ヒロインに転生したけれど、大切な人が出来たので平民のまま生きていきたかった。
連載版始めました。
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大筋の話は短編通りで、短編での話を掘り下げていく形となります。
良ければご一読いただければ幸いです。
きっかけは、些細なことだった。
その日は、両親と買い物に出かけていた。いつもの商店街を通って、ちょっとだけ時間があるからと広場で親子三人で休憩していた時。
私はその広場にある噴水に興味津々で、それに気付いた父親が、抱き上げてくれたのだ。
「ほら、アイヴィー見てごらん。 これはね、噴水って言うんだ」
そんな父親の声が後ろから聞こえてきて。
鏡なんて高価なものなど家には無くて。自分の顔がどんななのか、気にもしたことが無かったから。
だから、水面に映る自分の顔に、両親の面影とはまた違った既視感を覚えて、不思議に思った。
それでも、最初はピンと来なかった。
無意識に首を傾げた私に、父親は私にはまだ噴水がよくわからなかったのだろうと解釈して、説明してくれる。
次に湧いた疑問は、その説明を私がきちんと理解していたことだった。
これはなぁに?
これはどうして?
なんで? どうして?
そんな質問を親へ向ける度、答えてくれる言葉を、私はすんなりと理解していた。
ふわふわした感覚。 染みついていた自分の中の知識の当然が、年齢不相応なのだと。
その時、ようやく私は自覚した。
ならば、この知識は何だろう。 この、感覚は何なんだろう。
私が私でないような。 何かが、あるような。
家に帰って、私は一人悶々と考えた。外に出て、雨水が溜まった桶を覗き込んで、ぼんやりと映し出される自分の顔を見て、さらに唸った。
アイヴィー。
私の名前。
……大好きな、ゲームの、ヒロインの、名前。
「っ!」
ぱしゃり、と。
反射的に顔を上げた拍子に身体が桶の側面に当たって、水面が揺れる。
ゆらり、ゆらり。
映し出される少女の面影を持つ、女性を、私は知っている。
途端、記憶が逆流するかのように、意識が浮いた。
地面に膝をつく。砂利がぶつかったのか、痛みを感じる。でもそのおかげで、朦朧とする意識の中でも、今いるここが現実なんだと理解出来て、ちょっとだけ安心した。
まるで開きかけていた箱の蓋をそっと開けるように。漏れ出て来た記憶が溢れるようにそこから出て来くる感覚。
ぎゅう、と強く瞑っていた瞳を、次に開いた時には、なんら変わらない景色が開けたかのように鮮明に映った。
家の中に戻ると、母親が私の膝を見て慌てて駆け寄って来てくれる。
「アイヴィー! 外で転んでしまったの? 膝から血が出てるわ」
「母さん、綺麗な水はまだあったか?」
「飲み水が残ってるわ、今布を持ってくるから、アイヴィーは椅子に座ってなさい」
言われるがまま椅子に座って、両親の様子を見ていた。
お母さんと、お父さん。
けれど、思い出したばかりの記憶が、私には他にもお父さんとお母さんがいたのだと訴えて来る。
それは、生まれる前の所謂前世のものだ。今のお父さんとお母さんはこの人達で。
そして、この二人はあの『アイヴィー』のお父さんとお母さん、だ。
「う、そ」
そうして。
私は、この世界が前世でドハマりしていた乙女ゲームの世界だと、気付いてしまった。
四歳の頃だった。
◆
子供って、物覚えは良いけれど、忘れるのもそこそこに早いでしょう?
思い出した前世の記憶は、一度寝て起きた朝には殆どあやふやになってしまった。
覚えていたのは、思い出というよりもは知識と呼べるようなものをちょっとだけと、この世界を舞台とした乙女ゲームの内容だった。
何故か、ゲームのことは全然記憶が抜けていなかった。前世の自分がやり込んだ分だけの記憶と熱量が、鮮明に思い出せる。
私、アイヴィーはその乙女ゲーム『光のメルヴェイユ ~ 奇跡の花束を~』のヒロインだ。
そう、私、ヒロインなのである。
約十年後、十五歳の時に私は光魔法が発現する。
きっかけは詳細には語られないが、それをきっかけに私は貴族の通う魔法学校へと入学するのだ。
そして、そこで恋愛を繰り広げていく、というストーリー。
タイトルに光の、とついているとおりこの世界で光属性の魔法を扱える人というのはかなり希少で、ヒロインはそれもあって光魔法を使えると判明して直ぐに学校に行くこととなる。
そこで、魔法のことを学びながら攻略対象者達と仲を育んでいく。
勿論のごとく、ライバルと呼べるような女の子も数人出て来て、いじめられるイベントとか、真っ向勝負をしたりするミニゲームとかもある。
そして当然のように、断罪イベントもある。
何より、このゲームの素敵な所は、全てを乗り越えた後の卒業の日。ゲームのラストに進んだルートの相手からそのキャラクターのモチーフの花の花束を差し出されながら、愛の告白を受けるのだ。
このスチルが、とっても素敵だった。
スチルでありながら、エフェクトのように舞う花弁がさらに幻想感を出していて、相手の彼は真っ直ぐに私を見つめてくれて。
『貴方が、私の奇跡』
言い方は人それぞれ違うけれど、総じてみんなそう想いを告げてくれる。
私の最推しは、王道ではあったけれど、メインヒーローの王太子だった。
「……私が、ヒロイン」
ゲームのストーリーを思い返して、とくりと胸が鳴る。
今私はそのゲームのヒロインで。この先、魔法学校に通って。
そして、出会える。王子様に。私の、王子様に。
「……私が、奇跡」
そう、告げてくれるのだ。
誰よりも愛していると、一緒にいようと。貴方が奇跡なのだと。
画面越しじゃない。実在して、目の前で、告げてくれるのだ。
――嬉しい。
高鳴る鼓動が止まらなくて。布団の中で丸まっていた身体を揺らす。そろそろ起き出さないとお母さんが起こしに来てしまうけれど、私はこの先に訪れる、私のストーリーのことで胸と頭がいっぱいだった。
嬉しい。嬉しい嬉しい!
前世で何で死んでしまったかなんてもう覚えてないけれど。
きっといっぱい良いことして死んだんだと思う。だって今の私はヒロインだから!
