序章03―湖観光―
「カイザさんっているかい? 電報が届いてるよ」
「ああ、はい。ありがとう」
「恋人かい? 良いねぇ若いってのは」
「あはは……恋人がいたら、もう万々歳なんだけどね」
残念、弟からなんだよ。カイザは若干寂しさが混じった笑みを返し、ぼそりと呟いた。
この宿屋は故郷シザール国の北方、クァージ国の関所前。彼が王国を旅立ってから、数ヶ月が経っていた。
容姿端麗な彼は行く先々で目立ってしまうようだ。カイザは日焼けした腕をめくり、電報に目を通した。それから、それはすぐに丸められる。
「異常ナシ」
これだけが書かれている。つまり、特筆すべき事件は起こっていないらしい。
にしても、もう少し愛想の良い文面でも良いだろうに。そう思うも、あの弟にそれを求めるなど骨折り損に他ならない。カイザはこれでもキースの性格を熟知しているつもりだった。
彼は
「無事だと分かっただけでも良い」と筆を執り、近況を書き記すと気合い十分に宿を出たのだった。
「さて、まずは馬車を借りてー…」
シザール、アイリス、クァージ。北へ北へと北上し、彼は三日前この国に着いたばかり。故郷の心配性な弟と連絡を取る為、数日動けない日々が続いていたが、それももう終わり。
関所で入国手続きを済ませ、軽い足取りで国境を越えた。まずは名物、ラシーヌ湖へ向かうことに。 馬車ですれ違う人々は、鮮やかな衣服を身に着けていた。特有の色彩に風土の違いを実感せざる得なかった。見たことのない植物も沢山生えている。
カイザは紙切れを取り出して、気がついたことを一つ一つ書き留め始めた。暇つぶしを兼ねてのことだが、なにより知識はあるに越したことはない。
「よぅ旅のお人、あんたどっから来たんだい? 」
「シザールだよ。まだ着いたばっかりなんだ」
「シザール? はぁ〜こいつぁ驚いた。あの冷血漢の国からかい」
「冷血漢? ……あのー…念の為に確認するけど、キース国王のことかな」
「そいつだよ。他に誰がいるんだってんだい」
「あー……」
我が弟ながら、酷い言われようだ。しかしカイザは真向から否定出来ずにいた。
キースは英雄と称えられている。だがそれ国内のみにすぎず、他国からすれば彼は単なる侵略者くらいにしか映らないのだろう。 想像してみてほしい。領地を奪い、自国の拡大を図るその姿は、なんと冷たいことか。
だがカイザは、本来の弟を知っていた。約束のために生涯を掛けた、不器用な弟を。
「あんな国王でも、優しいところはあるんですよ? 」
「そうだな。自国の国王を悪く言うやつなんて、いるもんか」
「あ、あはは……ご尤も…」
この御者は、キースの良いところについて話し合うつもりはないらしい。カイザはペロッと舌を出し、再び物思いに没頭した。
こう言う人間は、言い分に賛同してくれない人間に出会うと、相手が
「そうだ」と言うまで持論を語る。カイザも早々に切り上げたほうが無難だと判断したようだ。
おしゃべりな御者が一方通行の会話をしたまま、いくばくか時が流れる。そして最初の一日は、そのまま何事もなく終わってしまった。
湖は国端に位置し、辿り着くまで少なくとも五日はかかる。したがって御者とは二週間契約を結んでいたが、これ以降もこの調子で行くのだろうと考えると、なんとなく胸が重くなった。
カイザが気がつくと、辺りの景色からは新鮮味が消えてしまっていた。唯一の楽しみも失せ、馬車旅は退屈を極める。そして彼は次第に、懐かしい思い出に耽ることが多くなっていった。
王位だとか継承だとか、堅苦しいものとは全く無縁だったあの頃。キースとリオンが交わした約束がなければ、弟が戦争に身を費やすこともなかった。そして、シザールもあれほど大国にはならなかっただろう。
ほんと人生には何があるのか分からないなあ。と結論に達した時、ふと異変に気づいた。馬車の速度が落ちている。
「どうかしました? 」
「ああ……前に……」
「前? 」
なるほど。窓から身を乗り出すと、一本道の先に黒い塊がいた。子供だろうか。小柄なそれは、真直ぐにこちらを見ているように思えた。
なにせ顔が見えない。だから身体の向きでそう判断したに過ぎない。馬車は停止に向かい、黒の前でピタリと静止した。御者と黒とで、話し合いが始められた。
一時、カイザは取り残された気分になる。そしてそのまま手持ち無沙汰で着席していると、声を掛けられた。
「旅のお人、この兄ちゃんが湖まで相乗りさせて欲しいってよ。どうするかい? 」
「……お金は払います。用心棒としてでも良いので、乗せて頂けませんか」
「えっ? や、お金なんて気にしないで良いよ。困ってる時はお互い様! 一緒にどうぞ」
カイザは持ち前の柔和な笑みで、その塊を招き入れた。黒い物体は深く礼をすると、スルリと乗り込む。礼を発せられた声は、少女のような少年のような。つまり、それだけでは性別を判断しかねるものだった。
車輪の音が響く。
馬のひづめが響く。
乗り合わせたものの、沈黙を保つ二人。しかし背後で絶え間なく続く騒音が、彼らの気まずさを緩和していた。
しばらく経った頃、不意に黒い塊が被っていたフードが取り去られた。
見たところ二十歳前後の綺麗な少年だ。金色の瞳が、きらきらと輝いている。流れるような黒髪は上で束ねられ、上品かつ活発的な印象を彼に与えていた。
彼は身の丈程もある大剣を立て掛け、前を向く。
