巻の一 第五幕
最近は暇でしょうがない。目立たないようにするために仕事もできないし、家は消し炭になったから畑の世話もできない。
ティトルの店に身を寄せてるけど、迷惑を掛けないように屋根裏から出るのもはばかられる。
日が沈んでから出掛けることもあるけど、メリニスの連中がウロウロしてるから下手に買い物なんかもできないし、毎日暇を持て余すばかり。
ティトルから本でも読んだらどうかと言われたけど、あたしはあまり字を読むのが得意じゃない。
だからこそ読め、って言われたんだけど、面倒だから止めた。
あまりにも暇なんで、最近は天井裏に潜んでの人間観察が日課になりつつある。
こんなに長期間ティトルの店にいたことなんてなかったから、どんな人間がここに来るのか、そこまでは知らなかった。そんなこともあって、この日々の日課が思いの外面白い。
基本的にはこの辺りの貧民街に住んでる住人が来るんだけど、それに紛れて仕事の依頼人が流れ着く。
そっちは周辺の国から来る一般人やお偉方だったりするから、いろいろと興味深いことが多い。
ただ、金持ちとか役人とかそういう人種は総じて偉そうだったりするから、ティトルと揉めたりすることも多いみたいで、見かねてあたしが割って入ったりすることもあった。
そんな時は店が汚れたりして怒られることもあったけど、まあ、それはそれ。
あとは、思ったよりもティトルを頼りに来る人が多いのにも驚いた。
仕事の依頼とかじゃなく日常的に困ったことがあったりしても、ティトルのところに相談しに来る人間が少なからずいるみたいで、毎日何かしらの相談事を受けていた。
仕事は断ることもあるけど、それ以外のことはほとんど聞き入れてたのはびっくりだったけど、そこはティトルらしいか。
店から働き手を出したり、不足してる物を格安で譲ったり、辺りの掃除をしたり、そんな細々としたことを嫌な顔せず引き受けてて、何ていうか、この辺りの顔役みたいになってた。
そんな人望があるから、仕事の請負人なんてのが続けてられるのかな。
まあ、そんなこんなで、あたしは暇な日々を何とか消化し続けている。
ただ、そろそろ我慢の限界が近いから、ティトルには悪いけどメリニスの連中と一騒動起こすことになりそうだ。
そうなったら、できるだけティトルには迷惑を掛けないようにしないと。
幸い、手元の資金はそれなりに残ってるから、知り合いのツテでどこかに新しい住処を用意しよう。
土地建物に関してはイアンに相談すれば何とかなるはずだから近いうちに挨拶に行くとして、あと必要なのは当面の生活用品かな。
まあ、そのへんは住むところが決まってからでいいか。
ここの料理が毎日食べられなくなるのは残念だけど、贅沢も言ってられないし。
そんなことを考えながらうすぼんやりと店内の様子を窺っていたら、次第に食欲をそそる匂いが漂ってきた。
いつの間にか昼時になっていたらしく、眼下では数組の客が食事を始めている。
後から後から続いてくる美味しそうな匂いがあたしの食欲を刺激し、お腹がグゥグゥとなっていた。
一度腹拵えをしてこようと屋根裏から出かかったところで、気になる話が耳に入ってくる。
「聞いたかね、あの噂」
「噂?」
小太りの商人風の男と痩せぎすのローブを羽織った男が、牛肉の香草炒めをつまみにしながらワイン片手に語らっていた。
「ああ、あの巨漢のバケモノが、仕事そっちのけで人探しをしてるらしいんだよ」
「何だよ、その巨漢のバケモノ、って?」
「皆殺しだよ、皆殺しのイワノフ。お前さんの因縁の相手だよ」
まさかここで、イワノフの名前を聞くとは思わなかった。
あたしも噂でしか聞いたことがない奴だけど、あたしらの間じゃ、決して敵に回しちゃならない相手の一人だ。
話に出た二つ名の通り、イワノフが現れた場所には死体しか残らないらしい。
目的の相手を殺し、その家族や使用人なんかも皆殺しにする。女子供の別はなく、その場にいたが最後、決して生き残ることはできないらしい。
「よせやい、その話は。だが、あの殺しにしか興味がないような男が、人探しをしてる、ってのか?」
「ああ、そうらしい。あの男がだ、人を殺さず、人を探してるんだ。殺す相手がどこにいるかわかってる仕事しか受けないバケモノが、自ら進んで殺す相手を探してるんだとよ」
「冗談だろ、そんな話。あいつは、そういう面倒事は絶対にやらない男だったぞ」