王子様と結ばれるヒロインに生まれ変わった、私は選ばれた人間なのだ。
うっとりとした気持ちで、口端を上げる。
難しく色々考えようとしたけれど、もうそんな必要は無い。ただ純粋に、鮮明に思い出せるゲームの記憶に浸る。
私はヒロインなんだ。 あのゲームの。この世界の、主人公。
ああ、待ち遠しい。だって私は未来の王妃になるのだ。こんな、平民暮らしなどする女ではない。
この世界は私のためにあるんだ。
前世がどうだったとか、そんなことはもうどうでも良くて。私はただ、未来への期待でいっぱいになった。
誰からも愛されるヒロイン。 大好きだったゲームの、ヒロインになったんだ。
「アイヴィー? 朝よ、起きなさいー?」
夢のようだけど、夢じゃない。
だって私はアイヴィーなんだから。
ヒロイン、なんだから。
なんて。
◆
「よう! アイヴィーちゃん今日も別嬪さんだなぁ! 何を買いに来たんだい?」
「もう、ブレッドおじさまってば、相変わらずおだてるのが上手いんだから! ん~、ジャガイモが欲しかったんだけれど……三つでどれぐらい?」
「三つかい? 三つなら銅貨四枚ってとこだなぁ!」
「んー…………じゃあ、これと、これとこれも買うわ! それで銅貨七……いいえ、八枚! どう?」
「んぇえっ!? アイヴィーちゃんそれは流石に……!」
「じゃあ……銅貨九枚?」
「う……」
「……」
「……~ッ、ったくアイヴィーちゃんには敵わねえなぁ! 九枚! んでもってこれをおまけに付けたらぁ!」
「流石ブレッドおじさま!」
これ以上交渉を長引かせたらさらに持ってかれちまうからな。
そうガハハと豪快に笑いながら私の持ってきた籠の中に選んだ品物を入れてくれるブレッドおじさまと談笑する。
周りの店員や、常連さんも楽しそうに笑っていて、私もつられて笑顔になる。
値段交渉はまだちょっぴり苦手だけれど、凄まれても負けない目力だけは鍛えた。生意気って言われても、こちらは家計が掛かっているのだから諦めるわけにはいかない。
通り慣れた商店街を歩いていると、所々から声を掛けられる。親し気な言葉にふわりと笑って答えつつ、軽く冷やかして無駄な買い物はしない。
やっとのことで我が家のギリギリだった家計も落ち着いてきたのだ。だからと言って安心して油断してはいけない。
「おっ、今日はそんなに沢山抱えてねぇのな」
「デューク!」
広場について、ちょっとだけ息を吐いて一休みしようとしたら背後から聞こえてきた声に笑顔が溢れる。
振り返ると、日に焼けて毛先だけが少しだけ茶色みがかった黒髪の、海を閉じ込めたような青い瞳を携えた青年――デュークがそこにいた。
この世界に、生まれて十四年。
あの、前世の記憶を思い出して約十年が経つ。
「買い物はそれで終わりか?」
「そう。 今日はちょっと食材が大分減ってきたから買っておこうかなって」
「ふーん」
「デュークこそ、どうしてここに? 貴方確か今日は狩りじゃなかった?」
「そうだったんだけど、リックが熱出しちゃって」
「リックが!?」
「まぁもう下がったんだけど、ただ心配だから母さんと親父がついてたいって話になって今日はやめとくことになったんだ」
「そう……リック、何ともないといいけど……」
「まぁまだ幼いしな。身体も出来上がってないし。 狩りもそんな急くほど困ってないしさ」
「うん…………で、リックが熱出して、両親がついてる、まではわかったけど、何でデュークはここにいるの?」
「感染ったら困るから、どっか出掛けてろって」
「……」
「ってことで、暇なんだよ。 もう家に戻るなら荷物持つから送ってくぜ」
ひょい、と両手に抱えていた籠をデュークに取られる。
呆然と、最早呆れのような気持ちで彼を見つめていたせいで抵抗も出来なかった。
先にすたすたと歩いていくデュークの背中を追いかけるように、名前を呼びつつ私も歩き出す。何だかんだ、私の歩幅に合わせてくれているから、直ぐに追い付いて隣に並んだ。
四歳の時。
私は自分がヒロインであることを心の底から歓喜した。
自分はお姫さまなのだと、そう本気で思っていた。
いつか私は王子様と出会って、見染められて、幸せになる。そう信じて、疑わなかった。
……けれど、そんな夢のような妄想は、自分の置かれている立場のせいで粉々に砕け散った。七歳の時である。
まず、平民である自分の家がとても貧しかった。
麦を主とした農家であるのだが、何故か基本的に赤字気味の生活だった。
それでも、最大限の倹約のおかげであまりにもひもじいと思うようなことはなく、だけれど、贅沢も出来るわけもなく。
私は未来の王妃になるんだから! こんな生活有り得ない! ……なーんて、非現実的すぎる我儘など、固いパンを薄いスープでふやかして一緒に飲み込んで消化してしまった。
あと、何より、私は両親がとても大好きだった。
いつも愛情たっぷりに育ててくれる両親は、辛いことだって、一緒なら大丈夫と笑顔の絶えない人達だった。
そんな両親を見て、ああ、これが愛なのか。と自然と自分の中の価値観が変わっていった。
簡単に言えば、心の底から愛し、愛されるのなら、相手がたとえただの平民だろうと、幸せなんだろうなと思うようになったのだ。
……そうなると、正直未来の王子様に期待するのはちょっとなー? と。
魔法学校に通うことになったら、両親ともろくに会えなくなるし。ここでの生活で、十分幸せだし。
そんなことを思うようになった頃だ。
彼、デュークと出会ったのは。
彼も平民で、私と同い年だ。
両親から、物事の分別も大分付けられるようになったと判断されて、私はその日一人でお遣いに商店街に来ていた。
そんな時、いつものお店で買い物をしようとしていたら、横から知らない男性に声を掛けられた。
まぁ、いわゆる押し売り、みたいなやつ。
何をお求めですか。それだったら私の方でも売ってますよ。こちらで買いませんか。お安くしますよ。
ノーと言い切れなかったのは、前世がイエスマンとも言われるような人種だったせいもあっただろう。
実際、全然安くなくて、これを買ってしまえば、頼まれていた物の半分も買えないと困りに困り果てていた時。
「おいおっさん! ぼったくり過ぎだろ!」
そう、割り込むようにして助けてくれたのがデュークだった。
突然の言い掛かりに憤慨した男性が、大声で目の前の少年を怒鳴り散らす。
その光景が怖くて、思わず目の前の彼の服の裾を掴んで握ってしまった。けれど、彼は怯むことなく言い返す。
そうすると、段々と人だかりが出来て来て……その中に、私のことを知っている商店街でお店を出している人がいて、割って入ってくれて。
なんやかんやあって、最終的には、男性は不服そうな顔をしつつ去って行った。
どうやら、結構評判が良くない人らしく、男性がいなくなった後そこにいた人達が結構ひそひそしてた。因みにその後その人を商店街で見たことはない。
それをきっかけに、知り合って、ちょこちょこ出会うことも増えて。
気付いたら、気兼ねなく話せるような仲になっていた。
「あ、デューク、明日の予定忘れてないよね?」
「おー」
「……なぁに、その反応」
「いや、別に」
「……自分から言い出したんだから、躓いてもめんどくさがらないの」
「へいへい、わかってるよ。 ……でもさぁ、苦手なんだよ俺、昔話とか」
「昔話って……魔法のことは興味あるくせに。その成り立ちの話だって言ってたじゃない」
「平民の俺らに魔法なんて使えっこないから、そんな詳しく学んでもなぁ」
「もう!」
ぺしりと肩を叩けば「いてっ」と軽い声が返される。
顔を微かに揺らしたデュークの、短く切った少しだけ痛んでいる黒髪が風に靡いて、思わずじっと見上げてしまう。
……身長、気付いたら抜かされてたなぁ。
初めて会った時、背中に庇われた時。彼は私よりちょっとだけ小さかった。
今では、見上げ見下ろされの立ち位置。時間の流れを感じてしまう。
他愛のない会話を適度にしながら、ゆっくりと歩いていく。
商店街を抜けて、町の賑わいから段々と遠ざかって。町はずれの、ちょっとだけ開けたところ。
そこが、私の家。お母さんは多分家にいて、お父さんはきっと収穫した麦を卸に行っている。
貧しい分類には入るけれど、私の幸せが詰まった家。
……そんな家だけれど、数年前までちょっとだけ可笑しいかな? って思っていたところがあって。
その悩みをデュークに打ち明けたのは、確か十歳の頃。
『あのね、多分なんだけど、お父さん、ぼったくられてる気がするの』
『……は?』
今でも突拍子もない相談だったと思う。
あんなに誠実に働いているお父さんが、お母さんが、どうしてこんなにも生活ギリギリの収入しかないのか。
当時の私は、凄く違和感を感じていた。多分、前世の記憶のおかげもあったんじゃないかな。
デュークは最初ぽかんとした表情をしていたが、私の拙い説明を聞いている内に段々と真剣な表情になって……そして、私に告げた。
『あんな、アイヴィー。 多分だけど、ぼったくられてるよ』
『だ、だよね!? 私、お父さんに言って……!』
『でも、言っても無駄だと思う』
『え……?』
『俺達平民の、一番痛いところを突かれてる気がするから』
『……一番、痛いところ?』
『アイヴィー、ちょっとしゃがんで』
『? うん』
地面に二人でしゃがんで、デュークが近くにあった石ころを拾って、地面に何かを書いた。
汚いミミズのような線を何本か。ぐるりと書いたり、びゅっと真っ直ぐ書いたり。
何を書いてるかさっぱりわからなくて、首を傾げる。そんな私を見て、デュークは問いかける。
『なんて書いてあると思う?』
『……なぁに、これ?』
『……デューク、らしい』
『…………え』
それだけで、デュークの言いたいことがわかった。わかったからこそ、その時の私の顔は大分悪かっただろう。
生活にちっとも不便をしてなかったから、気付かなかった。
私達は、字が、読めなかった。
それは私の両親もそうで。
不当な取引の裏には、こちらの識字の出来なさを利用して、一方的な契約を取り付けているのだと悟った。
だから、言っても無駄。デュークはそれを言いたかったのだ。
『学ぼう』
どうしようもない。そう悟って一種の絶望さえも覚えていた私に向かって、デュークはそう言った。
さっきまでの悔しそうな顔を抑えて、まるで決意したかのように。
『でも、どうやって……』
『こっち!』
突然手を取られて、連れて行かれた先は、この町にある孤児院だった。
……まぁ、そんなこんなで。私はそこで色々と学ぶことが出来た。
というのも、その孤児院にはとある公爵夫人が定期的に訪問して来ていて、その時に子供たちに字の読み書きや勉強など色々教えてくれたりしていたのだ。
勿論、シスターも教えてくれたりしていたが、この公爵夫人がとんでもなくわかりやすくて、素敵だった。
それを体験して、さらに魔法学校に行って貴族達と生活なんて無理だなぁって思ったんだけどね。
現実を考えると、無理があり過ぎる。生活基準が違いすぎる。狼の群れの中に犬を放り込んだって狼にはなれない。
そして今、字の読み書きや計算も十分にできるようになって、平民として十四歳と言ったらもう殆ど自立して働いてても可笑しくない年齢。私はお父さんを説得に説得を重ねて、卸先との契約に関して介入し、最終的にはお互いが納得出来る取引に応じてくれるところとの契約を結び直すことに成功した。
しかしこれも、私が字の読み書きや計算が出来るようになったからだけではない。お父さんが常に誠実に働いてたからこそ、不当契約をしていたところに異議申し立てした際に揉めに揉めて、契約を破棄されても、手を差し伸べてくれるところがあったからである。
努力は裏切らない。本当に。
明日はその孤児院にまた公爵夫人が訪れる予定の日なのだ。
なので二人で孤児院に行く予定を立てていた。最近は基本的なことは覚えたからと魔法のことに関して教えてもらったりしている。
魔法は基本的には貴族だけが使えるものとされている。ようは血の遺伝が関係あるということ。
貴族は貴族と結婚するし、平民は平民と結婚するからね。
だから私達にはほぼ無縁なものではあるけれど、だからこそ、憧れみたいなものがあるらしい。デューク曰く。
私は、自分が光魔法を使えることを知っているから、憧れよりもちょっと不安を抱いていたり。使えるらしいが、使ったこともないし、使いたいとも思っていないから。
だって使ったら、ここでの生活が続けられなくなっちゃうって知ってるから。
そう、思ってしまうようになったのだ。
私はもう、ゲームのヒロインにはなれない。
「……あー……アイヴィー?」
「んー? なぁに、デューク」
「あ、……あのさ、明日、ってさ」
「うん。 孤児院行く日だよ。さっきも話したでしょ?」
「や、まぁ、そうなんだけど。そうじゃなくて」
「……なに?」
私の家まであと少し。
家の屋根が見えてきた辺りで、突然立ち止まったデュークが何故か言葉を詰まらせながら話し掛けて来る。
視線が合わないし、何となく顔……耳かな? が赤いような。 日が暮れて来たから?
