純白であるがゆえに、視力を奪われてしまったのだ。
ほうと息を吐いた。身を包む温もりが心地良いのだが、どこか寒気を感じた。最初は気にならぬ程度だったのに、次第にその感覚は勢力を強める。もう一度深呼吸をした。視力が戻っていたなら、白い吐息が眼前に広がっていたろう。
それから漸く彼は動き始めた。ひとまずは、絡み付く壁を振り払わねばならぬ。穏やかな空間に長くいたせいで、身体を動かす度に怠惰の感情が顔を出す。努めて逆らおうとするのだが、もがけばもがく程身体に、心に絡み付いた。束縛する何者かは、彼を逃がすまいと力を強めてきた。にも関わらず、強引に腕を突出した。途端、柔らかな薄膜が破れて向こう側に手が抜けた。突破った穴から、突き刺すような冷気が唸り声を上げて侵入してくる。指先から凍り付いていく感覚は、纏わりつく怠惰を一掃した。と、不意に生暖かいものが指へ触れたような気がした。少し湿っていて、ザラザラしている。
「――なにゆえ」
透き通った声が脳に響いた。見えぬならば用はない、と閉じていた瞼を薄く押上げる。やはり、何も見えなかった。しかしすぐに間違いだと気が付いて、今度はしっかりと瞳を見開いた。よくよく見ると、白妙に銀灰色の球が漂っていた。夜空に煌めく明星の如く、光を放つ。
「なにゆえ」
どこから響いているのか。と、白亜の空間に目を走らせた。しかしやはり、視力を奪わんとする白があるだけで。すると明星が少し距離を縮め、彼の周囲を旋回しながらもう一度音を発した。先程から問い掛けているのは、この球なのか。波紋を残す言葉は宙へ溶け、尾びれを引いて消えていく。抑揚のない声色は、知り合いの少年を連想させた。
カイザが黙ったままでいると、銀灰色の物体は螺旋を描き始めた。一つ、二つ。球は数を増し、回転速度を上げる。それに伴い、圧迫感が解かれていくことに気が付いた。自由になって身を起こすと、カイザの目の前で二つの明星は静止した。これは何なのだろうと眺めていると球の少し下、二つの間に三角錐が飛び出る。更に下に、割れ目が現れて薄桃色に染まっていく。やがて輪郭が出来上がり、首、胴体、手が生え、女の身体を形成していった。女は色の変化に富む長髪をなびかせ、顔を寄せる。
「なにゆえ」
その先は決して口にしない。答えのない問答。尻切とんぼでは望む答えなど返るはずもないのに、それでも問い続ける。なにゆえ。なにゆえ。繰り返される台詞は、カイザを正体不明の恐怖に駆りたてた。
女は一歩踏み出す。彼は後退さる。しかし意思を持った髪に手首を取られ、それ以上は叶わない。頬にそっと生温いものが触れた。指先に触れたものと同じ感覚。ザラザラして、湿っていて――女の舌だった。黒魔術を信望する輩が描くような印が刻まれている。カイザは気味が悪くなり、顔を背けた。すると湿っぽい舌は目元へ移る。流石に耐えられなくなり、良い加減にしてくれと頭を振り被った。
するとまた、なにゆえ、と返る。馬鹿の一つ覚えか。女はそれしか言わない。眉をしかめて銀灰色の瞳を見返すと、女は少し身を引いた。困惑した表情を浮かべて首を傾げる。拒絶されたことが、理解出来ないようだ。カイザは空いてる手で、顔を拭った。するともう一度、女は声を発するのだ。
だが、幾分声の質が変わったように思えた。不思議に思って、視線を上げる。女の藍色と、カイザの緑色が絡み合った。――そう、藍色と。知らぬ間に、女の瞳は銀灰色から藍色へと変化していた。左目はまだ明星の輝きを保っているが、こうして見ている間にも徐々に色を変えていく。
しかし変貌を遂げる女の変化は、それのみではなかった。波打つように変化する髪色は金に、血の気の失せた美しい容貌は丸に。時を経るにつれて目鼻が中心へ集まる。身丈は半分以下に縮み、我に返った時は幼子と見紛う可愛らしい姿が目前にあった。そして長い髪を二つ縛りした少女は、翡翠の瞳へ静かに問い掛けたのだった。
