16 トイレの女神様
早朝のオフィスビル街を一台のバイクが駆け抜けていた。単にバイクが走っているだけなのだから、よほどのバイク好きでもない限り気に留める人はいないだろう。
だが、今走り抜けたバイクに違和感を覚える人が若干いる様だ。ドッドッドッとVツインが奏でるエキゾーストノートをビルの谷間に響かせながら、スーツを着たライダーがハーレーに跨って通り過ぎていく。チラリと横目に見たつもりが、立ち止まってガン見するサラリーマンがそこかしこにいた。
アメリカンタイプのバイク乗りのイメージとしては、映画『イージー・ライダー』の登場人物の様なワイルドなイメージを固定観念としている人には違和感があるのだろう。
ヨーロピアンタイプの前傾姿勢で乗るバイクにスーツ姿のライダーという組み合わせがミスマッチに思えるのは筆者の私見である。そんな事はどうでもいい。
紀夫は出向初日にバイク通勤する為に駐車場の利用申請を出し、昨日、許可が降りた。
電車通勤する場合、紀夫の家からだと二回乗り継ぎが必要となる。電車は公共交通機関なので、利便性の高い場所に駅を設け、それらをつなぐ様に線路は紆余曲折している。会社まで真っ直ぐに敷かれてはいない。バイクだと最短距離となる様に道を選んで走ってくる事ができるので、電車通勤より一時間ほど通勤時間を短縮できる。嵐でも来ない限りバイク通勤する事に決めた。
ハーレーは佐々倉ビルディングの裏手にある地下駐車場入り口へと吸い込まれていった。入り口のゲートで一旦停車し、カードリーダーに社員証を翳すとゲートバーが開いた。アクセルを少し開き徐行速度で駐車場へと進入していく。
指定された駐車位置にハーレーを駐めると、ヘルメットを脱いでサイドミラーに自分を映しながら手櫛で髪を整えた。
屋内への入り口の横にあるカードリーダーに社員証をタッチすると、全面ガラス製の自動ドアが開いた。入り口を入ってすぐ左手にあるカウンターには警備員が二人、椅子に座っていた。
「おはようございます。」
「「おはようございます!」」
紀夫が挨拶すると警備員達は敬礼をしながら挨拶を返した。
エレベーターに乗り三十二階で降りる。目の前に職場であるガラス張りの秘書室があるのだが、紀夫は右に向かって歩き出した。既に出勤していた木島洋子が紀夫に気がついて、
「おはよう〜」
と手を振っていたが、紀夫は気がつかなかった。洋子は無視されたと思い、
「あ…朝から無視された…ハァッハァッ…」
と上気して息が荒くなっている。上司である山岸香澄は、右手で自分の両眼を押さえると「はぁ…」と溜息を吐いた。
廊下の突き当たりにある男性用トイレの入り口付近には、『掃除中(ご利用できます)』と書かれた立て看板が置いてあった。
この看板が置いてある時は、このフロアの社員達はトイレを利用しない。緊急を要する時は、わざわざ一階下のトイレに駆け込んでいる。暗黙のルールとなっていた。
そんなルールを知らない紀夫は、気にせずにトイレのドアを開けて中に入る。掃除婦が腰を落として、朝顔の裏を雑巾で拭いていた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
紀夫が挨拶をすると、掃除婦も挨拶を返してくれた。
「洗面台を使ってもいいですか?」
「ええ、どうぞ。」
紀夫は洗面台の水栓を開き、両手で水を掬うと、口に含んだ。
ガラガラガラガラ…ペッ
顔を天に向けてウガイをする。
もう一度。
ガラガラガラガラ…ペッ
「ちゃんとウガイをして、お利口さんですね。」
掃除婦が立ち上がり、腰をトントンと拳で叩きながら言った。子供を褒める様な口調だったので紀夫は苦笑いした。
「習慣なんです。外を出歩いた後は必ずしてます。おかげで、ここ何年か風邪をひいた事がありません。」
「それは良い事です。私も見習わなくちゃ。」
紀夫は掃除婦の顔を見た。掃除婦はニコニコと微笑んでいる。
以前いた四葉商事では、トイレ掃除と言えば高齢のお婆ちゃんがしていた。
今、目の前にいる薄いピンク色の作業服を着た掃除婦は、見た感じでは四十代前半と若い。まとめた髪をアップにしてヘアクリップで留めている。目鼻立ちも整っていて、肌艶も良い。ニコッと微笑む様は美人・美女というより女神。こんな女性が掃除をしている横で、用を足すのは少し気が引けるなぁと紀夫は思った。別に自分のポークビッツを見られたら恥ずかしいとかでは無い。少なくともフランクフルトの自信はある。関係ないか。
しかしこの女性、似ているような、似てないような。いや、彼女の母親は十年前に亡くなったと言っていたのを紀夫は思い出した。
紀夫があまりにも凝視しているので、掃除婦が尋ねてきた。
「私の顔に何か付いてますか?」
「失礼しました。知り合いに貴女と顔がよく似た女性がいまして。ご親戚かなと考えていました。」
「世の中には似た顔の人が三人いると言いますからね。」
「そうなんですよ。なんて言えばいいのか…初めてお会いした気がしません。」
「あらあら、朝から私のようなババアを口説いてくれるの?」
掃除婦はウフフと少し笑みを浮かべる。
「ババアは無いと思います。お若いですよね。」
「貴方って本当にお上手なのね。」
「お世辞でも、なんでもありませんよ。」
「年の離れた若い男性に褒められるって、女冥利につきますねぇ。もっと褒めてくれてもいいですよ?」
「丁寧に掃除されるのですね。」
「えっ?」
「いや、便器の裏とか磨いてらしたでしょ。人の目に付かない所まで掃除されていて、凄いなぁって。」
「トイレは女の鏡ですからね。幼少の頃から母親に厳しく躾けられた賜ですよ。」
少女の様にウフッと笑う仕草が、紀夫に既視感を覚えさせた。
「あ、そろそろ職場に行かないと。綺麗に掃除して頂きありがとうございます。では。」
「こちらこそ、ありがとう。お仕事、頑張って下さいね。」
紀夫はペコリと頭を下げるとトイレを後にした。
掃除婦はしゃがみ込むと、中断していた掃除を再開した。
「二人とも苦労しそうねぇ。あ、あの子は既にしてきてるんだったわね…」
独り言を言ってフンフフ〜ンと自然に鼻唄を口ずさんでいた。
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