序章07―黒い霧―
俺は、崩れ落ちる王子さまの身体を眺め下ろしていた。微かに口角を上げ、転がった物体を片足で仰向けにする。と、高い鼻の両脇に陣取っていた鮮やかな翡翠はしっかりと閉じられ、その穏やかな表情はどこかイオ神を連想させた。
それから、駆けてくる足音に顔を上げた。レダンのガキだ。ちっちぇ頃から全く代わり映えのしねぇ、仏頂面。一晩仲良く過ごした友人がやられたってのに、やつは至って冷静だ。らしいな、と心中で呟き、向かい来る少年剣士をにやりと歓迎した。
朝日を浴びて輝く金色は、十歩程手前で斜めに地面を蹴った。かつては亜麻色だった髪。それは今や漆黒に染められ、銀刺繍と金瞳の間で一際目立っていた。
小柄なガキは、素早く俺の死角に入り込む。次いで、風を切る音が鼓膜を震わせた。しかし、幾ら試したところでこの俺を切れるはずがねぇんだ。それを解らせてやるために、瞳を閉じて諸手を上げた。
振るわれた大剣は、俺の頑強な身体を切り裂いていく。肩から袈裟掛けに真っ二つにされ、分解する時特有の高揚感に包まれた。だが、生憎と俺は死なねぇ。裂かれた部位は瞬時に黒い霧と化し、それは緩慢な速度で再び一つに戻っていった。
「何度殺ったって、死にゃぁしねぇよ」
せせら笑うように告げると、無表情が不機嫌そうに歪む。だが、相手も馬鹿じゃねぇらしい。効き目のないことが解ると素早く後退し、口許をへの字に曲げた。
「……あなたは、何者? 」
「シザール王子さまを案内した御者――なんて答えじゃあ、満足してくんねぇか」
髭を擦りながら答える。するとやつは苛立ち紛れに眉を寄せ、「真面目に答えろ」と呟いた。しかし、その期待通りの反応が楽しくて堪らねぇんだ。あーあ、悪い癖が出始めたぜ。と自嘲しながら、肩を竦めてみせた。
「はは、ご主人様に忠実なただの下っ端さ」
「ご主人様……? 」
案の定、食らい付いてくる。こんな引っ掛かり易さで、よく今まで逃げ延びてたもんだ。思わず笑い出しそうなのを懸命に堪え、もう少しだけ遊んでやる。
「そうだ。ボウズもよーく知ってる、な」
意味深な台詞を放つと、苛立った表情が一層歪んだ。俺は混乱しているガキを見て益々気分が良くなり、ちょっとした親切心で、それとなく正しい方向を示唆してやることにした。
あご鬚をゆっくり撫で、思案深げに視線を逸らす。
「はは、そういやぁ随分たくましくなったよなぁ……ボウズ――いや、オラクル姫とでも呼ぶべきか? 」
はっと息を飲む音が聞こえた。それに思わず緩んだ頬を、慌てて引き締める。我ながら、なんとわざとらしい演技だろう。しかし、効果はてきめんだった。やつは大きな金目を見開き、可愛らしい口許を一文字に結んだ。
そして姫が黙りこくってしまったのを良いことに、俺はゆっくりと追い討ちを掛けていく。
「魔科学使いの兄は元気か? あんたは兎も角、あのゲヘナ王子がレダン国から亡命したって聞いた時にゃびびったぜ。なんせ兄貴のほうは、女帝のお気に入りだったからなぁ」
心底不思議だ。と言う風に語りかける。すると、姫はしばし沈黙。そして長い静寂の後、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……どうして、分かったの」
そう、この瞳だ。臆することなく睨み返す金色。かつて我が主へ会いにきた彼女は、この瞳で弱り切った俺を見つめていた。否定も誤魔化しもしねぇ潔さが、若き日の親友を彷彿させる。
「……随分、俺達を知ってるんだね。だけど、本来クァージ国王に仕えるべき人間が、アリアドネの下に付いて何をするつもり? 」
声は平静を装っていたが、不機嫌そうな表情は強張っていた。吉兆の金色は微かに揺らぎ、見る者の心を波立たせる。これ以上話していると余計なことまで口走ってしまいそうである。
おちょくり過ぎたか。昔からこの金色に弱い俺は、そろそろ潮時だと判断した。そして、
「流石にそこまで教えてやる義理はねぇな」
と、愛刀を構えて強引に話を断ち切ったのだった。