「なにゆえ、汝は――」
大量の冷水を浴びせ掛けられて、カイザは飛び起きた。鼻に水が入って痛い。頬を伝う水滴が、顎を伝って服を濡らした。濡れ鼠とさせられた彼は、気管に入り込んだ水を吐き出そうと、激しく咳き込んだ。
「……目、覚めましたか」
斜め上から高低のない声が降ってきた。顔に影がかかる。それを追って見上げると、金色とかち合った。夢の最後に出てきた色と同じだ。だが少女は髪だったのに対し、少年は瞳に黄金を宿している。シェオールが手にしている皮袋を認め、彼が水を掛けたに違いないと思考した。上品な外見の割りに、随分と乱暴な起こし方である。もう少々優しい方法が他にあったろうに、と鏡のような水面に向かって嘆息した。
「うん、すっかり目が覚め――って……え? 」
言いさして、戸惑う。先程カイザの視界に入ったものは湖に似ていた。はて、と身を乗り出す。するとシェオールの背後に、紫色の美しい湖を認めることとなった。波打つ巨大な紫水晶――ラシーヌ湖。春から秋にかけては紫苑色、そして秋から春にかけては紫紺に染まるクァージの国湖である。カイザは意識せず溜息を吐いていた。悲しみや呆れではなく、感嘆ゆえにだ。たゆたう紫は、南に昇ろうとしている太陽光を燦々と浴び、二人へ薄紫色の反射光を送りつけていた。
しばしの時、観光名地たる名に相応しい美観に浸る。それからふと先程の夢を思い出した。不思議な夢だった。――否、些か似つかわしくない形容だ。「不思議」と形容付けると、神秘的な印象が強くなってしまう。しかしどちらかと言うと「不気味」な夢であった。
カイザは指先を見た。凍付くような感覚が、微かに残っている。頬に触れてみた。気持ち悪い舌の感触が、ありありと蘇る。夢だと、分かっているのに。あの時拒絶しなければ、自分は二度と目を覚まさなかったろう、と足元から寒くなった。
「何を、言いたかったのかな……」
なにゆえ、と問い続ける銀灰色の女。赤から桃、桃から紫――変化する髪色は到底人間のものには見えない。それほどに、女は美しかった。他の場で出会っていたなら、惚れていたかもしれない。が、そうでないかもしれない。カイザは日頃より誰にでも優しいが、そう言った感情はさして持ったことがないのだ。
視線を湖へ釘付けたまま、数分思念の海へ沈んでいた。シェオールが眼前を過ぎって初めて正気に戻る。馬に水をやっていた少年へ、いつ着いたのか問うた。すると、さっきですと淡々とした返事が返ってきた。
「……戦いの後、気を失ってしまったんですよ」
若干不機嫌そうな声色で告げられる。なにせシェオールは、カイザが意識を失った後、傷の手当てをして湖まで運搬したのだ。馬車があったから良かったものの、と詰る少年に謝罪と礼を述べた。恐らく、口で言うよりも大変だったに違いない。自分より二回り程大きなカイザを手当てし、馬車まで運んでくれた苦労に深く感謝をした。
しかし、傷のことを意識し始めると痛みが戻ってきた。幸い血が出るような怪我はしていないが、逞しい御者から渾身の蹴りを食らったのだ。さぞかし素晴らしい痣が出来ていることだろう。コートや鎧を脱いで、服を捲ってみた。予想通り包帯が巻かれている。しかし、とてもではないが器用とは言えなかった。いびつな形に少々面食らう。シェオールは一見器用そうに見えるだけに、意外なことだった。彼が料理を苦手としているのは、食料難だけが理由ではないだろうと推測せざる得なかった。
