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序章01―内乱と幕開け―



 闇がいた。漆黒、暗闇――いずれの表現にも似つかわしくない、洞穴のような虚。濁った水晶体は驚愕に見開かれた濃紺の瞳を眺め降ろしていた。夜風を切り、真っ逆様に落下する。風圧にはためく袖を見て、ゲヘナはようやく自分が墜ちているのだと合点した。

 咄嗟に、自室の窓際から見下ろしている傀儡人形へ手を伸ばす。どんな時も、あの男を信頼していた。だからきっと、この手を取ってくれようと。然れども、彼は突如として間者に姿を変えてしまったのだ。泡沫の願いは無情に切り捨てられ、無表情な仮面に絶望を覚えた。

 眼下に広がる闇が、ゲヘナを黄泉の国へと引き込んでいく。深き渓谷は死出の旅路へ誘い、ネモフィラの花々が手を来招いていた。最早、かの身を安穏と横たえられる地などないに等しい。静かに、瞳を閉じる。


 ――嗚呼。醜く生まれ落ちたあの日よりこれまで、よくも生き延びてきたものだ。


 思えば、いつ何時自ら命を絶とうとも、誰も疑問を持たぬような人生だった。ここに来るまでの時間は、なんと悲惨であったろう。決して記録に残らぬ記憶に、吐き気がした。思い出すだけで、想像を絶する苦痛に苛まれた。ゲヘナの人生は、後世の語り草となるに相応しい物語りだ。

 しかし、それも悪くないとゲヘナの脳裏を過ぎった。誰一人幸福に出来ぬ人間が唯一、他人へ施すことの出来る善行。望んで止まない聖なる行いなのだ。

 神よ、神よ、神よ。小さく呟く。母なる知の海へ沈めば、枯れ果てた心もきっと癒えよう。諍いばかりの世は、長い年月を掛けて全身を蝕んできた。仮にその状態を虫喰いの羊皮紙に例えるならば、ほとんど喰い尽くされ、記録の媒体として用途を果たさぬほどだろう。

 だがそんな世にも、未練がないと言えば語弊がある。たった一度。最期に一度だけで良いから、争いのない世界で目を覚ましたかった。母と父の遺影を胸に、民衆と共に。


「兄上、木です! 」


 絶望に身を任せた時だった。青年を呼び起こす声があった。わざわざ下を見ずとも分かる。妹のオラクルだ。亜麻色の少女は巧みに手綱を操り、猛火のごとき勢いで城門を通過した。

 だが、城下に響くひづめの音は一つではなかった。背後から数十人の衛兵が追い、少女へ弓をかざしているではないか。止めてくれ。ついぞ口にしたことのない台詞が、ゲヘナの喉元から外へ出ようと暴れ始めた。妹の紅の布が、弧を描く。鮮血を連想する赤に、不思議な高揚感を覚えた。剣と剣の触れ合う音、馬のいななき、妹の掛け声。全てが、鋭敏な感覚を刺激する。


 そもそも、何故こんなことになったのか。ゲヘナは元凶である銀灰色を憎々しげに思い浮かべた。絶望のみの世界、先の見えぬ未来。全てはあの女の(かいな)で育まれ、息づいたのだ。煮えたぎる怒りに包まれ、生きたいという意思が再び腹の底から沸き起こってきた。

 首を捻って、妹へ視線を移した。時間感覚がおかしくなっているのか。瞬間の刹那が、酷く永い刻に感じられる。と、不意に亜麻色の少女が身を屈めた。すると頭上を二、三本の矢が擦り抜け、城壁に当たって砕け散った。青年の目の裏に、細切れな映像が焼き付けられていく。彼は重力と風圧に逆らい、身をよじった。そして正面を地面へ向け、両腕を突出した。


「早く! 早く木を出して! 」


 顔の左半分を覆う布が激しく宙に舞う。妹の鼓動を読み取って、呼応しているかのようだ。しかし、彼女の焦躁した声色は衛兵の怒号に掻き消されてしまった。「天空の夢野」と呼ばれた尖塔の先は、遥か上空にあった。嗚呼、地面はすぐそこ。一分の猶予もなく、墜落死してしまうだろう。

 しかし青年は、慌てる素振りを一切見せなかった。分かっているのだ。愚民どもに予定されていた非業の死など、有り得ないと。ゲヘナは穏やかな微笑を浮かべ、両の手を大きく広げた。ただ、それだけ。しかし見掛けの穏やかさとは裏腹に、次に起こったのは地面を揺るがす轟音であった。


魔科学(ヘカテ)だ! 気を付けろ! 」


 強固な大地が引き裂ける。続き、そこにはなかった筈の巨木が次々にそびえ立つ。巨大な木々は衛兵のみならず、庭や城までも飲み込んでいった。曲がりくねった小枝へ軽やかに舞い降りる。それは一言で小枝と言っても、大木の幹程あろうか。しかし本体が何十フィートもあるため、胴体より太い枝でさえ小枝と呼べるのだ。ゲヘナのいる上空からは、蟻のように逃げ惑う衛兵達を一望できた。大地を引き裂く大樹、逃げ惑う人間。見下ろす世界は、創世記に記された光景と酷似していた。

