巻の一 第六幕
噂など当てにならない。
エジルは目の前の男を眺めながら、心底そう感じていた。
イワノフはバケモノだ。
その噂は嫌というほど耳にしていた。
だからといって、人間という規格から大きく外れるわけもないだろう。そうも考えていた。
それがどうだ。
バケモノと言われた男は、銃弾の雨の中を散歩でもするかのような足取りで進みつつ、手にした馬鹿でかい斧でエジルの部下を殺し続けている。
「兄貴、もうダメだ! あんなバケモノ、手に負えねぇよ!」
エジルの右腕を努めている隻腕の男が、額から血を流しつつエジルの元へ駆けつけた。
手にしている剣は柄から三分の一程のところで折れ、使い物にならなくなっている。
「動けるのは?」
「ざっと二十。後は死体と怪我人だ。玉が当たりゃあ足止めにもなるが、そいつは絶望的らしい」
「本当に、あんなバケモノが神に愛されてるのか?」
イワノフは神の洗礼を受け、神人となった。
イワノフ調査を任せていたミストからの報告を、エジルは話半分でしか聞いていなかった。それだけ、イワノフと神を繋ぐ糸など想像できなかったのだ。
だが、今のエジルにはあの報告の全てが事実であったのだろうと実感できる。
今、自らが相手にしているのは、神人というバケモノなのだ。
「リンジー、生き残りを連れて退け。アレの相手は俺がする」
「あ、兄貴、何言ってんだよ。兄貴にもしものことがあったら、」
「心配するな。俺はあの小娘ほど馬鹿じゃない。引き際くらいは、わきまえてるさ」
隻腕の男、リンジーの肩を軽く叩くと、エジルは手にはめた黒の手甲を改めた。
エジルは両手の拳を打ち合わせると、部下達を守るようにイワノフの前に進み出る。
「今度の相手は、お前か?」
「ああ。役不足で申し訳ないが、少し付き合ってもらおうか」
全身から力を抜くと、エジルの体がゆらりと傾ぐ。
対するイワノフは不敵な笑みを浮かべたまま、目にも留まらぬ速さで大斧を振り下ろした。
振り下ろされる大斧の風圧に押されるかのようにエジルの体は自然と大斧を避け、そのまま勢いに乗せてイワノフへと迫る。
イワノフも大斧を引き戻すものの、長めの柄が邪魔をしてエジルを捕らえきれない。
エジルはイワノフを射程におさめると、気合一閃、その鳩尾へ拳を叩き込んだ。
確かな手応え、しかし、エジルは瞬時にイワノフと距離を取る。
エジルの頭があった場所を大斧が通過していき、その額を切り裂く。
「おぉ、よく避けたな、兄ちゃん」
「お褒めいただき光栄だよ、バケモノ」
エジルは額から流れる血を拭い去ると、再びイワノフと対峙する。
両手を交差し腰を落とすと、勢いをつけて一息にイワノフへと迫る。
「何だ、また同じじゃねぇか、つまんねぇ奴だな」
あざ笑うイワノフをよそに、エジルの体は加速を続け、イワノフの胸部へと両手を叩き付けた。
「あっ?」
イワノフは間抜けな一言を残し、大きく後方へと転がっていく。
その様子を眺めつつ、エジルは多少痺れの残る両手を解していた。
「ふぅ、こいつが効かないとなると、流石に手も足も出ないところだったが、」
「ゲハハ、こいつは驚いた!」
吹き飛ばされたイワノフは愉快そうに立ち上がると、満面の笑みをエジルに向ける。
エジルは全身から力を抜くと、臨戦態勢をとった。
「俺をぶっ飛ばす奴なんてな、久方ぶりの登場だ。楽しい、楽しいじゃねぇか! てめぇは予定外だが、神の神罰をくれてやるよ!」
イワノフは全身で歓喜を表していた。
その狂気の様に、エジルは微かな恐怖を覚える。
ギリッ、とエジルが奥歯を噛みしめる音が響く。
「どうした、もう一度だ。もう一度、俺に当ててみせろ!」
イワノフは叫びつつ、両手を天に突き上げた。
その手には何も握られておらず、それに気付いた瞬間、エジルは素早く振り向き、腹部を守るように両の拳を交差させる。
その瞬間を狙ったかのように、イワノフの手を離れた大斧がエジルに襲いかかった。
間一髪で一撃をやり過ごすも、勢いを殺しきれず、大きく体勢を崩すエジル。
イワノフは戻ってきた大斧を握ると、軽々と肩に担ぎ上げた。
「いい動きだ。あれで死んだんじゃ、面白くねぇ。しかし、よくわかったな?」
「俺の前のお嬢ちゃん、あれを見ていたからな」
エジルがゆっくりと体制を立て直す。大斧を受け流した両腕は痺れ、感覚を失っていた。
「そうか、あれを見ていたのか。そいつは失敗したな。だが、その腕で俺の相手になるのか?」
「ああ、足止めくらいにはなっているだろう?」
エジルは不敵に笑い、全身の力を抜いていく。
「いいね、いいね。その諦めのない目。嫌いじゃねぇよ。殺すのにちょうどいい」
イワノフは大斧を両手に構えると、腰を据え、不動の構えを見せる。
相手の隙を窺いつつ、エジルは少しずつ呼吸を整えていた。
両者は静かな睨み合いを続け、風の音だけが場を乱す。
静の対立は、いつまでも続くかと思われた。
殺気にあてられた野良猫が、二人に向かって敵意を剥き出しに唸り声を上げる。
そして、二人の間を素早く駆け抜けた。
それを合図にするかのように、エジルの体がユラリと傾ぎ、円を描くようにイワノフへと疾走。
エジルは姿勢を低くし、拳を構え左側面からイワノフを強襲する。
