ファウルボール
彼女が前を横切ったのは、ちょうど市民球場の駐車場に車を停めて、エンジンを切った時だった。大人っぽくなっていたけれど、フロントガラスの向こうにいるのは、たしかに彼女だ。
僕は慌ててドアを開け、彼女に呼びかける。
「やあ、こんなところで会うとは、奇遇だね」
彼女は青いノースリーブのワンピースを着て、真っ白な鍔広の帽子をかぶっていた。涼しげな顔で、こちらを振り向く。
「どちら様でしたっけ?」
「おいおい、随分と他人行儀じゃないか。俺だよ俺、高校の時、二年三組で一緒だった」
僕はあの頃と同じように、野球帽と草野球チームのユニホームを着ていた。だから、彼女もすぐに分かってくれると思ったのだ。
不審そうに目を細め、彼女は僕を見つめる。
「……、ナンパなら他でやってくださらない? 私、先を急ぎますので」
「ナンパって……。おいおい、ホントに忘れちゃったのかよ、卒業して、まだ十年も経ってないぜ」
そうして彼女はぷいと背を向け、つかつかと去っていった。駐車場の出口で立っていた、背の高い男と合流してから、駅の方に姿を消した。
僕はあっけにとられ、人違いだったかな、と思い直すことにした。人の記憶なんて、案外、いい加減なものかもしれない。
ーー遠い過去の記憶。
あの日も今日みたいに晴れて、暑かった。
野球帽の縁から、汗がとめどなく流れてくる。マウンドに立つ僕は、暑さと疲労でふらふらになりながらも、目の前の打者に意識を集中していた。
ゲームは九回裏、二死満塁、一点差。あと一人討ち取れば初戦を突破できる。甲子園に向けて弾みがつく。相手は六番バッター、強打者ではないが、この日の出塁率は高かった。投げ手のクセを読み、生真面目に内野安打を決めていくタイプだ。油断は禁物だった。
初球はすっぽ抜けのボールだったが、その時、中指に激痛が走った。爪が、割れていたのだ。白球に、赤い血が付いている。僕は相手にバレないよう、すぐにそれを擦り取り、次の球を投げた。
キン、という金属バットの、硬球を打つ音が響く。ファウルボール。球は一塁側の応援席に、ライナーで飛んでいく。
スタンドの応援席がざわめく。しかし僕はそちらを見ずに、試合に集中した。グローブの中で、球の縫い目に中指の先を当てる。最後のスライダーは、しかし、甘い位置に流れていった。
キン、という金属音とともに、球は左中間に抜ける。飛び跳ねる遊撃手のグローブはわずかに届かなかった。
ツーベースヒットで二人が押し出され、ゲームセット。僕たちの夏は終わった。
僕が仲間たちと悔し涙を流していた頃、顔面を血塗れにした彼女は、担架で運ばれていた。
❇︎
地元の草野球チームは気楽なものだった。
大学時代は野球から離れていたが、就職してから、行きつけの天ぷら屋に集まる客らと意気投合し、チームを作った。
風街テンプラーズは、天ぷら屋の主人をはじめ、交番のお巡りさん、看護師、スナックのママ、厚化粧のOLなど個性的なメンバーが揃っていた。しかし、野球経験者は僕だけだったので、負けてばかりのへっぽこチームだった。
僕は打たせて取る、みんなが参加できるスタイルを目指した。なるたけ打ちやすい球を投げる。軟式の球は柔らかく、コン、という鈍い音が心地よく響く。
今日の試合は、まだ五回表なのに、十対一と大差をつけられていた。相手は地元クリーニング工場の従業員らで結成された、武蔵野クリーン・ディスティニーで、投手は甲子園経験者だった。
「中堅手っ!」
「まかせろっ! オーライ、オーライ」
威勢のいい天ぷら屋の主人が捕逸すると、一気に満塁のピンチとなった。
考えてみれば、あの時だってピンチの連続だった。ピンチは野球だけのものではない。
ーーあの時……、ライナー性のファウルボールが彼女の左目に直撃した時、僕は試合のことしか考えていなかった。そんなの当たり前だ、お前の責任じゃない、と周囲は慰めてくれたが、自分自身はどこか釈然としなかった。
彼女の瞼がぱっくりと切れ、多量の出血だったと後から聞かされた。純白のブラウスは赤い血で染まり、意識を失った彼女はその場に倒れこんだ。
何日か休んだだけで、彼女はすぐに登校してきた。いつか謝罪しなければと思ったが、眼帯をした彼女はどこか痛々しく、近づくことすら憚られた。もともと、教室の隅で本ばかり読んでいるようなおとなしい娘だったから、余計に気を遣ってしまった。
それでも、彼女がなぜ応援席にいたのか、不思議に思った。野球に興味があるとも思えなかったし、況してやあんな弱小チームの試合だ。都立高校の女子高生には、もっと華やかな遊びが沢山ある筈だ。
ーーハッと我に帰る。
粗末な応援スタンドから、僕の名を呼ぶ声が聞こえた。そして……。
「ピッチャー、ビビるなっ!」
「……、?」
彼女だった。さっき一緒にいた、背の高い男も隣にいた。二人の間に、小さな女の子が座っている。結婚して、子どもがいるのだろうか。
彼女はカバンから何かを取り出し、立ち上がると、こちらに向けてそれを投げつけた。白いものが、放物線を描きながら青空を飛ぶ。そして僕の足元にボトリと落ちる。拾い上げて確認すると、それは血のついた、硬式の球だった。
僕の血と、彼女の血が、薄赤のシミとなって残っていた。
「ああ、なるほど」
僕の口もとは緩み、自然に微笑んでいた。
この球は、もう一度僕に投げられることを、ずっと望んでいたのだ。そうに違いない。
僕は大きく振りかぶり、直角に曲げた左足を高く上げた。思い切り、キャッチャーミット目掛けて投げつける。
打者のスイングは空振りだった。
場内は静まり返る。
彼女はガッツポーズをして笑っていた。
次の瞬間、蝉の鳴き声が場内に蘇り、誰もが現実の世界に戻っていた。
ーー僕たちの夏は、まだまだ終わらない。
その後も、死にたくなるほどの暑さが続き、気が遠くなるほどの球数を投げた。
ところで試合後、僕が審判と相手チームの監督から、タップリとお灸を据えられたのは、言うまでもない。【了】