それでも、可愛らしかった――今も可愛らしい――姫は、何を考えているか分からない顔で佇んでいる。そこで、どうした戦わねぇのか、と突っ突いてみる。すると彼女は、相変わらずの無表情で大剣を持ち上げたのだった。
しかし、その一連の動きにはどうにも覇気がねぇ。俺は訝しげにしばらく挙動を見守ってみるも、以降も戦闘しようと言う意志は見られない。お転婆姫のあまりに静かすぎるその態度に、俺は首を傾げざる得なかった。
太陽が昇るにつれて、小鳥の声が一段と高まる。煩わしいやつらだと森を一瞥し、それから前方へ視線を戻す。が、俺は思わず眉間に皺を寄せちまった。姫が、微笑を浮かべているように見えたのだ。
「……オラクル姫、何か楽しいことでもあったのかい? 」
滅多に笑わねぇ人間が笑ってる様は、至極不気味だ。しかし放たれた問い掛けは、綺麗に無視されてしまった。
オラクル姫は、緩やかな動きで胸元へ片手を当てる。それは祈りのようにも、わざと時間を長引かせているようにも見えた。それから、二歩、三歩。ゆっくりと後退し、森の入口まで行ったところで立ち止まると、なんと彼女は、大剣を降ろして戦闘体制を解いたのだった。
その行動に、今度はこっちが混乱しちまった。怖じ気ついちまったんだろうか。しかし、姫の性格からして到底有り得ねぇことだ。なんたって、反乱軍に王宮が囲まれた時も、国軍を引き連れて真っ先に突っ込んでいったくれぇだ。
そんな勇ましい姫さまが戦いを放棄する――こりゃあ、何か企んでやがる。俺は長年の勘からそう判断し、面倒な事態になる前に、決着を着けようと標的を定めた。
そして、駆け出そうとした刹那――
「見つけたぞ、ギルドの犬め! 」
「んな…?! 」
怒号が響き渡り、小鳥達が一斉に飛び立った。その合間から現れたのは、鮮やかな布を身体に巻いた男達。百合の紋章は言わずもがな、盗賊団「フォイエクス」を指している。
流石の俺も、盗賊達の予期せぬ出現にうろたえた。よほどのことがない限り、やつらは雨の日しか活動しない。それは昔ながらの掟であり、周知の事実。覆したことがあるのは、シザール国が侵入してきた数十年前の、あの日だけだったはずだ。
「……なるほどな。よほどのことが、あったってことか」
ギルドと言ってるあたり、姫の相方が一足先にやつらを強襲したんだろう。任務の内容、そして相方の性格と合わせれれば、その様は容易に想像出来た。
しかし、厄介な事態になった。残党のやつらは
「ギルドの人間」を俺だと勘違いしているらしいのだ。
俺は繰り出される怒濤の攻撃を躱し、その胴体を曲刀で切り裂く。すると、直ぐさま別の人間が間合いに入り込み、胸元に下がる水晶を掠る。
ったく、鈍いくせに数だけはいるらしい。些か呆れながら相手をしていると、いつの間にかカイザ王子との距離が開いてしまっていた。良いよな。寝てりゃ戦わずに済むんだからよ。
そして、死体だと認識されている王子さまを羨ましく思う一方、姫の姿が見えないことに疑問を持つ。あいつ始めからこれを狙っていやがったな。と、本能で察知し、舌打ちをした。
今や、盗賊の目は全て俺に向いていた。遊び半分とはいえ、邪魔くせぇことには変わりねぇ。そろそろ忍耐の限界だ。と考え始めた頃、視界の端で木々が揺れた気がした。
俺は余裕綽綽で遊びながら、そちらへ意識を向ける。と、突然木々の間から金色の瞳が姿を現したのだった。彼女は、俺がシザール王子から離れたのを認めると、素早く次の行動に移す。
「カイザさん……カイザさんってば。起きてください」
「……う……」
黒髪の王子を揺り起こす声が聞こえる。だが、盗賊達はこれっぽっちも気づいちゃいねぇ。こんな馬鹿じゃあ、ギルドに潰されるのも無理ねぇか。攻撃を受け流しながら、呑気に考える。
「あれ、シェオール君? 一体何が……? 」
「……話は後です。それより、一つお願いが……」
呻き声と共に、疑問が紡がれた。そして金色が、俺に視線を向けながら何ごとかを囁いていた。
――このままじゃ、逃げられちまう。