「明日、誕生日、だろ。 ……お前の」
「え」
ぽかんと、口を開けて、目をまんまるに見開く。きっと貴族のご令嬢が見たらはしたないって言われるだろう顔をする。
「孤児院から、帰る時も送るからさ。 ……そん時に、渡したいもん、ある。 あと、話したいことも」
「……今じゃだめなの?」
「な、だ、めじゃねぇ、んだけど……」
「……だけど?」
「……まだ、上手く言葉がまとまんねぇから」
くっと眉間に皺を寄せて言うから。多分、ちょっとだけ自分が不甲斐ないとか、かっこ悪いなとか思ってるんだろうな。
――そんなこと、ないのになぁ。
「わかった。 明日ね?」
「……ん」
「つまり、とびっきりの誕生日にしてくれる、ってことで、期待していいのね?」
「……おう」
だって、言葉にしなくても、力強く頷いてくれるから。
私は、それだけで十分に胸がぎゅうって苦しくなるぐらい、嬉しいんだけどね。
私はちょっとだけ鼻歌を口ずさみながら、どちらともなく歩き出した。
そんな空間が心地よくて。 この、絶妙な関係がもどかしくて。
ねぇ、デューク。あのね。 あの時……初めて、貴方が私を庇ってくれた、あの時から、私の王子様は。
……だから、私は。
◆
「……君が、アイヴィーさん、だね」
「……はい」
豪華絢爛。そんな言葉がぴたりと当てはまりそうな、空間で、固さの一つも無いソファに座らされて。
私は、俯いていた顔をそっと持ち上げた。
綺麗な金髪は、この世の物とは思えないぐらいさらさらしていて。手入れが行き届いてるんだなぁと思った。
「私は、パトリック・テイラー。……テイラー公爵領の、領主をしている」
「……アイヴィー、です」
緑の瞳は、ちょっぴり切れ長で。けれど、下がった眉が、厳かな印象を和らげている。丁寧に、とても、優しく扱われているということは、嫌でもわかった。
でも、その気遣いに応えることは出来そうになかった。無駄に口を開いてしまえば、我儘ばかりを吐き出してしまう。
それはしたくなかった。自分の私欲のために、我儘に、物事を理解しようとしないようなそんな、最低な女になりたくなかった。
膝の上に置いた手が、つい力が入ってくしゃりとスカートに皺を作ってしまう。駄目だ。そんなはしたないことやめなきゃ。でも、力の抜き方がわからない。
目の前にいる人は悪くない。悪くない。わかってる。けれど、私にとっては、……私にとっては。
「改めて、今回はドロシアを……私の妻を、助けてくれて、ありがとう」
「……いえ」
「襲撃されたと聞いた。……彼等が皆無事なのは君のおかげだ」
「……そんな」
「……けれど、多分、君もわかっていると思う。 彼らを救ったその……光魔法は、とても希少で、そして、全員を助けたその力は、強大だ」
「……」
「これは、君のためでもある……というのは、かなり押し付けがましいが。 君は、その力の使い方を、きちんと学ぶためにも、魔法学校に通うべきだ」
「……っ」
「幸い、妻のおかげで最低限の学力はあると聞いている。 我が公爵家が責任をもって後見人となる。……わかって、くれるね?」
「……は、い」
私と彼を引き離した、極悪人でしかないのだ。
泣きじゃくりたくなる気持ちを抑えて、再び俯くような形で頷いて見せる。
もう良いから、一人にさせて欲しかった。
何度頼んだって、両親にも、彼にも会わせられないと言われたのだ。会いたい人に会わせてもらえないのならば、誰とも会いたくない。
今日は、十五歳の誕生日だった。
彼と約束をした、誕生日だった。
けれど、約束は果たされることは無かった。
襲撃。そう呼ばれる悲劇は突然訪れた。
孤児院で、いつものように公爵夫人……ドロシア様に勉強を教わりながら、デュークと話して、シスターや子供たちとも笑い合って。いつもの、幸せな日常の一日を過ごしていた。
ふと、建物の外が騒がしいと気付いた時、その喧騒は瞬く間に建物の中に侵入し、地獄を作り出した。
ドロシア様の護衛達は皆血まみれで。無遠慮に乗り込んでくる男たちは手当たり次第を壊して、斬って。
目的は、ドロシア様だったのだろう。逆に言えば、それ以外はどうでも良かったのだろう。
『アイヴィー! 逃げろッ!!』
そう叫んだデュークは、近くにいた男に体当たりをして、強引に剣を奪って応戦しようとしていた。
駄目。貴方も一緒に。そう言いたいのに声が出なくて、手が震えて、足にも力が入らない。
心を埋め尽くす恐怖が、呼吸さえも奪おうとして来る。は、は、と過呼吸になりそうな息を吐き出しながら彼の、デュークの背を見つめた。彼を置いていくなんて、出来なかった。
ねえ、お願い。
たった一人で良いの。 一人で良いのよ。
彼が良いの。 私、彼が良いの。
私の、大切な人な――。
心の恐怖が、視界さえも埋め尽くしたのかと思った。
だって、真っ赤だったから。
『……ヴィ、……逃げ……』
そこから先は、正直な話。覚えていない。
声が聞こえて、真っ赤だった筈の視界が戻った時、私の目の前には輝くような鎖に縛られて動けなくなっている男達と、全ての傷達が癒えた人達が寝転んでいた。
どうやら、私の光魔法が発動し、男達を拘束し、その場の怪我人全てを癒したのだと。
その力はあまりに強大過ぎるらしい。初めて使ったから、これがどれだけ凄いのかはわからないが、確かに斬られた子たちの中には、最早ほぼ死にかけの子たちもいただろうから、よほどなのだろう。
そして、光魔法を扱える子であり、これほどの強大な力を持つ子を放っておけるわけもなく。
私は結局ゲームの展開通り、魔法学校に通わされることとなった。
一度家に帰されることもなく、そのまま、私はドロシア様の住む公爵邸へと連れて行かれた。
これはゲームと違うのかわからないのだけれど、何故か、私は両親、そしてデュークに会うことを許されなかった。
いつまで我慢すれば会えるのかと問いかけても、濁されるばかり。
その時は、何故かわからなかったけれど、時間が経つにつれ、その理由を察することは出来た。
きっと、私を平民に戻すつもりがないのだ。
こんな強大な力を持っていると言われる、希少な光魔法の使い。高貴な貴族達が欲しがるのも無理もない。
それが、例え平民出身でも、だ。
だから、家族に、平民である友人に会わせるわけにはいかないのだろう。
このまま、あわよくば学校生活中に良い人を宛がい、上手く囲ってしまおうとか、そんなことを考えているに違いない。
――本当に、私は貴族なんて向いてない。
真意を悟ってしまえば、その後のことなど全て胡散臭く感じてしまう。
優しく声を掛けてくれる公爵も、結局は私を平民に戻す気が無い策士なんだろうし、その後ろにどうせもっとでかいものがいるんだろう。
王族、って言うんだろうか。ようは、国が私のこの件を把握してないわけがない。
一人公爵邸で用意された部屋のベッドで座る私の心は、段々と擦り切れていくように醜く、穿った考えばかりを募らせた。
平民として、あの町で暮らしていた時には抱かなかった感情。幸せとは程遠い、それ。
そして、それを抱いてしまう自分に自己嫌悪する。自分がどんどん嫌な人間になっていくような感覚が、凄く惨めだった。
一度は、望んだ展開だったのに。
そう、幼い日の私が私に告げる。
首を千切れんばかりに左右に振った。揺れる髪の毛は、デュークが綺麗だから伸ばせよって言ったから伸ばしていた。
ミルクティーのような色のした髪の毛は、乱れたまま首の揺らしに合わせて靡いた。
本当は、今日はデュークに会うから、約束があったから、ちょっとだけ気合を入れて編み込んでいた。あの襲撃時に、気付いたら解けてしまって、結んでいたリボンはもうどこにあるかわからない。
青い。デュークの目の色のような、深い青色のリボンだった。
もう望んでいなかった。
ヒロインも、お姫様も、別にもうなりたくなかった。
平民として生きていくうちに、脳内お花畑でいられるほど現実は甘くないと気付いた。
毎日を生きるのに必死で、待ってたってご飯は目の前に出て来るほど裕福では無い。けれど、笑いは絶えない。
そんな生活が良かった。そんな生活が良いと思えるようになって、本当に、望んでいたのだ。
「……っ、ぁ……」
ぽたぽたと、気付いたら視界が潤んでいっぱいになる。
掌で必死に目元を擦るように涙を拭った。泣いたって、どうしようもない。