面白そうに包帯をいじっていると、再びカイザの顔面を冷水が襲う。悲鳴を上げると、「文句でも……? 」と微かな怒りを込めて睨まれてしまった。不機嫌に輪をかけて不機嫌だ。慌てて否定し、取り繕うような笑みを浮かべる。シェオールと話す時は、器用不器用の話題には触れぬのが一番だ。と心に刻み付けたのだった。
「あ、そういえば短剣ありがとう」
服を着ると、シェオールから貸りた短剣が目に入った。御者を引きつける際、この短剣を使えとシェオールから受け取ったものだ。一見普通のものと何ら変わりないが、黒い柄に珍しい装飾が施されていた。砂時計や葉など、時と生命を司る図柄――戦いの象徴である剣の装飾としては、めったに使われぬものだ。柄の後ろには、装飾に使われている同じ金色で目玉が描かれていた。中心には透明な宝石がある。見たところ水晶か。何の仕掛けがあるか知らないが、お陰で命拾いをした。
「……カイザさんが、持ってて良いですよ」
「え、でも……」
短剣は差し戻される。当然の如く、カイザは渋った。するとシェオールは、嘆息を漏らす。
「また御者みたいなのが来たら、その短剣なしに対抗できますか」
「……うーん……無理、かな」
仕方なく受け取った。クァージにいる間は、貸してくれるらしい。いつ何時狙われるか分からない今時分、ありがたい。加えて愛剣が折れてしまったため、武器の調達にもなった。しかし、得体のしれない武器とは長く付き合いたくないのも本音で。
「どうして溶けなかったんだろう」
「……水晶に保護されているから」
独り言だったが、すかさず返事が返ってきた。どういうことかと首を傾げる。すると彼は難しそうな表情を浮かべた。
「レダンには……魔力を秘めた水晶があるんです。その欠片を持っていると、不思議な力を使えるようになります」
レダン国特有の文化、魔科学も水晶を利用している。しかし技術が向上するにつれ、人々は多方面へ応用し始めるようになった。御者の力も、その一環で産まれたのだろうとシェオールは語った。言われてみれば、水晶云々の話は耳にしたことがある。昔レダンのスパイを捕らえた時だ。楽しくない記憶を思い出し、そこから一つの結論に辿り着いた。
「じゃ、外国人労働者の話って、御者さん自身のことでもあったんだ」
「……恐らくは」
他国の人間は、クァージの国王のためにギルドで働く。クァージの人間は、レダン国のために働く。他国に迷惑を掛けるか掛けないかの違いはあれど、どちらも同じことだ。戦争で失ったものを、他国で稼いだもので賄うとはなんと皮肉なことか。カイザは今の時代を憂いた。本来ならば、あの御者も国王へ忠誠を誓ってしかるべきだ。なのに、より利益のあるレダンへ身を売った。言い知れぬ寂漠の念が、彼を襲った。
「……水晶には水晶で対抗するのが基本です。倒したいならば、水晶を壊すことです」
目には目を、と言ったところか。海を隔てた大陸に、似た格言を記した法典があったはずだ。実にシンプル。するとシェオールは、ただし例外はあります、と眉を寄せた。
「例外って、例えば? 」
「……王族の一部とか」
明らかに今、鼻で笑った。王族の一部とやらが、よほど嫌いなのか。これ以上機嫌が悪くなられては困る。と判断し、話題を逸すことにした。
「あーっと……そうそう、お友達には会えたのかい」
少年が相乗りを要望した理由は、湖で待っている友人――もといギルドの相棒と落合うこと。その後賊討伐の仕事をすると聞いた。しかし、カイザ達以外に人影は見当たらない。さざめく波間に、鳥類の鳴き声が響いているのみだ。寝ている間に再会したとも考えられる。すると、シェオールは「否」とだけ答えた。
「いなかったの? 」
「……待ちくたびれたんでしょう」
つまりは、帰ったと言うこと。開いた口が塞がらなかった。御者との戦いを乗り越え辿り着いたのに、帰ってしまったとは。友人としてどうなのか。諦めたような乾いた笑いが返ってきた。シェオールもなかなか上等な性格と認識していたが、相棒は更に上を行くらしい。この話題こそ地雷だった、とカイザは心中で頭を抱えた。
