序章06―御者の思惑―
森は、ささめき合う。
深き闇に戯れるそよ風が、草花を揺らす。夜行性の小動物達がはい回る音が、薄暗い木々の向こうから聞こえくる。
カイザは大岩に背をもたれ、心地よい葉擦れに耳を澄ませていた。もうそろそろ、夜が明ける。美しい三日月が西の空から光のヴェールを降ろし、一帯を照らし出していた。小さな友人を隣りに、こんな夜も良いなぁと小さく微笑む。
しかし、御者はちゃんと見張りの役目を果たしているのだろうか。酒飲み事件から、彼に対する信用はがた落ちだった。既にカイザの番は終わっていたが、不安になって身を起こした。
なんとなく、寝付けない。感覚が妙に研ぎ澄まされ、心が沸き立つのだ。
最初にぐっすり休んだせいか。それとも、不思議な少年との出会いに気持ちが高鳴っているのか。しばし思案した後、両者だと判断し、音を立てぬよう毛布を畳み始めた。
「――…そりゃあ俺が困る。だから――」
喉を潤していた時、近くで囁き声が聞こえた。御者に似た少ししゃがれた声。何者かと話しているらしい。もしかしてシェオール相手に話しているのか、と振り返る。が、少年はすやすやと寝息を立てていた。
「他に誰かいる……? 」
御者に独り言を呟く癖はなかったはずだ。昼時話題に上っていた賊が脳裏を過ぎり、警戒心を強めた。片手で地面をまさぐり、二本の愛刀を引き寄せる。
「確かであろうな」
音を立てぬよう音源に近付く。するとソプラノの、見知らぬ声がした。エコーが掛かったような不思議な響きだ。それに、例の声が自信満々に返答する。
「当たり前だ。俺だって伊達に御者業して色んな人間見てねぇよ」
「……そうじゃな、主を信じよう。して、どうやって捕まえるつもりじゃ? 」
「そこら辺は俺に任せてくれ。ただ、一匹……レダンのガキが邪魔にならなきゃ良いが……」
はっと息を飲んだ。レダンのガキ――それはシェオールのことだと、直感的に推測する。良い相談でないことは確かだった。そして、姿なき声が思慮深げにふぅむと呟いたのが聞こえた。
「ガキならば主だけでどうにかなろう。しかし…シザールの王子は、相当に腕が立つと聞くぞ? 」
「大丈夫だ。良いから俺を信用しろって」
「……よかろう。何にせよ、王子の方は生かしたまま捕らえるのじゃ。シザール王子ともなれば、幾らでも使い道はあろ――」
カイザは、最後まで聞き終わらぬうちに身を翻した。しっかりと剣を握り締め、抜き足で荷物のところへ戻る。
正体が、バレてしまった。一般市民を装っていたつもりだが、分かる人間には分かるものなのだろう。とにかく、カイザに取って今は逃げることが先決だった。
全く、なんて素敵な夜だ。カイザは嘲笑じみた笑みを浮かべ、緑色の瞳を細めた。少しずつ好きになっていた相手だけに心の喪失感は否めなかったが、今は感傷に浸っている暇などない。
息を殺して、辺りを見渡した。と、シェオールは未だ寝息を立てている。これは起こすべきだろうか。安らかな寝顔を見ると、これから行う行動がはばかられた。だが、御者がシザール王子の不在に気がついた時、怒ってシェオールに矛先を向けないとも限らない。
カイザはゆっくりと屈んで、顔を近付けた。長い睫毛は亜麻色。こうして黙っていると、女の子のようだ。何処かで見掛けたように思えたが、雑念を振り払い、揺り起こそうと手を伸ばした。――が。その手が触れる寸前、手首をパシッと捕らえられる。
カイザが驚いて身を引くと、金色の瞳が静かに開かれた。
「……起きてます」
「び、びっくりした……! 」
してやったり。シェオールは滅多に見せぬ微笑を浮かべ、左右に視線を走らせた。それから差し出された手を取ると、カイザは不満そうに相手をなじった。
「全部聞いてたなら、自分から起きてくれれば良いじゃないか」
「……貴方はどうするのかと思って。それに……あれは聞き覚えのある声でした」