どんなに嘆いたって、私は明日から、貴族の世界で生きていく道を歩んでいかなくちゃいけない。
この事件で、誰も死者は出なかった。
だから、デュークは生きている。
その事実だけが、私にとってのたった一つの救いで。それでも二度と会えないから、地獄だった。
◆
「平民風情が! 生意気なのよ!」
ドンッ! と強く肩を押されて壁に背中を打ち付けた。
痛いなぁと思う。でも、多分下半身に力を入れたら、こんなひ弱な力の押しぐらいならきっと弾けそうな気もした。しないけど。
返事をする気も起きなくて、ちょっとだけ俯いたまま黙り込む。どうせ、何を言っても駄目だから。これは経験による学び。
「殿下にちょっと優しくされたからっていい気になって。 本当みっともない!」
そう言葉を荒く告げてくるのは、確か王子の婚約者だった筈。
綺麗な顔をしているのに、怒りを表情を浮かべて眉をつり上げて、ひたすらに怖い。美人さんだから、笑って欲しいなぁ。
あと、私から王子に近づいてないですよ。元最推しでしたけど。と内心で口答えをしつつ。
「……すみません」
「謝罪は良いのよ。 それよりも行動で示してくださらないかしら? 本当、平民は口だけだから困ってしまいますわ!」
貴族様もね。
「大体貴方は――!」
「おい! そこで何をしている!」
そろそろどうやってここから逃げ出そうか。そんなことを考えていた矢先に聞こえてきた声に、ふと、ああこれイベントだったか、と朧げな記憶を掘り返す。
ゲームのヒロインを望まなくなってから、ゲームのストーリーなど思い返すこともなくなり、今の私はそれらの記憶が殆ど消えてしまっている。だから、これがイベントの一つだという事をすっかり忘れていた。
覚えていれば、起こさないように立ち回ったのにな。
小さくため息を吐く私を、こちらへ駆け付けた殿下が見ていたようで、安堵の息を吐いたのだと勘違いしたのか、別に求めてもいない柔らかな視線が向けられた。視線を合わせないようにそっと逸らしてみる。……けど、どうせ照れて逸らしたとか思ってるんだろうなぁ。
「リンダ! これはどういうことだ!」
「で、殿下……! いえ、これは彼女が貴族としての立ち振る舞いがなっていないので教えていただけで……!」
「こんな複数人で囲んでか?」
「それは……」
「殿下」
言葉を詰まらせた殿下の婚約者……リンダ・ジェファーソン公爵令嬢と彼の間にすっと立ち、彼女らを庇うような立ち位置となる。貴族の前に立ちはだかるってこれ、どうなんだろう。不敬なのかな。多めに見て欲しいなぁ。
「彼女達の言う事は間違いではありません。 私の立ち振る舞いが淑女として相応しくないと……その通りだと私自身も思っておりますので、お咎めにならないでください」
「アイヴィー……! しかし」
なんでこの人私のこと名前で呼んでるんだろう。
王子だし、流石にそんなこと言えないから一度もそこを指摘したことは無いのだけれど、後ろにいる彼女がちょっとだけざわりと動いた気配を感じた。そりゃ怒るでしょうね、私も貴方の立場だったら怒ってるもん。
「私を心配してくださったならありがとうございます。 ですが、私は大丈夫ですので、あまりお気になさらないでください」
貴族としての言葉とか、駆け引きとか。私は一切できない。だから、ちょっとだけ前世の知識を使って、それっぽい対応をしてみる。拙くても、礼儀正しく対応してるように見せるだけで印象は違うものだ。
ついでに言うなら、こういう対応ってめちゃくちゃ他人行儀っぽいから、壁を感じるだろうから、敢えて。
「アイヴィー……君は本当に…………、ッリンダ! 今日は彼女の優しさに免じて許してやる。次は無いと思え!」
次が無いのは貴方だよ。
「は、はい……殿下……」
「ではアイヴィー、教室に戻ろうか」
この人、人の話聞いてたのかな?
「そうですね。 みなさん、教室に戻りましょう?」
勝手に隣を歩こうとする殿下の隣を自然にすり抜けて、リンダ様を挟み込むような形で回避する。
何故か殿下がリンダ様の方を敵を見るような目で睨みつけていて、リンダ様も流石に顔色が悪かった。ちょっと申し訳ないなと思ったけれど、リンダ様は何も悪いことをしてないから自信を持ってほしい。……いや、平民差別してたから全面的に悪くないわけではないんだけど。
まぁ、それを言うなら、私も貴族差別を内心ではしてるからお互い様よね。
魔法学園は本来は十三歳から入学して三年間通う学校だ。
なので、私は最高学年である三年生の始まりから編入した。因みにそれから半年ほど経った。
あと半年すれば、卒業となるのだが……私はただ、言われるがままに学校に通って、勉学に勤しんでいた。
乙女ゲーム? ヒロイン? いやいや、結構です。 心の底からそう思っているので、自分から彼らに接触さえもしようとしなかった。
まぁ、このゲームへの強制力って言うのは凄くて。結局みんな私と接触してくるし、なんならあけすけな好意さえも向けて来るんだけど。全く願ってない。
しかもどうやら、同性からは平民出身でありながら、後ろ盾に公爵家。さらには私自身が本来の乙女ゲームでのアイヴィーと違い、何事にも冷めきってしまったような雰囲気を纏っていることが偉そうに気取っていると捉えられてしまっているらしい。
それにより起きる嫌がらせも、何だか子供っぽくて、馬鹿馬鹿しくて。デューク、……彼だったら「くだらねー」って言って一蹴するんだろうなって思ったら、それだけでどうでも良くなってしまって。
だから反応しないで放っておいたら、あんな嫌がらせを受けているのに、一人で健気に耐えて、誰が悪いとも言わないその気高い心に惹かれた、とかなんとか。全くもって本当に馬鹿馬鹿しい言い分でゲームの攻略対象者達から言い寄られる結果となってしまった。
本当に、勘弁して欲しい。私はただ大人しくこの学校生活を終わらせて、誰とも懇意にならずに、元の平民として戻りたいだけなのに。
心のどこかで、どうせ無理なんだろうけどという現実を見ている私がいるけれど、知らないふりをする。いつか帰れるって思ってないと、足元から崩れ落ちてしまいそうなぐらいに、私の心はまだ、癒えていない。
とにかく、卒業まではあと半年。
その前に、一つ大きなイベントが三か月後にあるのだけれど、それまでに私はこのふざけたゲームの世界から脱却するために、動かないといけない。
ゲームのヒロインとして生きるつもりはない。が、強制力のせいかなんなのか知らないが、好かれたいとも思ってない人に好意を向けられたり、何もしてない、言ってないのに勝手に周りが決めつけてゲームの通りの展開にしていくこの状況を半年間見続けてきた。今までのことだって別に良いってわけでもなかったが、そこまで問題と思っていなかった。けれど、このイベントだけは違う。
「……あの、少々、お時間よろしいですか」
あの集団リンチに近いイベントから数日。
私は、かの公爵令嬢であるリンダ・ジェファーソンが教室で一人のところに、突撃した。
「……無礼であるという自覚はおあり?」
貴族のルールだったか。目上の者に声を掛けられるまでは、掛けてはいけないっていう。
「はい。けれど、ここは学校です。 学校は法の下、この学校に通う者全ては身分関係なく平等の立場である、という規則があったかと思います。 無礼かもしれませんが、規則違反ではありません」
「……」
「あの、私の話を聞いて欲しいんです。 聞いた上で、それでも許せないならいくらでも罵っていただいてもいいんです。でも、どうか」
「……場所を移動しましょう」
「……良いんですか?」
「ええ。 ……私も、貴方とは一度二人でお話してみたいとは思ってましたから」
ど、ど、ど。と耳に響くぐらい鼓動がうるさくて。学校に通うようになってから、こんなに緊張したのは初めてだ。
リンダ様に言われるがまま後をついて行き、一つの部屋に辿り着く。ここは高貴族の中でも成績優秀者三名に与えられる特別なサロンの一つだそうだ。つまり、リンダ様はトップスリーの中だということ。本当凄いな。
一つ一つの家具やら何やらが高価そうで全然落ち着けない。促されるままにソファに座る。彼女は少し離れたところでカチャカチャと何かしていた。……あれ、お茶、淹れてる?
