序章02―発端―
「ねぇキース、ちょっと話があるんだけど」
ここはシザール。ロザリオ山脈西域に位置する大国だ。広大な領土には河川が展開し、物資を積んだ船が絶え間なく往行する。それは遠く離れた都市間を連結し、活気を生み出していた。
ところで、この国には数年前まで二人の跡継がいた。物腰が柔らかく人望厚き兄カイザ、無愛想だが心根は優しい弟キース。どちらも文武共に秀で、甲乙つけがたかった。ゆえに昔は、兄が跡継なのだろうと誰しもが思っていたものだ。
しかし、現実とは奇なるもの。弟の目覚ましい活躍が父王の目に止まり、彼が王位継承者に指名されたのだった。
不思議なことに、兄弟間には何の不和もなかった。キースが手柄を立て、評価がうなぎ上りになる。それにより次期国王に指名され、カイザは不平一つ言わず結果を受け入れた。それだけだ。
無論、外部の人間が不満を持たぬはずはない。そのためキースは短い人生に、幾度となく暗殺を図られていたが、直接――つまり兄弟の間には、憎しみや激情といった類は一切存在しなかった。いや、そろどころかむしろ、兄と弟は共に喜びを分かち合ったほどだった。
「俺の部屋にはリオンがいる。別の部屋で話そう」
「じゃあ天気良いしテラスに行こっか。僕がリオンちゃんに近付くと、キースったら怒るしね〜」
「な…っ」
「ま、それだけ愛が深いってことだろうけど」
「……」
キースは柄にもなく頬を赤らめた。数年前、彼は愛妃リオンを娶った。リオンはアイリス国王の末娘で、事実上政略結婚だった。酷く純真な姫君は、国民に歓迎されたが、実のところ、キースが王位継承にこだわったのは全て彼女の為だった。
「迎えに行くから。それまで、待ってろよ」
国王同士が集まる会議の最中二人は出逢った。そして互いの名も知らぬ幼き者達は、十数年の時を越えて再び出逢うことを約束したのだ。それは口約束にすぎぬ儚き契り。だがその思い出はキース少年の精神的支柱であり続け、彼は王女リオンを迎えに行くためだけ、王位継承に名乗りを上げたのだった。
そもそも、第一継承者が健在の状況下において、第二継承者が王位を継ぐのは至難の技。それをやり遂げたのだから、背後に並尋常でない努力があったに違いない。そして兄はその姿を真横で見ていたからこそ、すんなりと帝位を譲ったのだった。
カイザは弟をテラスへ連れ込み、優雅に腰掛けた。ネモフィラの花輪が風にそよぐ。リオンが作ったのだろうか、瑠璃色が快晴に溶け込んでいた。
「で、話ってなんだ」
「うん、それなんだけど。少しの間旅に出ようと思ってさ」
「……は? 」
キースは案の定目を剥いた。「空」色の瞳。そこに、にこやかなカイザが映る。それは子供が何かをねだる様によく似ていた。ただ質が悪いのは、カイザの場合は承諾することを予め知ってることだ。キースは眉を寄せ、
「理解に苦しむ。何故いきなり旅なんだ」
と不満そうに問い掛けた。するとカイザは、こともなげに理由を告げる。
「だって、見聞を広めるには旅が一番だろ? 最近はキースとリオンちゃんも上手くいってるみたいだし、僕が留守にしても大丈夫そうだなぁって」
「しかし……一人でか? 危険だ。誰か共に――」
「あー大丈夫大丈夫! こう見えても腕は立つこと知ってるじゃん。じゃ、出発は明後日だから」
彼の弟は存外心配性のようだ。カイザはひらひらと手を振り、逃げるように部屋を出ていった。
出掛けに、先程の花輪を捕らえる。青いネモフィラを一輪。優美な仕草で抜き取り、鼻孔へ近付けた。丸みを帯びた花が、今朝の会話を呼び覚ます。
レダン王国のことだ。シザールと同等、またはそれ以上の軍事力を誇る大国。だが十三年以上続く内乱で、相当財政が逼迫しているそうだ。二年前には女帝の独裁が開始され、内乱を指導していた右派は徹底的に弾圧されている。それは言い換えれば、傭兵制を支える軍事的主力を失ったも同然。王家直軍も疲弊している今、攻め入られるのも時間の問題だ――そう、大臣が噂をしていた。
「レダン王国……かぁ」
レダン王国は、ネモフィラの有名産地。と同時に原産地であり、原生のものは非常に美しいと評されていた。シザールにあるのも、レダンから輸入したものだ。カイザは昔からこれが好きだったため、第二の故郷が消滅してしまったような、一種の錯覚に陥った。
レダンに攻め入るのはシザールか、はたまた別の国か。人間の欲はとどまることを知らない。レダンとシザールは、いずれ何かしら関係をもつだろうと強く直感していた。残った花輪を壁に飾り、カイザは静かに身を翻す。
――同刻。追い掛けて来たキースの隣りで、ボタリと花輪が落ちた。