1 佐々倉家
ここは佐々倉邸のリビングルーム。
リビングルームとはいえ、一般家庭のリビングルームとは異なる。広さにして四十畳はあろうか。春とは言えまだ四月初旬。夜はまだ冷える日もある。暖炉は薪がくべられ火の粉が舞う。
佐々倉ホールディングスはグループ全体で二十万人を超す社員を抱える大手グループ会社である。佐々倉家は公開株式の四十九%を保有する筆頭株主にして創業家だ。佐々倉ホールディングスの会長は自ずとながら佐々倉家当主が務めている。
ソファに体を預けた佐々倉家当主、佐々倉兼吉が執事の近藤に対して質問をしていた。
「で、久保田紀夫とはどの様な男なのじゃ?」
「久保田紀夫。二十五歳。中堅商社の四葉商事に勤めています。入社三年目。帝國大学経済学部卒。高校時代に豪州へ留学経験あり。英語は堪能で三年目にしながら海外の取引先数社を任されており、昨年度見込み粗利は推定五千万円を一人で稼いでいます。家族構成は父親、母親の三人家族。父親の久保田秀夫は佐々倉ホールディングスのグループ会社である佐々倉電気販売の本社で商品部課長。母親の久保田咲恵、旧姓四枝咲恵は専業主婦。詳細については報告書をご覧下さい。」
真里が空港で紀夫とキスをしてから、僅か数時間。紀夫に関する報告書の厚みは2cmになる。何という調査能力だろうか。
だが、近藤はある点について口頭での説明は控えた。報告書には書かれているので、いずれは明るみでなるだろう。
近藤は真里の事を案じて、今は事実を伏せたのである。
「四葉商事の経常利益は五十数億円ほどじゃったかな。粗利とはいえ1%近い利益を上げるとは大したもんじゃ。思わぬダークホースの登場じゃの。」
兼吉はそう言って少し目を細めた。
「ところで真里。」
「はい、お爺様。」
真里はゆったりとソファに腰掛けていたが、兼吉に呼ばれて体を起こすと背筋をピンと伸ばし直した。
「儂ももうすぐ七十になる。いつまでも第一線にいられる訳では無い。」
「はい。」
「儂の後継ぎとしてお前は婿を取らねばならぬ。」
「わかっています。」
兼吉の息子。真里の父親は真里が八歳の時に、母親と共に不慮の事故で他界している。叔母である父の妹も他家に嫁いでいる。真里もしくは真里の伴侶が佐々倉家を継ぐしかない。
「儂も方々に手を尽くし後継ぎ候補を取捨選択して、今日の見合いの席まで漕ぎ着けた。」
「…」
「じゃが蓋を開けてみれば今日の始末。今風にはドタキャンと言うのであったかの。」
「その件については申し訳ありません。」
「先方には失礼の無いよう、礼を尽くして事を収めておいた。儂の顔に泥を塗ってまで、そんなにこの久保田という男が良いのか?」
「はい。」
「儂の知る限り、お前の交友関係に久保田という男は居らぬ。どこで知り合い、将来を誓う仲になったのじゃ?」
「今、ここで言わねばなりませんか?」
「何か不都合でもあるのかの?」
「表に出てきていない関係という事をお察し下さい。」
「出会い系というモノがネットにあるのは知っておるが。」
「決して疾しい関係で無い事だけは誓います。」
「ふむ。」
「正直に言いますと紀夫さんには、今日初めてお会いしました。彼には今日、私がお見合いする事を伝えていませんでしたので、彼も混乱をきたしている事でしょう。もう一度、彼に会って今日の事を含め、私の置かれている状況を説明して承諾を得てから、お爺様に改めて二人でご挨拶し、馴れ初めを説明したいと思います。」
「それは何時頃になりそうなのじゃ?」
「彼が出張から戻ってからになります。」
「いつ帰ってくる?」
真里は返答に困った。紀夫とは空港で少しだけ言葉を交わした。ロサンゼルスへ出張に行くとは聞いたが、いつ帰って来るかを訊き忘れたからである。
「久保田様は本日より一ヶ月、ロサンゼルスに出張に出られました。お戻りは五月十日の予定になっています。」
真里に代わり近藤が答えた。よく調べてある。
「では五月二十日あたりで予定しておけば良いかの?近藤、その辺りでスケジュールを調整しておいてくれ。」
「畏まりました。」
「真里もそれで良いな。」
「はい。」
「この件はもう良いぞ。」
「では、お爺様。これにて失礼いたします。おやすみなさい。」
「おう、おやすみ。」
真里は立ち上がるとリビングルームを後にした。
「ふぅ…」
「何かお飲みになりますか?」
溜め息とも取れない何かを吐き出した兼吉に、近藤が飲み物を勧めた。
「ああ、ウィスキーを頼む。」
「畏まりました。」
近藤がリビングルームを出ると廊下で真里が待っていた。
「近藤、ありがとう。」
真里はそれだけ言うと自分の部屋へと戻っていった。近藤はスッと頭を下げるだけであった。
「お待たせいたしました。」
近藤が手押しワゴンにウィスキー瓶とアイスペール、グラス類を乗せてリビングルームに戻ってきた。
「どのようにいたしますか?」
「ツーフィンガーにしてくれ。」
近藤は兼吉が愛飲する『響三十年』の栓を抜くとタンブラーに注ぎ、アイスペールからランプオブアイスをトングで掴むとタンブラーに入れた。
「黙っていた事が一つあるな。」
「申し訳ありません。」
近藤は兼吉の前のテーブルにコースターを二枚敷いて、一つにはタンブラーを置いた。もう一つにチェイサーのグラスを添える。
「空港での経緯は影達から聞いておる。」
「お嬢様の事を思いますと…」
「ふん。つまらぬ忖度なぞしおって。」
そう言うと兼吉はタンブラーを手に取り、琥珀をゴクリと喉に流し込んだ。
「久しぶりに四葉の会長へ連絡してみようかの。」