「賊討伐も、ディスが完了させたようです」
そこだけは感謝します、と少年は肩を竦めた。ディスと言うのは相棒の名だ。広くは「金の梟」の呼称で親しまれている。しかし彼が有名なのは、知識が豊富だからではない。文人部隊所属にも関わらず、戦闘部隊よりも強いからだ。ゆえに、一人の文人に二人戦闘部隊が必要なところを、シェオール一人で間に合わせることが可能なのだ。
「そっか。なら、もうすることないんだね」
「いえ……もう一つ大切な任務が」
まだあるのかい、と驚くと、賊討伐はオマケみたいなものだと流された。では相棒は、大切な任務を放り出して帰ってしまったのか。しかしシェオールは、構わないのだと被りを振った。この仕事は少年の能力がなければ出来ない。逆に言えば、彼さえいれば可能なのだ。能力とはなんだと考えを巡らせていると、少年は空を見上げた。
「……おいで」
恐らく、そう言ったのだと思う。各国を繋ぐ共通語はシザール語だ。しかし正規の発音とは異なっており、必ずしもそうとは言い切れなかった。レダン鈍りとも違う。正直なところ、カイザの判断も単なる勘に過ぎなかった。
華奢な腕が差し出された。何かが起きる気配はない。しかし、小鳥達の声が僅かに静まったようにも思えた。少年は、黙って立ち続ける。と、しばらくして梢が揺れた。数羽の小鳥が彼の許へ舞い降り、一斉に存在を主張し始めた。小鳥達の頭を優しく撫でる。すると、僕も僕も、と彼らは身を揺らした。小鳥と戯れる少年は、至極優しい笑みを浮かべていた。普段の表情からは、想像もつかぬことだ。
「ど……どう言う……? 」
かの少年は、お喋り好きな小鳥達に相槌を打っていた。のどかな光景だが、同時に奇妙でもあった。当てずっぽうに頷くならば分かる。だが、そうは感じられなかった。小鳥達の言葉を理解しているかのように見えるのだ。
「まさか……シェオール君、鳥語がわかるの? 」
驚愕しているカイザに、シェオールは肯定の笑みを向けた。いわゆる小鳥効果か。人間と小鳥に対する笑みの種類が、全くと言って言いほど異なっていた。シェオールも普通に笑えるのだと少しばかり安心した。柔らかい笑顔を浮かべると、幾分幼く見えるらしい。そのせいなのか。一瞬、金髪の少女と面影が重なった。
目を擦っていると、シェオールが小鳥を解放した。「行きましょう」と呟く。だが、唐突に言われても、どこにいくのか知らされていない。湖から離れるようだが、元より観光しに来たのだ。ここを離れて、ラシーヌ湖名物を見逃すことは遠慮したかった。僕は行かなくても良いだろう。とカイザは草の上へ座した。すると先を歩いていたシェオールが振り返った。先程の優しい笑みはどこにもない。一旦立ち止まり、常の鉄仮面で呼び掛けた。
「カイザさん、不死鳥に会いたくないんですか」
一言残して、シェオールは身を翻した。何気なく放たれた台詞に、胸が高まる。不死鳥、フォイエクス、クァージ国の聖鳥。呼び名は様々だが、ラシーヌ湖を有名にしているもう一つの要因である。これこそが、大陸中の人間が危険を侵してまで巨大湖を訪れる究極の目的だった。待望の不死鳥へ会えるかもしれないと聞かされ、カイザは勢いよく立ち上がった。鼓動が早い。翡翠の瞳は期待に満ちていた。不死鳥は燃えるような紅色をしていると聞く。加えて、今年は変遷期だ。旅に出ようと決意したのも、大部分はそれを見たいがためだ。
「も、勿論行くよ……! 」
シェオールが何をするか見当も付かないが、付き合う価値はあろう。運んでくれたお礼もしたいところだと胸を弾ませ、鳥語を解す用心棒を全速力で追い掛けていった。