2 久保田家
五月十日。
紀夫はロサンゼルスでの仕事を確実にまとめあげて帰国した。今回の取り引きも上々の出来だと自画自賛し、少し浮かれ気分での帰国である。
家にたどり着いたのは夜の九時を回っていた頃だった。紀夫は玄関のドアを開けようとして違和感を覚えた。
ガレージに視線を移すと、見慣れない車が駐めてある。本来なら十年落ちのカ○ーラフィールダーが駐めてあるはずなのに、北欧メーカーのステーションワゴンが駐まっていた。新車である事はすぐにわかった。後で父親に訊く事にするとして、玄関のドアを開けて家に入る。
「ただいま。」
「おかえり。」
家の奥から咲恵が顔を出すと、玄関へとやって来る。
「これ、お土産。」
空港の免税店で買ったお土産を咲恵に渡した。
「いつも、有難うね。ご飯食べる?」
「空港で食べたからいいよ。それより風呂入りたい。」
「沸いてるから、すぐに入れるわよ。」
「じゃ、荷物を部屋に置いて少し片付け物をしてから入るよ。」
紀夫は父・秀夫が建てた一軒家に秀夫、母・咲恵と同居している。通勤に不便は無い。紀夫には家事スキルが無いので、一人暮らしは無謀である事は自覚していて、実家を出たいなど今まで考えた事は無い。
「一人暮らしなら私が毎日でもご飯を作るのに」と楓に言われた事があるのだが押掛女房と言うのは避けたかったので、実家住まいを続けている一因でもあるのだが。
楓的には紀夫の胃袋を掴んでおきたいという野望があるのだが、なかなか実行できないので歯痒く思っている。
風呂を出た紀夫は乾ききってない髪をタオルでガシガシしながら台所へやってきた。台所に咲恵の姿はなかった。リビングにも居ないので、既に寝てしまったのかも知れない。
冷蔵庫から缶ビールを手に取り、食器棚からグラスを持ち出すと、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。缶ビールのプルたぶを右手の人差し指に引っ掛けて引き上げる。プシュと音がするとビールの香りがふんわりと漂った。
『風呂に入る前にグラスを冷凍庫に入れておけば良かったな。』
と紀夫は反省しながらグラスにビールを注ぐ。「缶ビールはグラスに注いで飲むのが王道だ」と、行き付けのバーのマスターの教えを紀夫は忠実に守っている。
ゴキュゴキュッとグラスに注がれたビールを一気に飲み干す。
プハーーーーッ
と息を吐き出してしまうのは、万人のお約束であろう。紀夫はビールを飲んだ後、溜息を吐かず静かな人に出会った事は無い。
秀夫が台所にやってきて冷蔵庫から缶ビールを取り出し、紀夫の向かいの椅子に座った。プルたぶを開けると、缶に口をつけてビールを喉に流し込んだ。ゴクゴクと二口ほど飲んで、缶から口を離すと紀夫に話しかてくる。
あれ?プハーは?と細かな事を紀夫は気にしない。気にしているのは筆者だけだ。
「突然の話なんだが、父さんな。栄転することになった。いや、した。」
「へぇ〜。それはおめでとう。」
父親の昇進話に興味の無い紀夫は、ありきたりの祝福だけを返した。
空になったグラスにビールを注いでいる。空き缶が一つ生まれた。
「栄転先なのだが、福岡支社の支社長になった。」
「え?親父って課長だったよな。」
「そうだ。今回の人事は異例中の異例だ。発令も五月一日付でな。二週間の転勤休暇をもらったが、この間に福岡へ引っ越しを完了しなければならない。」
「今日は十日だぜ?間に合うのか?」
「ああ。福岡には家電・家具・調理器具に食器が全て揃っている社宅をあてがってもらった。布団とかはネット通販で購入して福岡へ配送してもらうよう手配してある。だから引っ越すと言っても、持っていくのは衣類くらいだ。明日中に荷物をまとめて宅配で送る。明後日には福岡へ移動するよ。」
