3 吉田楓はチョロイン?
楓はいつもどおり、五時半に目覚めた。
紀夫の帰国は昨日だった。本来ならば空港へ出迎えに行くつもりであった。だがその気になれず、迎えに行けなかった。
見送りの一件以来、気分が冴えない日々が続いている。
体を起こすと、ベッド脇のサイドチェストに置いてあるスマートフォンを手に取った。メッセージの新着マークが付いている。
メッセージアプリを開くと紀夫からのメッセージだった。
『帰国した。話があるから会いたい』
毎日の様に送られて来ていたメッセージは、その都度読んでいた。トークルームの履歴を遡ると、長文・短文入り乱れて紀夫が言い訳を連ねている。いずれの内容も「真里という女とは初見であり、婚約者というのは彼女が勝手に言っただけで誤解だ」という事でブレは無い。
紀夫が浮気などできる性格ではないのは、長い付き合いで知っている。だからメッセージの内容は本当の事だろう。
楓が返信しなかった理由は他にあった。キスの件だ。キスについて触れたメッセージが一件もない。
紀夫の言い訳から推測すると、キスは紀夫から仕掛けたモノではない。真里とかいう女が強引にキスしたのだろう。それならそうと、キスについての言い訳やら開き直りやらを一言でも寄越せばいいモノを、全く触れてこない。
キスについて紀夫から弁明がない限り、楓としては平手打ちした事を謝る条件が揃わないのだ。
気分が冴えないのは、これが原因である。楓はサッサと謝って仲直りしたいだけだった。
『お帰りなさい』
とだけ返信して、出勤の準備に取り掛かった。
七時にマンションを出て、電車に揺られる事一時間。八時十五分には勤務先のオフィスに到着した。
スマートフォンを鞄から取り出して確認すると一件の新着メッセージが表示されている。アプリを開くと紀夫からのメッセージだった。
『今夜、時間取れるか?』
今日は残業する程の仕事量は無い。定時退社する予定だったので、
『晩ご飯奢りなさい』
と返すとすぐに既読となった。
『りょ』
『牛丼とかラーメンとか嫌よ』
楓は何処からか下手糞な口笛の音が聞こえた気がした。
『食べたいモノあるか?』
『お店考えておく』
『お高い店だけは勘弁な』
『覚悟しておいて』
『時間を後で教えてくれ』
『七時でどう?お店は予約しておきます』
『りょ。仕事頑張れよ』
『ありがとう』
しばらく紀夫からの返信を待ったがメッセージは来なかったので、楓はスマートフォンを画面ロックして仕事の準備に取り掛かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
午後七時。
高層ビルの三十六階にあるフレンチ・レストランの入り口に楓と紀夫の姿があった。
店の入り口で対応してくれたギャルソンに楓が予約を入れてある旨を伝えると、窓際に配置されたスクエアテーブルに案内された。テーブルには「Reserved」と書かれたプラスティックの札が置かれている。ギャルソンはメニューをテーブルに置くと札を持って下がっていった。
「お高い店はやめてくれとお願いしたんだがなぁ。」
「あら、ここは高くないわよ?ドレスコード無かったでしょ?」
紀夫の出で立ちは、薄い青のダンガリーシャツにオフホワイトのジャケット、下はノンウォッシュのジーンズにデッキシューズ。
ドレスコードの店では確実に入店を断られる。
とはいえ一番安いコースで福澤諭吉が一人必要な価格設定である。それだけ楓のご立腹度が高いのだろうと紀夫は思った。
紀夫はメニューを手に取り、中を見た。アラカルトをあれこれ頼むのは悪手である。会計時にコースより高い請求額になるのを、紀夫は経験済みだ。コース料理の献立を吟味した。
楓はメニューに一通り目を通して、中ランクのコースが良いと言った。紀夫も同意した。二人分で諭吉が三人。紀夫の財布には諭吉が二人しか住んでいないのだが、クレジットカードで支払うから問題ない。
ギャルソンを呼んで、楓の指定したコースを二人分。食前酒として楓はホワイトリカーの梅酒をソーダ割りで。紀夫は世界記録収集家のビールを。メインが魚料理だったので、ソムリエお勧めとメニューに書かれた白ワインをグラスで二つ頼んだ。
程なくしてセルヴーズが頼んだアルコールを持って来た。
二人は梅酒とビールのグラスをそれぞれ持ち上げる様にして、
「「乾杯!」」
と言ってからゴクリと喉に流し込んだ。
「ねぇ、紀夫。」
「なんだ?」
「空港での件なんだけど。」
「ああ…」
紀夫が楓に会って話す予定の話題とは違う話題を楓は切り出した。
楓にすれば、紀夫と会って訊く事といえばこの話しかないのだが。