痩せぎすの男が乱暴に料理へフォークを突き立てると、これまた乱暴に口の中へと放り込んだ。
それを愉快そうに眺めながら、小太りの男がワインのカップをあおる。
「その面倒を、自分から喜んで引き受けたんだと。だから噂にまでなってるんだろう。まあ、あのバケモノの逸話はいくらでもあるがね。それでも、こんなことは今までになかった。俺も最初に聞いた時は、自分の耳を疑ったがね」
「で、どんな奴を探してる、ってんだよ?」
「どうにも、女らしい」
「どんな女だよ?」
「それがなぁ、よくわからんのよ。でっけぇとか、ちいせぇとか、腕がなげぇとか、角があるとか、そんなんでよ。聞いた話を全部合わせたら、バケモノになっちまう、っての」
「バケモノ女なぁ。あれか、あの、何とかって変異種の連中じゃねぇのか?」
「あぁ、それだ! それだよ。その何とかってのだよ。その何とかって変異種の女を探してるんだってよ」
下のデブと痩せが言ってるのは、アグリタ種のことだろう。
「アグリタ種の女、か」
何となくだけど、それはあたしのことじゃないかと思う。メリニスの連中がイワノフが雇った、それが正解なんだろう。
「だとすると、あたしは死んだのか?」
あのバケモノに狙われて、生き残った人間はいないらしい。
あたしもその例に漏れることがないとすると、イワノフに見付かったらあたしは死ぬことになる。
「ヤダなぁ、そういうの」
あたしは天井裏から這い出すと、屋根裏の部屋に戻ってベットに飛び込んだ。
イワノフのことは噂でしか知らないから、バケモノじみてる、ってことしかわかってない。
逸話は数あれど、狙われ生き残った人間やイワノフと共に戦った人間がいないため、その力の詳細が漏れ聞こえることがない。
相手の手の内がわからないうちはできれば手を合わせたくないし、そうなったら全力で逃げたほうが良さそうだ。
「あたしも、ついに年貢の納め時かぁ。短い生涯だった」
まあ、いつかはこんな日が来るとは思ってたけど、でも、なんだか良くわからない相手に殺される、ってのは納得いかないよなぁ。
せめて、イワノフの化けの皮を剥いでから殺されたい。ただ蹂躙されるんじゃなく、一矢報いて死ぬんじゃないと、あたしとしては納得できない。
あのバケモノの逸話の中に、あたしという存在を残すくらいのことはやってやりたい。
とは言え、何をどうすれが良いのかは全くわからないんだけど。
「ん?」
さてダラダラしようかと思ったところで、階下から騒がしい声が響いてきた。
「ここにいるのはわかってんだ!」
「おうよ、怪我しねぇうちに出しやがれ!」
いかにもゴロツキ風の叫び声。誰かを出せと叫び続けている。
その誰か、ってのは、まあ、あたしのことなんだけど。
仕方なしに下へ降りていこうとしたところへ、ティトルの威勢の良い声がとどいて来る。
「うるさい兄さん達だねぇ。うちのもんが何度も言ってるが、そんな娘はいないよ。他を当たるんだね」
「しらばっくれるなよ、姉さん。何度も言うが、ここにいるのは調べが付いてるんだ。隠し立てできると思うなよ」
「こっちもね、何度だって言ってやるよ。いないものは、いないんだよ。おととい来やがれ!」
そっと様子を見てみると、メリニスの手の者らしい男達とティトルが睨み合いを続けていた。
今の状況であたしが出て行ったなら、きっと店はメチャクチャになることだろう。なので、裏から外に出て、あの連中を外に連れ出すのが最良の策かな。
「グダグダ言いやがって! 構わねぇ、娘を探せ!」
リーダーらしき男が号を出すと、後ろに控えていた連中が中へなだれ込もうと押し掛けてくる。
「待ちな!」
ティトルの一喝がそんな男達の動きを止める。普段からは想像できない激しい声に、私でさえ思わず動きが止まってしまった。
「あんたら、例えメリニスの者だとしても、私の許可なくこの店に入る、ってんなら、相応の覚悟があるんだろうね!」
ティトルの鋭い啖呵が、ジリジリと男達を下がらせる。
ティトルは大勢のゴロツキを前に、一歩も引かずに店の出入り口で仁王立ちしていた。
「さあ、どうするんだい!」
「くそっ! 構わねぇ、やっちまえ!」
男達の中で誰かが叫んだ。その叫びと同時に、男達の中から一人が飛び出してくる。
そいつは勢い殺すことなく、ティトルへと突進していた。
あたしの体が動き出そうとしたその瞬間、文字通り大地を揺るがす振動が一帯を襲う。