「突然申し訳ありませんでした。俺はシェオールと言います。友人が湖にいて、早く行かなきゃなんなくて……」
「ああ、そうだったんだ。僕はカイザ。旅の間仲良くしようよ」
「はぁ」
「ところで、さっき用心棒だとか言ってたの何? 」
「……貴方は…外国の方? 」
「うん、来たばっかりでね」
本日二回目の台詞。するとシェオールは再び「はぁ」と漏らした。あっきれた。そんな声色だ。それを聞いて、御者が豪快な笑い声をあげた。
しかしカイザの方は、何がなんだか分からない。だからひーひーと喘ぎ声が収まったところで、思い切って尋ねてみた。
「僕、何かおかしいこと言ったかい」
「……おかしいって言うか……湖に向かう前、ちゃんと調べ物しましたか」
「調べる? これから行くところが、有名な観光地ってことは知ってるけど」
「表向きは、ね。それで合ってます。でも……ラシーヌ湖には有名な話がもう一つあるんです。残虐な賊が出るって言う」
「ぞ、賊……? 」
「……そう。だから御者も戦える人間しか許されないし、大抵の人間は用心棒をつけて行く。……あなたは、例外みたいですが」
こんな人間初めて見たよ。一対の金色は、微かな軽蔑を含んでいた。カイザは恥ずかしくなり、頬を掻く。
そういえば、やけに馬車代が掛かった。それはそう言うことだったのか。つまりあのおしゃべりな御者は、選りすぐりの人間なのだ。命が掛かっているのだから、高すぎるなどと文句は言えない。
しかし幸運なことに、彼らはまだ賊と対面していなかった。弛んだ精神を奮い立たせ、背筋を伸ばした。小馬鹿にした視線が、若干弱められた気がする。だがシェオールは相変わらず何も発せず、再び馬車内を沈黙が支配した。
夕暮れが近付いている。くっきりと木々のシルエットが浮かび上がる。切り絵に見とれつつ、徐々に明るさを失っていく空を傍観していた。
今日はこれで終わりだ。カイザは月を見上げ、野宿する旨を切り出すべく視線をずらした。そして無言のうちにシェオールから承諾を得ると、少年がフードを被り直そうと動いた。
その時だった。控え目な芳香が、ふわりと漂う。それはカイザがよく知っているもの。大好きな、あの香り。
「……シェオール君、ネモフィラって知ってる? 」
「……は…? 」
自然と口が動き、手を伸ばしていた。しかし、カイザの無意識の所作はシェオールを困惑に陥れてしまったらしい。少年はフードを被ろうと半分持ち上げたまま、茫然としていた。
そして突然思い出したように深く被ると、真っ黒な暗闇から、小さな声を返した。
「……知ってます。丸くて、寒いところに咲く綺麗な花。何でですか? 」
「今ネモフィラの香りがしたんだ。僕、幼い頃から大好きでね」
「……ふぅん」
「でも二年前に、シザールとレダンは国交が切れてしまった。だから近年は希少な花になりつつあるんだよね。密輸するにしてもレダンは今独裁中だから、色々規制が厳しいんだろうなぁ…」
カイザは嘆息し、かつてはネモフィラの花々で溢れていた自室を思い起こした。
「ほぉ〜……旅の人、あんた国際状勢に詳しいんだな。やっぱり今の時代、何にでも興味をもたなきゃ満足に生きていけねー。あー……なんつったか、独裁してる女帝は」
しかし、彼らの会話に無理矢理御者が割り込んで来た。そして、それ以降はめくるめく御者の世界。
「あ、アリス……アリエル? いや、それもちげーなぁ」
なんて、誰も聞いていないのにペラペラとまくし立てる。情報通だが、正確な情報を記憶している訳ではないらしい。御者が使い物にならぬ知識を大声でまさぐっている間、カイザも「何と言う名前だったろう」と思考する。
すると、始終黙りこくっていたシェオールが隅に身を寄せ、ぽつりと呟いた。
「アリアドネ。アリアドネ=レダン」
その一言で、カイザは魔法に掛けられたようだった。頭の靄は取り払われたが、同時に新たな靄も現われた。気になっていたことが明白になり、爽快になる。
しかし開かれた視野は、何かを見落としていた。人間の網膜には、一点だけ像を結ばぬ箇所がある。まさにそんな感じ、盲点。
曖昧で実に不明瞭だったが、カイザはその存在を確かに感知した。だが一方の御者は、全く気が付かない。彼は歓喜の声を上げながら、楽しそうに馬を操った。
「ああ、そうだったそうだった! アリアドネ女帝だ。ボウズ、あんたも物知りだなー」
「……別に。だって俺、レダン出身だから」
「そりゃほんとか? わっけーのに苦労してんだな。レダンっていやぁ……」
御者はさも物知り顔で、政治批評を始めた。カイザはほとんど無視していたが、「分権社会が、突然独裁に変わって上手くいくはずがない」とだけ耳に入る。だが、カイザは一つとして意見を出さなかった。先程の靄が口を噤ませていたのだ。
なんたって、外見を見て語るなんてことは誰でも出来る。だからこそ、憶測だけでレダン国の実情を批評するのは避けたかった。――殊に、シェオールの前では。
その後ゆっくりと馬が停止した。御者は扉を開き、シェオールを未だ褒めちぎっていたが、少年が背負うオーラはどことなく重たいものだった。
彼は下車を手伝う御者の手を軽く払い、一人で降りる。それから地面に降り立つと、野宿の用意を始めた。小さなシェオールは、後ろから見ると大剣が一人で動いているようだ。
そしてつと、シェオールは立ち止る。生暖かい風が前方から吹き、風下にいたカイザは香るネモフィラに包まれた。
黒衣から覗く金色が、どこか哀愁を帯びていた。