巻の一 第三幕
「まずは、何から話せば良いものか」
老爺は顔中を撫で回しながら、ゆっくりと口を開いた。
小さな村の寂れた酒場、その一角にボロをまとったような老爺と身奇麗な男が席を同じくしている。
老爺は天を仰ぐように上を向き、小首を傾げてからゆっくりとした動作で瞼を閉じた。
その様子を、男はただ静かに見守っている。
「はい、おまたせ」
酒場の女給が男の頼んだワインを運んできつつ、そんな二人の様子を不思議そうに眺めている。
話題に乏しいこの小さな村において、今目の前にいる二人組は格好の餌だった。
何か面白いことになりそうだ、女給はそんなことを考えながら二人の元を離れると、カウンター脇に立って二人の様子を窺う。
「喉が渇いているでしょう? 一杯どうです?」
「良いんですかな、儂なんかが、こんな場所にいて」
「構いませんよ。それよりも、どうぞ」
男は優雅にグラスへワインを注ぐと、そのグラスを老爺の前にこれまた優雅な動作で差し出した。
老爺はしばらく逡巡した後、グラスに手を伸ばすと中のワインをなめた。そうして、久方ぶりのワインの味をチビチビと味わう。
「どうです、少しは思い出してきましたか?」
老爺は男の言葉にハッとしたように動きを止めると、グラスの中を凝視した。
そして、意を決したようにグラスの中身を一気に飲み干す。
「これはこれは、良い飲みっぷりで」
「……イワノフが、帝国出身なのは知っておるな?」
老爺の言葉に、男の口元が僅かに緩んだ。だが、それはすぐに隠され、柔らかな笑顔に戻る。
「ええ、知っています」
「彼奴が、なぜ帝国を追われたかは?」
「いえ。帝国を出て、テヘナンに来た。知っているのはそれだけです」
老爺の手を離れたグラスへ、男はワインを注いでいく。
「彼奴は、帝国を追われ、テヘナンに逃げ延びたのだ。彼奴は罪を犯した。その罪から逃れるため、追手を振り切ってテヘナンへ逃げ込み、身を隠した」
「しかし、今は堂々としていると思いますが?」
「テヘナンへは、いくら帝国といえども手が出し難い。それに、彼奴は当時からバケモノじみていたが、最近では完全にバケモノそのものだ。皆殺しのイワノフ、その通り名そのものの、災害のような奴だ」
そこまで一気に語ると、老爺はグラスのワインを半分ほど喉へと流し込む。その手は、わずかに震えていた。
「イワノフの不幸の始まりは、帝国将校時代に遡る。彼奴は平凡な家柄の生まれであったが類稀なる頑丈な体を武器に、戦場で功績を上げ、出世していった。噂では、彼奴は戦場で一睡もせずに数日戦い続けたこともあるらしい。まさに、不眠不休で戦い続けたのだという。その戦ぶりは戦神が如く。そうして、彼奴は軍上層部に目を掛けられるようになり、一兵卒から出世を続け、将校にまで上り詰める。あの時分では考えられん程の速さでの出世だ、やっかみも多かった。だが、彼奴の武勇を知るものは下手に手を出すこともできず、手を出したところで返り討ちに遭うだけであったらしい。それがさらに、嫉みを生んだ。彼奴は大きな歪みをまとわせながら邁進し続け、ついにはとある将軍の娘と夫婦になるまでに至る」
そこで大きく息を吐きだすと、老爺はグラスの残りで喉の渇きを癒やした。
「だが、彼奴の運もそこまでであった。妻との間に子供を授かり、さらなる功績を。となるはずであったが、彼奴は自分の部下に裏切られ、味方からの集中砲火に襲われ、戦場で消息を絶った。彼奴は敵国の間者に仕立て上げられ、家族は軍に拘束された。そして拘束から数日後、見せしめに公開処刑されておる。その処刑現場に、イワノフは物乞いの格好で紛れておったらしい。彼奴は、妻と子が殺されるその場を、その目でしかと見ていたそうだ。そしてその夜、公開処刑があった夜、帝国始まって以来の大惨劇が巻き起こる」