「貴方、砂糖はいくつ必要かしら」
「え、あ、じゃあ二つで……というよりお茶は私が」
「あら? 平民風情が淹れたお茶をこのわたくしに飲めと?」
「……滅相もございません」
音も立てず、目の前のテーブルに美味しそうな紅茶が差し出された。そのまま対面に彼女が座るのを見届ける。
優雅にお茶を飲む姿も綺麗で、所作全てが洗練されつくしている。田舎育ちの何も知らない女が見てもそう思うのだから、きっと百人中百人が素晴らしいと両手を叩くに違いない。
「……それで? 話と言うのは?」
「……あの、殿下のこと、なんですけれど」
こちらも紅茶を飲もうかと指先がティーカップに触れようとしたその時。話題を切り出されてその指はそっと膝の上に戻った。
優雅にお茶を飲みながら話せるほど度胸は無い。流石に喉が枯れてきたら飲むかもしれないが、今は彼女の気が変わらない内に言いたいことを言ってしまうのが重要だ。
そう気を取り直して、話しておきたかった内容を語り出す。殿下の名前を出したせいで、微かに眉尻が跳ねたような気がする。無理もないが、話は最後まで聞いてくれるつもりらしく、彼女の口は閉ざしたままだ。
「……その」
しかし、いざ話し出そうとすると、言おうとしていた言葉は口から上手く出てこなかった。
別に誰かに防がれてるというわけではない。ただ、語ろうとしている内容に問題があった。事実をちゃんと述べれば理解してくれる。心のどこかで慢心していた。けれど、真っ直ぐに冷静に見つめてくれる彼女を見ていると、そうじゃないと思ってしまう。
そりゃ、そうだ。 私はその気は一切無いのに、殿下の方から寄って来ている。だから私に矛先を向けられても困る。 だなんて、正直に告げて、解決するわけがない。ここにきて、耳を傾けてくれているたった今、それに気付いてしまった。
ちょっとだけ、血の気が引く。殿下が勝手にやっている、だなんて目の前の彼女からしたら至極屈辱的だし、何より殿下に失礼と判断されてしまう。それだけでさらに好感度はマイナスされるだろう。今時点でも相当マイナスだろうけど。
そこまで悟って、自分にはどうしようもないことなんだと、気付く。
婚約者を咎めても聞いてもらえず、近付く女性に告げても結果は変わらず。
挙句にはその女性が私は別にそんなつもりはないと言ったところで。ならいいんですよって許して終わるわけもない。
胸がぎゅうと痛くなった。
――お前は単純なんだから、難しいこと考えても何も得しねぇよ。
そんな、聴き慣れた、大切な人の言葉が頭に響く。
「…殿下に、リンダ様は勿体ないと思います」
言葉を詰まらせて、八方塞がりの状態である自分の立場を自覚して、どうしようと頭を巡らせていた。折角話を聞いてくれようとしていたのに、最悪何でもないですと場を切り上げるしかない。そこまで考えてた。
そのはずだったが、次に出た言葉は、するりと出た本音だった。
「……なんですって?」
「あ、えと」
見るからに怒りを滲ませていくリンダ様に、さらに冷や汗が湧き出て来る。無理もない、突然婚約者を悪く言われたのだ、リンダ様のような責任感の強い方は怒るに決まっている。
そもそも、こんなことを言うつもりは無かった。私の大好きな声が、我慢しなくていいって言ってくれた気がして、ついその妄想に甘えてしまった。私も大概である。
しかし、言ってしまったものは仕方ない。どうせ何を言ったって怒られるし、嫌われるのだ。なら、とことん言ってしまおう。
「貴方、殿下に向かってそのような物言いは……!」
「で、でも! 殿下はリンダ様の婚約者なんですよね!?」
「そ、……そうですけれど」
「婚約者がいるのに、めちゃくちゃ私に言い寄ってくるんです。私はやめてくれって言っても謙虚な姿勢が好ましいとか言って」
「それは……」
「あと私は名前呼びを了承してないのに、呼び捨てですし」
「まぁ……」
「そういうのを避けるために、わざわざ教会で名前を貰って来たのにですよ」
そう、私は平民なので姓と呼ばれるものが無い。
けれど、それはこの学校を過ごしていく上で何かと不便だからと教会で姓を貰って来たのだ。
因みに、高額のお金が掛かってしまうが、ちゃんと払えば誰でも貰える。
アイヴィー・カーヴェル。 それが今の私の名前。
「それに、私貴族になるつもりもなくて」
「そうなの?」
「平民のまま、帰りたいんです。 もう、半年以上も実家に帰れてなくて……多分、このまま帰さずに、どっかの貴族と結婚させて囲い込もうとか、思われてるんだろうなって」
「……」
ぽつりぽつりと話し出したら、今度は止まらなくなっていく。
ずっと胸に抱えて来た澱みのようなものが、次から次へと吐き出されていった。リンダ様は途中から相槌も打たず、ただ真っ直ぐ私を見遣るだけ。
話し過ぎだとわかっているのに、止まらない。ここでリンダ様が少しでも制止してくれたら、止まれたかもしれなかったけど、彼女はそんなことをしなかった。だから、口から本音が零れていく。
「ただ、私はあの時みんなを……大切な人を、助けたかっただけで、こんなこと、望んでなかった」
目をぎゅっと瞑った。あの光景が鮮明に思い出される。
真っ赤に染まる視界の前。少しだけ痛んだ、それでも誰よりも優しくて愛しい黒髪がこちらを見ることも無く、男の下へ駆けていく。使い慣れない剣を、両手で振りかざす。
それよりも先に、横からやって来た男が、彼の体躯へ向かって剣を――。
「っ、」
胸が痛くて、張り裂けそうで。ひゅう、と喉奥が空気を鳴らした瞬間、目元に柔らかい何かが当てられる感触に、瞑っていた瞼を上げた。
目の前には、リンダ様はいなくて。けれど、彼女は立ち去ったわけでは無く、気付いたら隣にいた。
隣にいて、そっと、ハンカチを私の目元に当ててくれていた。
視界が潤んでいる。泣いてるんだと、そこでやっと自覚した。
「リン、……」
思わず名前を呼びそうになって。けれど、その声は先程までとは全然違う、優しい瞳と、柔らかな笑みを見て、込み上げる感情の波に巻き込まれて消えてしまった。
◆
結局、ちゃんと会話が出来るようになるまで大分時間が掛かった。
子供のように泣きじゃくる私を、リンダ様……リンダは、落ち着くまで待ってくれた。
「貴方のこと、大分誤解してたみたい。 ごめんなさい」
そう真っ先に謝罪してくれた彼女に、私も素直に失礼な態度を取ったこととかを謝罪した。
「貴方の後見人であるテイラー卿は、とても温厚な人で……それこそ己の利益のために人を利用するとか、あまり好まない人なの。だから、そんな彼でも貴方をそのように拘束しているとなると……きっと、貴方の予想通り、国が絡んでいる可能性は高いと思うわ」
「そっか……」
落ち着いて、改めて話をすると真剣にリンダは考察してくれた。私よりも国の情勢とかを理解している彼女の言葉だからなのか、それとも、私の話を否定することなく聞いてくれたからだろうか。彼女の言う言葉は、すんなりと頭に入っていく。
私の後見人であるテイラー公爵は、私が思っているより悪い人ではないと思う。そう彼女が言ってくれて、それについてもこくりと素直に頷いた。
確かに、もし本当に早急に囲い込みたいなら、やりようはあった気がする。公爵家には息子が一人いて、彼はまだ婚約者もいなかった筈だから、それこそ、そのまま婚約をそこで結ばせたりとか。そうじゃなくても、会わせて、懇意にさせようとしたりとか。多分、色々出来ることはあったのかも。
「問題の殿下なのだけれど」