当然だろうと思った。何せ、今日一日中ずっと仲良くしていた人間の声なのだ。聞き覚えがなければ、逆に頭を疑われると言うもの。カイザは嘆息し、苦々しげに笑みを浮かべた。
シェオールはそれを無表情で見返し、素早く荷物を纏める。そして乱雑に腰に巻き付けると、声を低めて囁いた。
「……兎に角、今は生き延びることを考えましょう」
彼はカイザを一瞥すると、鞘から大剣を抜き取った。それから、馬車の方向へ大股で歩き始めたのだった。
しかしそちらは、御者がいる方向であった。カイザは少年の意図が分からず混乱する。そのまま突進めば、目覚めていることが分かってしまうではないか。
シェオールが一体全体何をするつもりか知らないが、これでは生き延びるもへったくれもなかった。カイザは、馬車と距離を縮める少年を引き止めようと後を追う。
「シェオール君、待った…! 」
「……何か? 」
「何かって……それを聞きたいのは僕の方なんだけど」
すると少年は明らかに眉をひそめた。表情が乏しい割に、嫌悪を表す術は多種多様に持ち合わせているようだ。彼は立ち止まると、淡々と紡ぐ。
「御者を殺るんです」
そんな分かり切ったこと聞くな。と、言葉の端々から刺々しいオーラが出ていた。
「でも、そんなことしなくたって僕達が逃げれば良いことだよ。――むやみやたらに、人は殺したくない」
一生背負うことになろう、戦争の咎。かつて彼も、意気揚々と戦場を駆けていた頃があった。だからこそ、これからは無駄な血を流したくない。
カイザは少年を説得しようと試みた。すると相手は軽く首を傾げ、金色の瞳で覗き込んで来たのであった。
「……貴方は、分かってない。ここで殺らなければあいつはまた来る。……いや、あいつが来なくたって、噂が広がって数え切れない刺客が貴方を狙うようになります」
幼子を諭すように、紡がれていく。
「あいつを見逃せばその場は良いかもしれない…でも結局は、多くの人間の命を奪うことになるんですよ」
シェオールの言い分は正当だった。一目で荒波に揉まれて来たのだと分かる思考。カイザもかつて先陣切って剣を振っていた頃は、「より少ない犠牲で済ませるために」そう考えていたものだ。
しかし、カイザももう子供ではない。弟も結婚し、人間と言うものを昔以上に肌で感じるようになった。どんな人にも、愛しい人はいる。守りたい人はいる。これは、二十七年の人生を通して、漸く分かったこと。
「……どうするんですか、カイザ=シザール」
責めるでも、怒るでもない。シェオールは感情の籠らない声で本名を呼んだ。二人は静寂に立ち尽くす。金色が、決断を急かしていた。
ああ、痛い。沈黙に囲まれたカイザは、不意に目眩を覚えた。自分は、今まで何のために戦っていたのだろう。目標があった弟とは違う。ただひっそりとキースを見守り、困難にぶち当たった時にそれとなく手を貸してやる。そんな生活。そこに不満があった訳ではない。可愛い弟の役に立てていた喜びがあっただけ。それだけで、目標も意味も存在しなかった。
カイザは悩まない性格が自慢だったのだが、激しく揺れ動いていた。だが誰かに助言を求めたところで答えは決まり切っていた。ここで息の根を絶つべきなのだ。しかし彼には、シェオールの案がどうしても了承しがたかった。
彼はとうとう、二人だけに聞こえる音量で決断を下した。
「やっぱり逃げよう。――大丈夫、馬を奪えば追い付いて来られないはずだよ」
穏やかに告げると、少しの間の後、シェオールは頷いた。
「……分かりました。じゃあ――御者を消してから逃げましょう」
「うんうん、そう――は? 」
あれ。今なんて言った。カイザは微笑みを浮かべたまま凍結した。先程の葛藤を無下にするような台詞が聞こえたのだが、まさかそんな。頼むから聞き間違いであって欲しい、と目前の少年を見遣る。
だが、シェオールは天使の微笑を浮かべると、大剣を片手に勢いよく駆け出したのだった。
「ちょ、シェオール君?! 」
元より、彼の意見を聞き入れるつもりなどなかったに違いない。カイザは今日程「時間を返せ」なんて思ったことはなかった。そして、驚愕のあまり立ち尽くす。