「キスについて一切の弁明を貰ってないんだけど…」
「…」
「何か意図でもあるの?」
紀夫は焦った。あのキスは真里がいきなりしてきた事で、紀夫に落ち度も責任も無い。のだが、キスされた時に年甲斐も無く紀夫の心臓はドキドキと脈拍が上がった。
楓とは当然の様にキスをするが、最近はドキドキとする事は無い。
楓に対して後ろめたい気になり、紀夫自らは触れたく無いのである。
「ああ、別に他意はない。メッセージで送っている様に、あの女の身勝手な言動から、楓なら予想できるだろうと思って伝えなかっただけだ。」
紀夫は平静を装いながら答えた。
「本当に?」
「ああ、本当だ。あれは事故だと思ってくれ。」
「舌を入れたりしてない?」
「バ、バカなころ言うにゃら。(バカな事言うなよ)」
噛んだ。楓の表情が変化する。口角が横一文字になった。
「今、噛んだよね?ね?」
「噛んでない。」
「真里が舌を入れてきた」とは口が裂けても言えない。ドキドキしてしまった事は墓場まで持っていかなければならない。もしバレたら紀夫は楓によってこの世から抹殺されるだろう。
紀夫は務めて平静を装おうとした。
「何を隠してるの?」
「…」
「前菜をお持ちしました。」
セルヴーズがサラダを持ってきた。
楓と紀夫の前にサラダが盛りつけられた皿を置くと、彼女は下がっていく。
セルヴーズの登場により、話がブッた斬りされた。
紀夫は心の中でサムズアップを決める。
『お姉さん、グッジョブ!』
二人は無言でサラダに手をつけた。
「楓に聞いて欲しい事がある。いや、お願いかな。」
サラダを食べ終えた紀夫が口を開いた。
「何かしら?」
「親父が栄転で福岡に行くことになった。お袋も連れてだ。」
楓はフォークを置き、紀夫の言う事を黙って聞いた。
「俺は実家で一人暮らしする事になる。そこでだな…」
紀夫が言わんとする事を、楓はすぐに予測できた。紀夫の家事ポンコツは知っている。表情が自然と綻び始める。
「休日だけで良いんだ。掃除とかしに来てくれないかな。こんな事頼めるのは楓しかいない。」
楓は満面の笑みを浮かべる。「来た〜!待ってたのよ、このシチュエーション」と叫びたくなる。しかも何?頼めるのは私だけって?ご褒美ですか?
楓のテンションはアゲアゲである。
「良いわよ。休日だけで良いの?日々の食事とかはどうするの?」
「休日だけでいいよ。掃除だけでなく食事も作ってくれると嬉しいな。」
楓はニコニコが止まらない。尻尾がブルンブルンと揺れている。
「平日の食事とかは、どうするの?」
「仕事帰りにどこかで食べるか、帰ってから店屋物を頼むか。帰りが遅い日はコンビニに依存するか。まぁ、なんとかなるだろう。」
「毎日、作りに行っても良いのよ。」
「流石にそこまで頼る気は無いよ。楓も仕事を持ってるのだし。休日だけで良いよ。」
楓の尻尾がバサッと垂れた。自分の事を気遣ってくれているので、ゴリ押しできない。
「わかったわ。とりあえず休日だけね。」
「うん。頼む。」
「そのかわり、毎日の食事についてはチェックさせて貰うわよ。あまりにも酷かったら、毎日作りに行くからね。」
「分かった。」
「スープをお待ちしました。」
ギャルソンがやってきてポタージュスープの入った皿をテーブルに置いた。代わりに紀夫の食べ終わったサラダの皿を引いていく。
楓は慌てて食べかけのサラダを頬張り、ドレッシングにむせて目に涙を浮かべながらケホケホしている。紀夫はそれを見てクククッとほくそ笑む。
ギャルソンに「慌てなくても大丈夫ですよ」と声をかけられ、楓は恥ずかしいやらなんやらで顔が真っ赤になる。紀夫は堪えきれずにアハハと高笑いしてしまい、他の客の注意を引いてシュンと肩をすぼめた。
楓はなんとかサラダを食べきり、空いた皿をギャルソンに引いてもらう。クククと思い出し笑いしている紀夫をジト目で睨みつけた。
それから後は、どうでも良い話をしながら料理を堪能した。
特にメインに出てきた桜鯛のポワレは、シェフオリジナルのソースが鯛の旨味を存分に引き出す至高の一品であった。
料理も一通り出尽くし、食後のデザートが出された。
楓は窓の外を眺める。夜の街並みに煌く灯り。今日の夜景は忘れられない思い出の一つになると確信すると共に、決意を新たにする。
『休日だけと言ってるけど、そうはいかないわ。紀夫、胃袋を掴ませて貰うわよ。覚悟してて』
キスの件が有耶無耶になっている事は黙っておくとしよう。
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