一通りの話をして、少し間を置いて。そう、リンダは話を戻した。
その言葉を聞いてぴくりと肩が跳ねる。一番最初、相当失礼なことを言った自覚はあった。謝罪はしたけれど、撤回するつもりはないために、話をすればするほど、また失礼なことを言ってしまいそうな気がする。
「わたくしもね、彼にはほとほと困り果ててしまっているの」
「…………はぁ」
ちょっとだけ、身構えていた体勢から力が抜ける。
多分、本心から話してくれている。そう思えるのは、彼女の表情だ。さっきまでとは違い、まるで年齢相応な、取り繕っているようなものではない。
だからこそ、その言葉の内容に呆けてしまうのも仕方ないと思う。いや、確かに殿下のあの行動は客観的に見ても酷い。愛想をつかしても可笑しくはない。でも、何となく、私はリンダは殿下のことがそれでも好きなのだと思っていた。
「言っても聞く耳を持たないし。別に、側室を作ったり、愛妾を作るななんて言ってないのに」
「……リンダ様は、殿下のことが好きなんですよね……?」
「ええ、勿論。 けれど、彼に私は別に好かれているとは思っておりませんもの」
「……それでいいんですか?」
「それとこれとは話は別ですわね。 勿論、良い夫婦関係を築くためにも、好かれたいとは思いますし、努力もしますわ。 でも、人の心というのは思い通りにはなりませんもの。 ……貴方もでしょう?」
「それは、その」
「……先程言っていた、大切な人。 ……殿方なのでしょう?」
こくりと頷く。
「貴方が、その方をずっと愛しているのと同じように、私も彼をずっと愛してはいます。 ……けれど、相手が幸せならば、その気持ちを私に向けてくれなくとも、私は構わないと、そう、思うようになってしまいました」
少しだけ眉を下げて笑う彼女は、あまりに儚げに見えて。
その原因……きっかけは、きっと殿下の、私への好意を目の当たりにしたからだ、と。わかってしまったから、何の言葉も思いつかなかった。思い付かなかったけれど、凄く、遣る瀬無い気持ちだけは湧いてきて、その時私は、怒られるのだって構わないと、リンダのことを強く強く、抱き締めた。
最初は私の名前を呼んで、咎めるような言葉を吐いていた彼女も、ぺしぺしと私の背を叩いて咎めていた手を止めて、ぎゅ、と応えてくれた。
それから、少しだけの間。二人で、ひっそりと泣いたのだ。
そんな、打ち解けから一ヶ月経った。
リンダとは、最早気軽に話せる仲となった。お互いのことを呼び捨てにしている。
「リンダ~、この課題の問三がちっともわからない……」
「……アイヴィー、貴方ねぇ……そこの公式はこっち。その間違いは初歩中の初歩よ」
「あっ、そっか!」
リンダのおかげで約半年間、何事も無く淡々と過ごしていた学校生活に少しだけ色付いた。
彼女の取り巻きとも言える令嬢達も最初はとても驚いていたし、なんならちょっとだけ揉めたりとかもした。けれど、変わらず接してくれるリンダと、それが純粋に嬉しくてリンダと話したいのを取り繕わない私の様子を見て、段々とそのわだかまりも解けて行った。
……んだけど。
「リンダ! お前またアイヴィーを……!」
「……ごきげんよう、フィランダー様。 ……アイヴィーがどうかなさりまして?」
「どうかじゃない! お前またアイヴィーにそんな、」
「……そんな?」
「……えっと……」
突然やって来た殿下が、何故か私の名前を使って一方的にリンダに詰め寄る。けれど、彼が目にした光景は私とリンダで二人で隣同士椅子に座って、課題を広げ教え合っている姿。
見るからに私がリンダにいじめられているような様子では無い。というか、ここ最近私は嫌がらせなど受けていない。なんならゲームの攻略者対象達とも接してもいない。
どうやらリンダと私が一緒にいるイコール、リンダが私をいじめていると信じて疑わない殿下は、その情景がどんなものか伺い見ることなく突撃してきたようだ。とても迷惑である。
「フィランダー様? 何もないのでしたら、失礼いたしますわね」
「あ、ちょっ……」
「何か?」
「……いや」
そしてこの一ヶ月で、リンダも大分殿下への対応が変わった。なんというか、冷たいのだ。お互い一緒に泣いちゃうくらいリンダは彼のことが好きだった筈なんだけど……あれ、あれは夢だったのかな? って思うぐらい。
百年の恋も冷めれば一瞬ってやつなのかも。
……私のデュークへの想いも、冷めてしまったら一瞬なのかな。
そう考えちゃって、胸がきゅっと痛んだ。胸が痛いうちは、大丈夫。この気持ちは変わってない。そんな風に自分を元気づけることしか今の私には出来ない。
リンダに促されるままに二人で殿下の元からいなくなる。
彼の姿が見えなくなったところで、徐にため息を吐くリンダの背中をぽんぽんと叩いてあげた。
「アイヴィー……」
「……大丈夫?」
「……ええ。 なんというか、ここまでくると呆れも通り越して頭が痛くなってくるな、と」
「あはは……」
「それより」
リンダがくるりとこちらを向き直る。突然の動きにちょっとびっくりしてしまった。
ぽけ、とした顔をしてしまってリンダに「そのはしたない顔しない!」と怒られる。驚かす方が悪いと思うが、取り敢えず素直に頷いておく。
「二か月後、貴方誕生日があるんですって?」
「あ」
そのリンダの言葉に、どくりとちょっとだけ心臓が音を立てた。
二か月後、私は十六歳の誕生日を迎える。あの、地獄の始まりとも言える日から、一年が経つ。
「折角だから、その日はお祝いとして小さなお茶会をしましょう。友人を誘って」
「え、リンダが主催してくれるの?」
「他に誰がいるとでも? わたくしを差し置いて貴方を祝福する会の主催するだなんて許すわけがないでしょう?」
自信たっぷりな笑みを浮かべるリンダに、素直に嬉しさが募った。
地獄の始まりとは言ったけれど、リンダに会えて、こうやって仲良くなれたことは私にとっては幸せだ。
今の私は、正直それだけが救いとも言えるような状態ではある。
それに、リンダが主催してくれるお茶会を開くのであれば、きっとゲームのイベントのようなことは起きないだろう。
この世界が舞台となっているあの乙女ゲームは、卒業の日の三か月前にヒロインが誕生日を迎える。
その日が、このゲームの大きなイベントで、所謂断罪イベントがある。
そう、断罪イベントは卒業の時に起きるのではない。その前に起きて、終わる。
そして残りの卒業までの三ヶ月は、ただひたすら好感度を上げていく甘々なお話となるのだ。そして、卒業の時に告白イベントが起きる。
だから、ゲームの山場というのはこのヒロインの誕生日の時のイベントと言っても過言ではない。
さらにその断罪イベントは、普通の断罪イベントでは無い。
断罪される対象である悪役令嬢――リンダが、魔王の力に支配されて、私に襲い掛かってくるのだ。
そもそも、この世界の魔法は火、水、風、土、そして光と闇の属性が存在する。
よくある火から土の属性を四大属性と呼び、基本的には魔力を持つものはみんなその四大属性のどれかを持っていることが多い。
私の持っている光属性は、非常に希少だ。それに反して闇属性というのは光属性よりもは適合する人が多いのだという。
そんな闇属性だが、その属性を持つ者は、総じて魔力量が少ないらしい。というのも、闇属性の魔力を持つ者で、仮に魔力量が多いとその闇属性の魔力に、自身の精神が侵されてしまう危険があるのだ。
それを阻止するために、その属性を持つ者は魔力量が人よりもどうしても少なく生まれてくるんだとか。