その場に居合わせた全員が体制を崩し、床に地面に膝をついていた。そのおかげで、ティトルはなんとか無事だったようだけど。
「おいおい、俺抜きで、おもしれぇことしてるじゃねぇか」
ドシンドシンと重い足音を立てながら、突如として巨体の男が現れた。
全く気配を感じさせずに登場した巨体の男の姿に、その場の全員が動きを止める。
「何だよ、そんなに驚くんじゃねぇよ」
ゲハゲハと下品に笑いながら、巨体の男は手にした大斧を振り下ろした。振り下ろされた大斧は男達の只中に飛び込み、その切っ先で肉を切り裂いていく。
それを見た瞬間、あたしの体は動いていた。
階段を駆け下り、ティトルの脇へ。
「ティトル、全員連れて逃げて! あたしが時間を稼ぐ。あれは、バケモノだ!」
「待ちな、アムリタ! イワノフだ! 狙いはあんただよ!」
「だから、あたしが時間を稼ぐんだよ!」
あたしは腰を抜かす男達を蹴散らし、巨体の男、イワノフの前に躍り出た。
「あんたがイワノフか?」
「おうよ。やっと会えたな、お嬢ちゃん」
言うやいなや、大斧を驚くべき速さで叩き付けてくる。
咄嗟に右へ飛び退くと、あたしのいた場所が粉々に砕かれていく。その近くにいた男達も粉々になっていた。
あんな一撃を食らったら、一瞬でお陀仏だろうな。
あの大斧は危険すぎる。あの速さと正確さに真正面から当たるのは自殺行為だろう。
まずは、あの大斧の有効範囲から逃げるのが第一。
そう考え後ろに飛び退こうと体重を移動したのを見計らったように、大斧が襲いかかる。
このまま後ろに飛んだのでは、ミンチにされて終わりだ。
あたしは右腕を目一杯伸ばすと、その先の石柱を掴み体を力任せに引き寄せる。
大斧の直撃は避けたものの、発生した衝撃で足が傷だらけになった。そのうえ、衝撃の勢いに押されてしばらく地面を転がる羽目に。
急ぎ立ち上がって体制を立て直すと、薄ら笑いを浮かべたイワノフが悠然とあたしを見ていた。
「なかなかすばしっこいな、嬢ちゃん。俺の斧をこれだけ避けるやつは、なかなかいねぇよ」
そう言って、愉快そうに笑う。笑い声が下品で、聞いているだけで気分が悪い。
辺りを見渡すと、あたし達に巻き込まれた人間の死体が、そこここに転がっていた。
ティトルの店からはそれなりに距離を離せたから、みんなは逃げたと信じたい。
「何だよ、俺と遊びながら、他人の心配か? 良いね、余裕はあるみたいじゃねぇか」
イワノフが無造作に大斧を振り下ろす。その軌跡は衝撃波となり、ティトルの店を簡単に瓦礫に変えた。
「おうおう、脆い店だな、おい」
考える前に、体が動いた。
あたしの体は弾丸のように加速すると、イワノフに肉薄する。
大斧の切っ先は地面に突き立ったままだ。こいつに、あたしの一撃を逃れるすべはない。
あたしは素早く構えた短刀で、イワノフの心臓を正面と左脇から挟み撃ちにする。
あと僅かで肉を裂くと思った瞬間、イワノフの姿が目の前から消えた。
あたしの短刀は空を切り、勢い余って自らの両腕に傷を作った。
「良いね良いね、嬢ちゃん。楽しいぜ、久しぶりに楽しませてくれそうだ」
声は背後から聞こえてきた。
振り返ると、距離をおいたところにイワノフが立っている。
大斧はあたしの脇に取り残され、武器を失っていながらも余裕の表情は崩れていなかった。
あたしは改めて、両手の短刀を構え直す。
「正直、ただの小娘がこんなにも楽しませてくれるとは思いもしなかったぜ。いや、ただの小娘じゃねぇか。お前、無縁者だな、そうだろ?」
イワノフが喜々としてあたしに問うてくる。
無縁者。それは、神に見放された者を指す言葉。神の奇跡の恩恵を、一切受けることのできない、呪われた者のことだ。
「俺にはわかる。おまえはそうだ。だから、俺が断罪してやろう。死して、神に赦しを乞うのだ!」
その巨体からは想像もできない俊敏な動きで、イワノフは一瞬のうちにあたしに肉薄していた。
そして、あたしの二倍以上高い位置から、その丸太のような太さの腕が襲いかかってくる。
あたしは咄嗟に左に飛び退き、イワノフの一撃を何とかやり過ごした。
はずだった。
腹部に強烈な衝撃と息苦しさを感じると、あたしの体は勢い良く吹き飛ばされ、壁に叩き付けられた。
遠のく意識を無理やり抑えつけ、足に力を入れる。さっきの一撃で内臓をやられたのか、踏ん張った拍子に盛大に吐血した。
顔を上げると、距離をおいた先でイワノフが薄ら笑いを浮かべている。
「反応は良いが、まだ遅いな。それじゃ、俺からは逃げられないぜ」