イワノフはギリギリまでエジルを引き込むと、大斧を翻し、長い柄で足元を薙いだ。
突然の足払いに対応しきれず、エジルの体が宙を舞う。
その無防備な脳天に向け、イワノフが渾身の一撃を振り下ろした。
エジルの頭が砕けるかと思われた瞬間、その体が大斧の長い柄に吸い込まれるように巻き込まれる。
イワノフが驚きに動きを鈍らせると、エジルの踵が頬に叩き込まれ、数歩後退った。
体制を崩したイワノフへ、エジルは続け様に蹴りを叩き込んでいく。
お返しとばかりにイワノフの脳天へ踵を打ち込み、エジルは優雅に後方へ飛んだ。
頭への強烈な一撃に、イワノフは尻餅をつきながら首を振っている。
エジルはイワノフと距離を取りつつ、次の一手への機会を窺った。
「おぉう、世界が回ってやがる。眼の前がチカチカしてるぜ!」
イワノフは変わらず愉快そうにしている。
よろけながらも大斧を杖代わりに立ち上があると、大きく息を吐いた。
「いいねぇ、いいねぇ。楽しいぜ、兄ちゃん。だが、そろそろお遊びも終いにしようか。なぁ?」
大きく深呼吸すると、イワノフの雰囲気がガラリと変わる。
ニヤけた表情が消え、残忍な狩人のそれになった。
「さあ、これで終いだ」
大斧を地に突き立てると、イワノフは丸腰で仁王立ちになる。
その姿は隙だらけであり、逆にエジルの警戒を呼んだ。
再び、二人が静かに睨み合う。
エジルは心の底から湧き出る感情を押し留めつつ、流れる汗を拭った。
知らず、呼吸が荒くなっていく。
イワノフは動く様子を見せようともせず、隙を隠そうともしない。
そうして、先に痺れを切らしたのエジルだった。
何かを断ち切るように駆け出すと、全力の拳をイワノフへ叩き込む。
しかし、その拳はいとも容易く受け止められ、エジルはイワノフの前に無防備な姿を晒した。
次の行動へ移ろうとするエジルの視界の隅を、鋭い光が横切る。
蹴りを見舞うために行動するも、右足が上がることはなく、自らの意志とは無関係に地に倒れていく。
そのままエジルはバランスを崩し、ゆっくりと倒れていった。
エジル自身、何が起こったのかわからないまま、気が付くと地に伏している。
状況を確認するために視線を巡らすと、右足が綺麗に切断されていた。
溢れ出す血液が、エジルに強烈な痛みをもたらす。
声にならない叫びを上げ、エジルはその場で悶絶していた。
「だらしねぇなぁ、おい。腹に穴が空いても、あの嬢ちゃんは騒がなかったってのに。大の男が、足一本で喚くなよ」
言いつつ、イワノフは下品に笑う。だが、その目は笑っていない。
エジルはイワノフに見下されながら、ジリジリとその場を這いずっていく。
その背へ、イワノフの巨大な足がのしかかった。
「まあ、そう急くなよ、兄ちゃん。まだ残ってるじゃねぇか」
イワノフは足に体重をのせ、ギリギリとエジルを押し潰す。
エジルが苦しみから咳き込むと同時に、辺り一面を煙が覆い尽くした。
それと同時に、複数の気配が生まれ、イワノフを取り囲む。
「兄さん、我慢してくだせい」
聞き覚えのある声が響くと、エジルの体が乱暴に引きづられていく。
イワノフの足から力が抜けていたおかげで、引きずられながらもエジルはその場から脱することができた。
煙に視界が奪われる中、方々から銃撃の音が響きだす。
その中心では、イワノフの下品な笑い声が一際目立って聞こえてくる。
「邪魔くせぇんだよ!」
大喝と共に空気が震えると、辺りを覆っていた煙が一瞬で吹き飛ばされた。
そこには大斧を振り回したと思しきイワノフと、頭を失った者と、衝撃に倒された者とが姿を現す。
「下手な策を弄しやがって」
イワノフが憎々しげに唾を吐きつけると同時に、銃声が一つ響いた。
頭を失った死体が倒れる拍子に偶然発射された一発は、真っ直ぐに空を切ると、イワノフの右目へと吸い込まれるように消えていった。
刹那、耳をつんざくような轟音が辺りを襲う。
何事かと周囲を窺えば、イワノフが右目を押さえて天を仰ぎ、咆哮していた。
「痛みだ! 痛みを感じるぞ! この俺が、鉛玉を、この身に受けたというのか!」
イワノフは右目から血を滴らせ、全身を震わせている。
周りの様子など見えていないように、ただただ、天を仰いでいた。
「誰だ、誰の手によるものだ!」
イワノフは右を左を確認し、頭を失いながらも単筒を握り締めている死体に行き着く。
そして、その死体の側まで近づくと、ゆっくりと全体を観察し始めた。
「なるほど。頭を吹き飛ばされた後に、俺を撃ったのか。お前は、敵意も何もなく、俺を撃ったんだな!」
右目を失いながらも、イワノフは歓喜していた。
己を襲う痛みに、この上ない喜びを感じていた。
「良いだろう。今日は幸多き日だ。お前達を赦そう。お前達は、神の赦しを得たのだ!」
そう言い放つと、イワノフは大斧を担ぎ、エジル達に背を向ける。
そのまま振り返ることもなく、死体を踏みつけ踏みつけ、その場から姿を消した。
「あれは、何だ?」
痛みも忘れ、ことの成り行きを見守っていたエジルは、思わずそう呟いていた。
完全に、理解の範疇を超えている。
あれは、間違いなくバケモノだ。
あれと対峙して足一本で済んだ奇跡を、エジルは神に感謝せずにはいられなかった。