リンダは、火属性の魔力を保持しながら、闇属性の魔力も持っている。
そのせいで、人より魔力量が少ないらしくて婚約を結ぶ前にそれに関して色々あったらしい。
そんなリンダは、ゲームだと婚約者をヒロインに取られ、その嫉妬やらなにやらで抱いていた負の感情を、魔王に目を付けられる。
この魔王というのが、正直何なのかはっきりしていないらしい。
多大な闇の魔力を抱いていても、その魔力に侵されない圧倒的なおぞましい存在……みたいな感じで語り継がれている。
そんな魔王は、肉体は無いが、その魔力だけで様々な所へ赴いてはそこにいる人間の負の感情を利用する。まるで一つの遊びのように。
なんだそれ? って感じなんだけどゲームでは魔王の力なんてものはこのイベントの時に突然出て来るし、そのイベント中に全て解決するから結局なんだったのか詳しく語られない。
そしてこの世界に来てからも、軽く調べてみても魔王のことはあまり詳しく書かれているものはなかった。ただ、存在はしているらしいが。
多分なんだが、ヒロインが高貴族である攻略対象者と結ばれるための、都合の良い称号を与えるためだけのイベントなんだろうな、と思っている。
というのも、この時魔王の力に支配されて私含めて全てを殺戮、破壊の限り尽くそうとしたリンダを止めて、その力を浄化するのが強大な光魔法を使うヒロイン――私なのだ。
そして、それを終えた後、ヒロインには『光の聖女』という称号が与えられる。聖女だったら元は平民でも誰も文句言えないよね。
私は、この半年間私の意思関係なくゲーム通りことが進んでいく状態を目の当たりにして、多分この断罪イベントも私が何もしてなくても起きるのだろうと予想した。
だから、リンダと打ち解けようと思ったのだ。リンダが私に対して負の感情を拗らせなければ、魔王の力は誰にも憑りつかず終わることが出来る。
勿論、打算的な考えではあったが、今はこうして本当の友人のような関係になれたから良かったと思っている。
そしてそんなリンダが、私を害そうとは思えない。だからきっとこの誕生日に起きるイベントは、大丈夫なはず。
◆
「……え、殿下?」
「ああ、アイヴィー。 誕生日おめでとう。リンダに誕生会を開くと聞いてな……参加させてもらうことにしたんだ」
いやいやいや。 何しに来てるのこの人。
驚きに呆然としている視線の先で、ちょっとだけ頬を赤らめた殿下が笑っている。
その先にいるリンダがちょっとだけ申し訳なさそうに私を見ていた。ああ、これ無理矢理押し切ったんだな。
殿下の後ろについて入って来たのは他の攻略対象者達で、もう勢ぞろいである。楽しい気持ちが霧散した。ちょっと泣きそう。
「アイヴィーお誕生日おめでとう。 君と出会えて、僕は幸福だ」
「は、はぁ……」
片手を取られて、指先に口付けられる。もう本当に勘弁してほしい。
私の内心を知っているからだろう、怒ると言うよりもは「うちの息子が本当ごめんなさい」みたいな雰囲気で眉を寄せつつ沈黙しているリンダを思うと本当につらい。
ぞろぞろと次から次へと攻略対象者達がお祝いと、胡散臭い愛にも似た言葉を掛けていく。
お祝いの言葉は嬉しいが、後半が要らない。けれど断るわけにもいかなくて、ちょっとだけ濁すような言い方で有耶無耶にした。
「ごめんなさい、アイヴィー……」
「ううん、リンダは悪くないよ。……寧ろ、ごめん……」
一通りの挨拶も終わって、談笑して。テーブルに座ってお茶を楽しんでいたが、ちょっと歩こうと言う話になり各々が庭園を回り歩く。
殿下がこちらを誘いたそうな様子……というか視線を向けていたが、さらっと無視して私はリンダの下へダッシュ。婚約者を差し置いて堂々と誘えまい。いや、やりそうだけど。
「改めて、誕生日おめでとう、アイヴィー」
「うん、ありがとうリンダ。 ……嬉しい」
十六歳の誕生日。一年前の誕生日のことを思うと、まだ胸がずきずきするけれど、振り切るように笑って見せた。
リンダは、一年前にあったことを知っている。私から聞いているのだ。だから、あの約束のことも、リンダはわかっている。
「……本当は、」
「え?」
ぽつりとリンダが小さな声で話し始めた。あまりに小さな声だったから、聞き落としそうになって立ち止まってリンダの方へと耳を傾ける。
「アイヴィーを喜ばせたくて、わたくし、さがしたの」
「……? なにを……?」
「けれどね今行方不明なんだって……言われて……」
ざわりと、風が吹いた。大きな音だった。けれど、何故かリンダの声があんなにも小さかったのに、はっきりと耳に届く。
「……リンダ?」
「っ……アイヴィー、落ち着いて聞いて欲しいの。 彼……デュークは、貴方がここに来た時からずっと……」
「キャァアア!」
突如。どこからか、悲鳴のような声が響いた。
なんだ! と叫ぶ声が聞こえ、風がさらに大きく吹く。気付けば、空が段々と曇っていっていた。雷雲なのか、雷鳴のような唸る音が遠くでしている。
目の前のリンダが、目を見開いて、私の方を見ていた。
いいや違う。私の先……私の、後ろを見ている。風がまた、大きくざわついた。澱んだ空気が広がっていく。
まるで、闇のような、そんな、気配。
ゆっくりと、振り返る。
リンダが見ている先を、追うように、振り返って、先をゆっくりと見据えて。
「…………デューク?」
私は、彼を見つけた。
◆
「この力……! まさか! 魔王の力か!」
そう叫ぶのは、殿下だ。
私を、リンダを庇うように殿下が立ち、さらにその前には彼の護衛も務める攻略対象者達の姿。
けれど、私はその先にいる彼から目を逸らせなかった。
毛先が、ちょっとだけ痛んで茶色がかっている黒髪は、以前見た時より伸びて、肩下まで無造作に流れている。
冷たく、鋭い目つきでこちらを見る彼の瞳は、あの時よりも深い、まるで深海を閉じ込めたような青で――。
「……邪魔だ」
「ぐ、ぁ!」
一人の男が、彼に攻撃を仕掛けるように剣を振るう。けれど、彼はそれを容易く腕で払いのけ、ぶわりと禍々しい魔力で弾き飛ばした。
声を聞いて、確信する。間違いない。彼だ。デュークだ。
けれど、困惑を隠せなくて声が出ない。あの髪色も、目も、声も、彼だってわかるのに。
なのに、彼の取り巻く雰囲気が、姿が、まるで別人のようだ。
「フィランダー様! いけません! お下がりください!」
不意に、リンダが声を上げた。彼は、あれでも王太子だから、真っ先に守らなくてはならない対象。
リンダは私を押しのけて、殿下の下へと駆け付けようとする。多分、立ってるのがやっとだったのだろう身体は、リンダにぶつかった拍子にぺたりと座り込んでしまった。
取り残された私は、呆然とその光景を眺める。必死に後ろへ下がらせようとするリンダと、男として、君や彼女を守らなくてはならないと叫ぶ殿下。
みんなが対峙する相手は、黙ってその光景を見ている。……いや、違う、私を、見ている。
服からのぞく皮膚は、血管のような黒い痣を浮かばせていて、とても痛そうだ。
瞳孔も、よく見たら開きかけのように見える。彼の周りにはぶわりぶわりと、黒い霧のようなものが漂っていた。
私は、その姿に見覚えがある。 私というよりもは、前世の私。
『魔王の力』
あの姿こそ、魔王の力に支配されていた、本来ならばゲームのリンダの姿だ。
でも、リンダは今目の前で、必死に殿下を守ろうとしている。
……ならば、どうして、魔王の力が現れる?
そして、なぜ、それは、彼に、ついている?