しかしシェオールは、待って、なんて言ってる間にも御者との距離を縮め、あと数歩に迫っていた。そして大きく地面を蹴ると、巨大な剣を横に凪ぎ――
ひっそりとした森に、金属音が響いた。シェオールの剣は御者の曲刀に阻まれ、胴体まで届いていない。咄嗟に防衛した相手はありったけの力で少年を押し返し、素早く距離を取ると体勢を整えた。
「シェオール君! 」
「ボウズ、後ろから狙うたぁ卑怯だなぁ」
卑怯はどっちだか。とシェオールが呟き金眼で睨み付けると、文句を言いたそうなカイザを片手で制止した。
「……待って。あいつと話したいこと、あるんです」
御者はにやにやと刀で遊んでいた。半円をかたどった刀は、奇妙な弧を描く。彼は小柄な少年を見下ろしながら、一つ口笛を吹いた。
「……貴方は、クァージの国民なのに国王を裏切るの」
ぽつりと、シェオールが呟く。国王とやらに対する同情がこもった、寂しそうな視線だった。
「言っただろーが。金さえ払って貰えりゃ、何だってするってなぁ」
それは外国人から来ている傭兵の話だったはずだ。カイザは二人の話が理解しがたく、眉をひそめる。しかし相手は嘲笑を浮かべただけで、それ以上言葉を発しなかった。
こうなった以上、戦う他に道はないのだろう。カイザは意を決して握り締めていた拳を解き、二本の剣に手を掛けた。そしてゆるりと構える。しかし、手を出さないで、とシェオール。するとカイザはその声に小さく微笑み、数歩後退すると剣を再び鞘にしまったのだった。
相手が戦闘体勢へ入ったことを認めると、御者も深く腰を屈めた。そして曲刀を前に突出し、舌なめずりをした。
――それは、一瞬だった。
気が付いた時には、その場にシェオールの姿がなかった。ひとっ跳びで御者の間に入り込み、大きく宙を断ち切る。彼が振った剣の先には、御者の姿があった。
終わった。
その瞬間誰もがそう思った。だが大剣が振り降ろされた時、シェオールは御者が不敵に笑ったのを確かに見た。そして剣が相手を切り裂くと、男の身体は真っ黒な空気となって霧散してしまったのだ。
「……え…? 」
一滴の血痕も残っていない。到底人間技とは思えぬ現象に、カイザは言葉を失ってしまった。確かに剣は身体を切り裂いていた。御者は死んだのだろうか。
「何が……」
無意識に呟いていた。それに反応して、少年は地面に刺さった愛剣を引き抜く。彼もカイザ同様、不可解な出来事に厳しい表情を浮かべていた。
空が、白んで来ている。夜明けを告げるさえずりが、この場に酷く不釣り合いだった。
しかしシェオールはそれを聞いて不意を突かれたように顔を上げる。そして振り向くと、焦躁した表情で声を荒げた。
「カイザさん! 後ろ! 」
金色の警告と共に、背筋が凍り付いた。間違いない。さっき感じた寒気は、御者の殺気だった。カイザは反射的に剣を鞘から引き抜き、片足を軸に身体を回転させると、二本を交差させて攻撃に備えた。
曲刀と二本の剣が交わり、再び金属音が響いた。カイザの目前には、シェオールに斬られたはずの御者。交差した三本は一旦離れ、それから曲刀の攻撃が開始された。
第二撃、第三撃と繰り出される攻撃の波を、カイザは辛うじて受け流していく。そして幾度か剣を交えた後、御者が渾身の力で刀を降り下ろした。しかし、カイザもそれほど柔ではない。彼も持ち得る力で対向し、上手く防いだ――が、甘かった。
御者の刀に触れた途端、カイザの愛剣が溶解し始めたのだ。彼が驚く間もなく二本の剣は折れ、身を守る術もないまま、鋭い蹴りを腹部に入れられる。途端吐き気が込み上げ、激痛のあまり身体が傾いだ。
カイザは、くそ、と王宮では言ったことのない悪態を吐く。歪む視界の中には、大剣を構えたシェオールが駆けて来るのが見えていた。
ねぇ、女の子はそんなことしちゃ危ないよ。なんて、自分でもよく分からないことを考えながら、意識を手放したのだった。