「そっか。単身赴任、大変だな。」
「いや、母さんも一緒に福岡へ行くぞ?」
「え!それは困る。ってか、この家はどうするんだ?」
「この家は持ち家だからな。定年退職後の終の住処になるから手放しはしない。福岡から戻ってくるまで、紀夫一人でこの家を守ってくれ。」
紀夫にとって青天の霹靂であった。
「ちょ…ちょっと待った。俺はこの家で一人暮らしする事になるのか?」
「そうだな。」
「俺が家事系ポンコツなのは知ってるよな?」
「ああ、知ってるとも。」
「この家がゴミ屋敷になって、俺のミイラが発見される!って事もあり得るんだが。」
「そこはホレ。家事スキルの習得に努力するとか。」
「その辺のコンビニで家事スキルアイテムでも売ってないかな…」
紀夫は己の家事スキルを会得した姿がイメージできない。
「ところで、福岡にはいつまでいるの?二年?三年?」
「それが、分からないんだよ。一年かも知れないし、退職するまで福岡なのかも知れない。」
「もし終身福岡だったとして、親父達が帰って来る前に、俺が結婚してこの家を出ていくという事もありえるよな?」
「その時はお嫁さんと一緒にこの家で暮らせば良いだけではないか…そうだ!」
秀夫は名案が閃き、思わずガッツポーズをした。
紀夫は何故だか嫌な予感がした。
「紀夫の婚約者さんに来てもらって、家事をやってもらうというのはどうだ?」
「はぁ?」
「毎日通ってもらうのも悪いし、なんなら同棲してもいいぞ?」
「訳わかんねぇ。寝言は寝てから言ってくれ!それに、親父が良くても母さんは反対するだろ。」
「結婚前提で同棲するなら、母さんは反対しないと思うぞ。何せ紀夫の家事ポンコツだけが心配なようだからな。」
「前提条件がおかしい。俺は楓にプロポーズしてないから、それは成り立たねぇよ。」
「…ああ楓さんか…(楓さんの話ではないのだがなぁ)」
紀夫はグラスに残ったビールを飲み干した。泡の蓋が消えていて、少し酸化したえぐみが舌に残る。
「まぁ、なんだかんだと言っても二人とも福岡へ行くのは変えられないしな。覚悟して一人暮らしを頑張ってみるよ。」
「なぁ、紀夫。楓さんの事なんだが。」
「楓がどうかした?」
「ハッキリとさせておけよ。(なるはやで別れておけ)」
「そうだなぁ。俺も楓も二十五だもんな。」
「その通りだ。今は晩婚が当たり前になりつつあるが、父さんの若い頃は女性の二十五歳はターニングポイントだったからな。」
「わかった。善処するよ。」
「そうやって逃げるな。」
「別に逃げてねぇよ。」
紀夫は立ち上がるとグラスをシンクに置き、空き缶を水で濯いで分別用のゴミ箱に捨てた。
「俺、寝るわ。おやすみ。」
秀夫は残っている缶ビールを飲んでいたので、バイバイと左手を小さく振った。
紀夫は台所を出ると、洗面所で歯を磨き自分の部屋に入った。
サイドボードに置いていたスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを確認する。
ロサンゼルスに着いた時からずっと楓にメッセージを送っている。既読は付いているが返信は一切無い。
「電話でもしてみるか」と思い時計を見た。深夜零時に近い。いくら恋人とはいえ、流石にこの時間に電話をかけるのはマナー違反だろうと考えて、電話はやめた。
紀夫は出張帰りという事で、今週いっぱいは出勤する必要がない。だが楓は明日も仕事のはず。出勤日は朝早くに起きると紀夫に言っていた事を思い出す。
メッセージアプリで『帰国した。話があるから会いたい』とだけ楓にメッセージを送り、ベッドに潜り込んで眠りについた。
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