「一年前、この男は酷く絶望していた」
低い声が、響き渡る。まるで、楽し気に語るように。
圧倒的な力を前に、誰もが警戒から動くことが出来ず、その光景をさらに彼は愉快気に見遣りながら言葉を続ける。
「惚れた女を失い、迎えに行く資格さえも貰えず」
視線がぐるりと周囲を見渡した後、再び私へと戻る。射貫くようなあの青い瞳と、視線が交じり合う。
「力が欲しいと、嘆いていた」
暗く、澱んだ瞳。
「だから、与えてやったのだ」
その瞳が、微かに揺れた。
『――王子様ぁ?』
『そ! 私だけの王子様! いつか、私を迎えに来てくれるの!』
『くっ……だねぇえええ……』
『なによ! くだらなくないわよ!』
『くだらねぇよ! だって王子様なんてかっこ悪いじゃんか』
『かっこ悪くないわよ! 何言ってるの!』
『王子ってのは、守るより守られる生き物なんだよ。お前そんなこと知らねえの?』
『な、な』
『んなもんよりさぁ――』
「人の弱さに付け込むとは、なんと外道な!」
「ハッ……なんとでも」
殿下が叫べば、彼は鼻で笑うかのように息を吐いて一蹴する。
私の視線は、彼から逸らすことは無い。だって、仕方ないと思う。
一年だ。人からすれば、たった一年かもしれない。けれど、毎日のように一緒だった存在と、覚悟も無く別れた一年だった。
ゆっくりと、足に力を入れる。
ゆらりと、ふらついてしまいそうになりながらも立ち上がれば、一歩、また一歩と前へと踏み出した。
再び、一人の男が彼へと突撃する。けれど、まるで群がる虫を払いのけるかのように、彼は腕を振ってそれを弾き返す。
先程とは違う、左手を振り払った彼の手首から、ちらりと深い青の色が揺れた。
「……っ」
夢を見ているような心地だった。
正直な話、卒業しても会えない可能性の方が高くて。さっきのリンダの言葉で、本当に怖くなってて。
だから、彼が、デュークが、今目の前にいるのが、嘘みたいで、夢みたいで。
「……アイヴィー……?」
「っ、アイヴィー!? 下がれ!」
リンダと殿下の横をすり抜けて、歩んでいく。私を止めようと伸ばした殿下の手が、何かに弾かれた音がしたけれど、気にならない。
視線はまじ合ったまま。深い深い青色。
何よりも、誰よりも、大好きな、その色。
その瞳が、また、少しだけ揺れた。
気付けば、私は走り出していた。後ろから私を呼ぶ声がする。けれど止まれそうにない。止まりたくない。
手を伸ばす。足を踏み込んで、その全身を全て彼へと向ける。
傍から見たら、私は敵のボスに裸で突撃した阿呆なのかな、なんてちょっとだけ気持ちがよそ見した。
けれど、それを咎めるような力強い手が、伸ばした手首を掴む。一瞬で意識はまた彼に向いて、視線がまた交じり合って。
『俺だったら、誰にも負けないぐらいの力手に入れて、迎えに来てやるよ』
「っ、デューク!」
「アイヴィー……ッ!」
力強い、抱擁だった。
いつもだったら、痛いって笑ったけれど、今はその痛みさえも嬉しかった。
温かくて、それが彼が生きていると実感して、止まっていた時間が進むような穏やかな気持ちが湧き上がる。
「……悪い、遅くなった」
「……遅いよ、ばか」
ちょっとだけ身体を離して、顔を見上げれば、そこには懐かしいいつもの、優しい彼の顔があった。
浮いていた黒い痣もない。彼の顔の向こうから覗く空は、気付けば晴天だ。
「……どういう、こと、だ?」
呆然とした声が、後ろから聞こえる。殿下だろうか。
◆
デュークには、底知れない、闇属性の適合があったらしい。
らしい、というのはデュークは根っからの平民で、魔力が存在してなかった。
だから自身がどんな属性を持っているかなど、知る筈も無かった。
あの孤児院での事件の時、デュークは襲撃者と対峙して瀕死になるほどの重傷を負った。
意識が朦朧としていく中、ただ必死にデュークはアイヴィーだけでもと手を伸ばした。
しかし、次に意識が戻ったのは、孤児院で事件の全てが終わった後で、町の診療所だった。
デュークはアイヴィーの無事を確認しようとみんなに訊いたが、みんな気まずそうに答えを噤む。
嫌な予感がして、怪我は治ったもののまだ怠い身体を鞭を打ってアイヴィーの実家に行ったところ、聞かされたのはあの時の事件の詳細と、公爵家に引き取られたという話。
茫然自失。そんな状態のまま、デュークは孤児院へと訪れた。
襲撃のせいでボロボロになった建物は、数日後修繕を開始し、それまでは、別のところで活動をしていくらしい。
血痕も残った状態のそこは、死体などないけれど、まさに地獄絵図。
――守れなかった。
デュークの心はその一色に染まった。守りたかったたった一人の女の子さえも守れず、のうのうと生き延びた自分が情けなかった。
そんな時、デュークはふと地面に落ちているリボンに気付く。
深い、青色のしたリボン。思えば、あの日アイヴィーの髪を結んでいたのはこのリボンだった。
難しいわけではないが、平民は湯あみも満足に出来るわけでもないから髪の毛を伸ばすのも一苦労という話もある。
わかっていはいたのに、デュークはアイヴィーのあの細いけれど線のある、柔らかなミルクティーの髪が好きだった。
いつか、自分の手で、あの髪に結ばれたリボンを解く権利が欲しいと願う程に、こがれていた。
リボンを拾い上げて、そっと口付ける。
つう、と頬を伝う涙も拭わず、ゆっくりと瞼を持ち上げて、仄暗い自分の欲を口に出した。
「……取り、返さねぇと」
約束も、まだ果たせてない。
渡したいものがあった。伝えたい言葉があった。
そのために準備し続けた。あとちょっとだったのに。
『ほう、面白い魂を持っている』
デュークが所謂魔王の力と呼ばれるそれと出会ったのは、その時。
その日から、デュークは姿を消した。
◆
「闇属性の魔力ってのは、結局強大だと精神が負けちまうって話なだけで」
「ふんふん」
「負けなきゃいいだけの話なんだよ」
「デュークの言ってることがとんでもなく可笑しいことだけがわかった」
デュークは、どうやら魔王の力を完全にコントロール出来るらしい。
出来るようになるまでに、一年かかったのだという。
「結局、魔王の力ってなんだったんだろ……」
「魂」
「え?」
「魔王の魂だよ、あれは」
事も無げに告げるデュークにぽかんとする。
「え、じゃあ、その魂は今どこに……」
「ん? 俺のもんになった」
「……んんん?」
首を傾げる私に、デュークがにっこりと笑う。あ、その笑い方、結構好きかも。
「だから、魔王の魂を俺が食らったってこと。 実質俺が魔王みたいなもん?」
…………。
「…………やばくない?」
「そうか?」
こくこく、と首を上下に振りまくると首取れるぞ、と顔面を掴まれた。痛い。
顔を逸らすようにしてその手から逃げつつ、横目にデュークを見遣る。伸びていた髪の毛は切ったようで、毛先はいつもよりも痛んでなくて真っ黒。さらにいつも平民として、さっぱりとした服装だったから、デュークの制服姿はめちゃくちゃかっこいい。
デュークは、今私と同じように魔法学校に通っている。
あの後、事の顛末を知った国が、貴族どころか王族にまで盾突いた筈のデュークを咎めることなく慌てて囲う体制を敷いた。
かの魔王の力と呼ばれるものを完全にコントロール出来ると言う存在を、敵に回すのは得策ではないと判断したのだろう。
そんな国の動きに、デュークは、
「アイヴィーがいればいい」
とだけ伝えたのだと言う。
そうするとあれよあれよと気付けばデュークは卒業までのたった三ヶ月だけ一緒の学生へ。
さらに、卒業した後も取り敢えず爵位は用意するので望むなら貴族へ、いやなら平民でも構わないが王都には住んでほしいとか。
因みに私はデュークの婚約者みたいになっている。なにがなんだか。
「つか、さ、アイヴィー」
「うん?」
「一年前の約束の話なんだけど」
「あ、う、うん」
急に真剣な顔になって、話を切り出すデュークに、顔に思わず熱が集まる。
とくとく、と心臓が鳴る。何より、デュークがあの約束を覚えていたことが嬉しい。
「卒業式の時に、リベンジしていい?」
「……今じゃなくていいの?」
「前回それで失敗してるから、正直今めっちゃ言いたい」
ぎり、と露骨に奥歯を噛み締めつつ、顔を顰めるデュークに苦笑が漏れた。相当根に持ってるんだなぁと思うけど、それはまぁ私もなので。
「けど、妥協したくねぇから待ってて。 次は絶対に言う」
そう言って、デュークはそっと私の額に口付けた。
……そこまで言うなら、もう今言っても変わらないと思うんだけどなぁ。
でも、やっぱり、そういう気持ちを持ってくれていることが何より嬉しいから。
「うん。 次は、ちゃんと待ってる。 隣で、ずっと待ってるよ」
卒業の日。両手いっぱいに青の花を抱えて、ド直球過ぎて赤面まっしぐらな愛の告白をデュークから受けるのは、また別の話。
……卒業までの三ヶ月で、私もデュークも沢山の友達が出来る話や、あの殿下が、リンダを溺愛していくのも、また別の話。
デュークとアイヴィーの学校生活や、リンダとフィランダーの話など書きたいなと思っていた話はまだちょこちょこありますが、蛇足になってしまいそうだったので全部カットさせていただきました。
こんなに長くなる予定では無かった上、やや言葉足らずの場所も多々ありましたが書ききることを目標に書いていたのでご容赦いただけますと幸いです。
最後までお読みくださりありがとうございました。
旧題「貴方だけのヒロインになりたい。」