眼の前にいるのは、噂以上のバケモノだ。距離を置こうが接近しようが、今の装備と状態じゃ、ただの一発もくれてやることはできないだろう。
だからといって、すでにボロボロの今、あいつから逃げるのも不可能に近い。
こっちはあいつの一発をもらっただけで、立ってるのがやっとの状態なんだから。
「どうした、何を迷ってる? 逃げれば良いだろう、逃げ切れるつもりならな」
イワノフの下品な笑い声が響き渡る。
ぶん殴ってすぐにでも止めさせたいが、ムカつくことに今のあたしでは役不足だ。
イワノフがゆっくりと右足を踏み出す。
この程度の距離、その気になれば一瞬で詰め寄られる。そうなれば、あたしはそのまま殺されるだろう。
唐突に、火薬の爆ぜる音が耳を襲った。それと同時に、イワノフの右頬を何かが掠める。
「あん?」
イワノフが巨体を撚ると、そこには単筒を構えた男が数名立ち並んでいた。
「死ねや、バケモノ!」
その叫びを合図としたように、男達が手にした単筒が火を噴き、一斉に鉛玉を吐き出す。
だが、そのことごとくがイワノフの体を掠るのみで、誰一人として当てることができない。
イワノフは男達に向き合うと、悠然とそちらへ歩みを進めていく。
その間も男達による射撃が続けられていたが、距離が近付こうともイワノフには当たらない。
あと僅かまでイワノフが近付いた時、単筒を構えた男達の顔は恐怖に引き攣っていた。
「そんな玩具で、俺がやれると思ったのか? くだらねぇ」
イワノフが右腕を振り下ろすと、近くにいた男の頭が弾け飛んだ。
「俺の邪魔をするんじゃねぇよ、下衆共が」
イワノフが拳を振り下ろす度、男達の頭が弾け、赤い花を咲かせていく。
返り血を浴び続けていながらも、イワノフは愉快そうに男の頭を叩き潰していた。
とても正気の沙汰とは思えない。あいつがバケモノと言われているのは、その身体能力によるものではなく、あの残忍さにこそあるんだろう。命を何とも思わない、あの異常さに。
「うちの人間に何してやがる、バケモンが!」
狭い通りを埋め尽くす程の部下を従え、一人の男が仁王立ちしていた。その全身は怒りに震え、蒸気でも吹き出しそうに見える。
対するイワノフは、生き残っていた者を無造作に掴み上げると、自分と男の間に叩き付け、血溜まりを作り出した。
「これで全部だ。まあ、増えちまったがな。で、てめぇらは何者だ?」
「メリニス一家、エジルだ。貴様の現雇い主だ!」
エジルと名乗った男は、憤怒の形相でイワノフを睨み付けている。
それにしても、イワノフに殺させようとしている相手もいるってのに、自分が依頼主だ、って宣言するのはどうなんだろう。
まあ、見当はついてたけど。
「だったらどうした? 俺は、好きにやらせてもらうと言ったはずだ。邪魔するんじゃねぇよ」
「貴様がグズグズしていたからな、待ってられなくなったんだよ」
「ふざけるなよ、下衆が。これは俺の仕事だ。誰にも邪魔はさせねぇ」
言いつつ、イワノフの右腕が奇妙な動きをしてみせた。
瞬間、あたしの全身が総毛立つ。
考えるよりも先に体が動き、後ろに飛び退いていた。
そして、右脇腹を何かが掠め、肉が爆ぜる。
受け身も取れずに地面を転がり、勢いのまま狭い路地に入り込んで行った。
痛みに耐えながら首を巡らすと、あたしがいた場所にイワノフのあの大斧が突き立っている。
何をどうしたものか、イワノフは手を触れずに大斧を操ったらしい。
思わず感心しそうになるのを、脇腹の痛みが現実に引き戻す。
痛みの元に目をやると、右脇腹が軽くえぐれていた。
肉が綺麗に失われ、中身が見えている。
正直、気を失わなかったのは奇跡としか言いようがない。
とはいえ、このままだと確実に、あたしは死ぬことになるだろう。
手当をするにも、治療道具なんてものは持っていないから、まずはここから移動する必要があるんだけど、それも難しい。
「ここまで、ってことかな」
血が勢いよく失われているからか、段々と意識がおぼろげになってきた。
立ち上がろうにも、思うように力が入らない。
自分の作った血溜まりに浸って、何だかひんやりとしてきた気もする。
視界に霞がかかってきて、景色もまともに見えなくなってきた。
ティトル達は上手く逃げれただろうか。
最後の最後に、そんなことが浮かんできた。
きっと、幻聴のせいだろう。
どこか遠くから、ティトルの声が聞こえる気がするから。