 だが青年は、奇々怪々な現象を引き起こした張本人にも関わらず、動じる様子は見られなかった。軽やかに木々を下り、折よく駆け付けた妹の愛馬に飛び乗る。


「兄上、ご無事ですか」

「平気だよ。君は」

「この通り」

「それは良かった」


 一見すると社交辞令。二人は元々おしゃべりな性格ではないにせよ、殊に今夜は口数が少なかった。だがその中にも多少なりお互いの気遣いを感じ取れ、今この時はそれだけで十分だったのだ。少女と青年は、緊迫した空気の中を駆け抜けていく。兄が腰に手を回し、それを合図にオラクルが強く手綱を奮った。彼女は未だ成長を続ける木々を掻い潜り、疾風の化身となる。

 少し進んだところで、前方に一人兵士が立ち往生していた。巻き込まれぬよう逃げるべきか、それとも目前の兄妹を捕らえ、命じられた任務を果たすべきか。一瞬躊躇した後、後者に決断したらしかった。女帝より分け与えられたステレオタイプの剣を、弱々しく振りかざす。しかしオラクルが一声上げると、栗色の駿馬が空高く飛び上がり、瞬く間に兵士の頭上を飛び越してしまったのだった。

 可憐な少女は、幼少時より乗馬の才に恵まれていた。馬と一体化し、何者も追い付くことは出来ない。亜麻色の娘は滑らかな動作で綱を操り、内乱を憂う月夜から逃亡を図るのだ。その姿は踊り子が舞を舞っているようにも見え、ゲヘナは一人微笑んだ。


 それから二人は、漸く人工的な森を抜けた。しかし暴れ馬の速度は緩まず、峡谷から一気に遠ざかる。二人を戦場から引き離した栗毛は、三時間程黙々と走り続けた。その間ゲヘナは、何を言う訳でもなく少女から漂うネモフィラの芳香に意識を寄せる。そしてしばらく後、不意に口を開いた。


「ねぇオラクル、頬の傷はどうしたんだい」

「狩りの獲物にされました」

「……そう」


 それきり、会話は途切れてしまった。オラクルもゲヘナも、次第に遠ざかる故郷に想いを馳せていた。二人は国境へ向かっている。レダン王国の向こう、西方に位置するロザリオ山脈を越えるのだ。(ふもと)にはいつでも逃げられるよう馬と荷物を隠してある。準備は万端――心を除いて。


 月明りに輝く小川が遠くに見えて来た。せせらぎが心地よく響き、一時悲しみを緩和させてくれた。勇気づけられて、躊躇なく川を渡り切る。そして隠れ家へ近付くにつれ、達成感と郷愁は強まり、心の中で互いに攻めぎあっていた。

 手綱を握っていたオラクルは、ある地点に到着すると馬を止めた。真夜中の森中で地面を掘り起こす。かねてより準備していた荷物を取り出し、兄へ手渡した。足元の枯れ葉が乾いた音を立て、それが笑みを振りまいているように聞こえる。しかし、心中は酷く重い。黒馬に器具を取り付けているオラクルを背後に、ゲヘナは漆黒のローブを羽織った。


「僕の準備は出来た。さあ、君も心を決める時だよ」

「とうの昔に――父上がお隠れになった時から決まっていますよ」


 ――ああ、なんと逞しい少女であろうか。慣れ親しんだ故郷を捨て、もう二度と目にすることがないかもしれないと言うのに。

 目の前のオラクルは髪を一つにまとめ、少年と見紛うような姿をしていた。清廉で可愛らしかったオラクル。その亜麻色の幼き少女は、長い長い旅へ向けて子供と言う身分を捨てる決意をしたのだ。絶望にも埋もれぬ金色の瞳が、ゲヘナを見返していた。輝く黄金に、思わず目を細めてしまう。しかし強き光は、この数年消えかかっていた生存本能を刺激した。ゲヘナは、こんないたいけな少女に苦渋の決断をさせた王国と時代を強く呪い、そして愛しくも思った。

 ――僕は守らなくてはならない。彼女も、国も、全て。


「予定通りロザリオ山脈を越える。オラクル、絶対に生き延びるんだ」

「はい。兄上も魔科学(ヘカテ)使い過ぎて死なないでくださいね」

「……勿論だよ」


 オラクルは城を脱出してから初めての笑みを浮かべた。手綱を引いて一歩、足を踏み出す。最初は怯えたようにためらい、それから堂々と。奥へ進めば進む程、少女には何のためらいも見て取れなくなった。二人の姿が幽玄なる山々に溶け込み、静寂だけが取り残される。ゲヘナは最後に一度だけ振り返った。


 遠くで、神殿の鐘が鳴り響いた気がした。






ゲヘナ:Gehenna

オラクル:Oracle

ヘカテ:Hekate


オラクル以外、ギリシャ神話から取っています。

なお、縦書き機能及びPC閲覧用に載せさせて頂いてますので、携帯で通常通り御覧になる場合は少々読みにくいかもしれません。

その際は、サイトのほうに携帯横書き用に読み易くしたものがあるので、そちらのご利用をお勧めします。



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