俺は、焦燥感に囚われた。ここでやつを逃がす訳にはいかない。カイザ王子には、世界中の人間代表として演じて貰わなけりゃならねぇ役目があるのだ。――公開処刑と言う、大波乱の幕開けを。
いよいよ崖っぷちに立たされた俺は、群がっていた盗賊どもを苛立たしげに、一挙に薙払った。すると曲刀の軌跡を辿って上半身がゆっくりと滑り落ち、どさり、と鈍い音がこだまする。そして残った下半身から血渋きが大気に飛び散り、生温い紅の雨を降らせた。
ぬめりとした感触。頭上から滴る血潮を味わいながら、振り返る。だがそこには、カイザ王子の姿は見当たらなかった。ただ一人、喧嘩っ早い姫が佇んでいるだけだ。
「挟み撃ちって訳か。悪くねぇ案だ」
挑発するように呟く。すると姫の正反対側、つまり俺の背後から、カイザ王子がゆっくりと姿を現わした。先程俺が折った刀はしっかりと鞘に収まり、武器の役割は果たしていないようだ。やつは困ったように微笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「まさか御者さんが、僕の命を狙ってくるとは思わなかったよ」
「そりゃあ失礼したな。しかしなぁ……どうやって俺を殺るつもりだ? 言っとくが俺は、不死身だぜ」
「はは、言い得て妙だね。でも――」
王子さまは、最後まで言い終わらぬうちに腕を振り被った。袖口に潜めた短刀が光り、それは俺目掛けて降ろされる。
「一概に、そうとも言えないんだろう? 」
優男の見た目とは裏腹に、強烈な一撃。勝利を確信した言い回しになにがしかの不安を覚え、曲刀で身体を庇う。しかし体勢を整える間もなく、やつは背後に回り込んだ。
鋭い斬撃が、雨あられと降り注ぐ。その度に俺は黒い霧と化し、再び戻った。しかし素早い動きは脳内に残像を残し、怪我をしないにしても、視界の悪さは否めなかった。
こいつ、噂以上に手練れだ。だがそれ以上に、気にかかる点があった。俺の刀に触れても、王子の短刀が溶けねぇのは何故か。
「王子さま、あんた何をした? 」
「残念ながら、僕は何もしてないんだ」
カイザ王子特有の、柔和な笑みで返答される。てぇことは、姫が何かしたに違いない。それからふと、こいつが俺の標的じゃなけりゃもっと仲良くなれたかもなぁ。なんて考えて、眉をしかめた。
相手の攻撃を、ありったけの力を込めて弾き返す。すると王子も負けじと押し返し、二人の力は拮抗していた。
この分なら、俺の勝ちだ。剣が溶けようと溶けなかろうと、所詮相手は普通の人間。勝利を確信した言い回しも、単なるはったりに違いねぇ。
だが俺はこの時、最大の過ちを冒していたことに気付いちゃいなかった。短刀とカイザ王子に気を捕られ過ぎて、背後に潜むオラクル姫の存在を忘れ去っていたのだ。
俺が勝利に酔い痴れて宙を薙払った刹那、カイザ王子は突如として飛び退いた。そしてやつが身を屈めたと思うや否や、間髪入れず背後から胸元を貫かれる。その途端、甲高い音色が辺り一帯に響き渡り、全神経に震えが走った。
姫の大剣が、胸元の水晶を貫いていたのだ。
これが常なら、身体は霧散して再び元に戻るはずだった。しかし主と俺を繋ぐ水晶が破壊された今、それは叶わぬ夢。水晶のひび割れはみるみる内に拡大していき、数十年前に俺を襲った恐怖が、再度呼び起こされた。
何故これが唯一の弱点だと分かったんだ。と脳裏を過ぎる。しかし、長年水晶と暮らしていたオラクル姫なら、知っていて当然だろうかと思い当たった。
ああ、後少しだったんだ。こんなところで終わってたまるものか。
遠い薄膜越しに、俺を呼ぶ声が聞こえた。プロメテウス、プロメテウス。優しい、声色。俺はそれに応えるべく、懸命に震える腕を持ち上げた。しかし、水晶が綺麗な音を響かせて砕け散ると共に、俺の身体を保っていた結合も、無残に崩壊していったのだった。
直筆で書かないで、いきなり携帯で書いた話でした。なんとなくリズムが悪いですね。
挿絵提供:Reliah様
素敵なカイザをありがとうございました!