老爺は充血した目を男へと向ける。そこには、おぼろげな狂気が宿っていた。
男は満足そうに頷くと、老爺のグラスへワインを注ぐ。
老爺は注がれたワインを、一息に飲み干した。
「イワノフの妻と子の遺体が運び込まれた先は、彼奴を罠にはめた元部下の邸宅だった。その元部下は、最後まで妻子を助けようとしていたらしい。その甲斐あってか、その頃にはイワノフがいた地位に上手く収まっておったそうだが。そこでは、元部下とその仲間達が祝宴を開いておった。すべてが万事、上手く片付いた祝賀会をしていたのだろう。イワノフは妻と子の遺体を追ううち、ついには事の真相に辿り着き、あらゆる感情の奔流に飲み込まれた。そしてその時、啓示を受けたのだろう。イワノフは神に選ばれ、神人となった。身の丈ほどの大斧与えられ、罪人を滅ぼすバケモノへと生まれ変わったのだ。グラスゴー邸大虐殺、噂ぐらいは知ってろう?」
「ええ、帝国史に残る、惨劇だと。犯人は未だに捕まっていない」
「捕らえられる訳がない。今のイワノフは、神に愛されているのだ。彼奴には罪はなく、罪人は彼奴に殺された者達の方だ。それが、イワノフに与えられた祝福なのだよ」
言い終え、老爺は長い溜息を吐いた。溜まりに溜まった何かを吐き出すように、細く、永く。
男は手元のクラスを弄びながら、老爺をジッと見詰めている。
「わかっておる。お前さんが聞きたいのは、彼奴の昔話ではなかろう。どうすれば彼奴を動かせるか? そうじゃろう?」
男はグラスをテーブルに静かに戻すと、老爺の空いているグラスをワインで満たした。
「イワノフは仕事を選ぶ。私達の間では有名な話です。では、どのような基準で選んでいるのか? そこが問題なのです。今回、私達はどうしてもイワノフに働いてもらわなくてはならない。だからこそ、わざわざこんな辺境にまで足を運んだのです。貴方に会うためにね、ミゲルガ少佐」
薄汚れた老爺、ドニス・ミゲルガは手元のグラスに視線を落とす。そこに浮かぶ、自らの老いた姿を凝視していた。
「イワノフの妻、エリニスの父親であり、彼の元上官。かの惨劇の真相を知る数少ない人物であり、自らの家族を地獄に落とした罪人でもある。本来なら、貴方もあの惨劇で死ぬはずだった」
ミゲルガは変わることなく、グラスを見詰め続けている。その表情は苦渋で満ち、噛み締めた唇から血が滲む。
「だが、そうはならなかった。なぜかはわかりませんが、貴方は助かった。そして、貴方も軍から姿を消した」
パキッ、と乾いた音が響いたかと思うと、ミゲルガの手の中でグラスが割れていた。ワインがこぼれ、切れた手から血が流れる。
「儂は、あの日、イワノフに会った。処刑の場で彼奴を見付け、娘と孫が死んだ後、話をしたのだ。彼奴は二人の遺体がどこに運ばれるか、それを執拗に尋ねてきた。儂は自責に念もあり、彼奴に移送先を話した。家族の再会を、邪魔することなどできなかった。そして、儂は会への参加を断った。彼奴の姿を見て、耐えられなくなったのだ。二人と会った後、イワノフは儂の元を訪ねるだろう。そう思い、儂は全てを語る覚悟を決めた。それは、死の覚悟でもあった。だがその前に、あの惨劇が起きた。グラスゴー邸にいた五十人近くの人間が、一人の男に殺されたのだ。それも、大半は帝国軍の軍人が、だ。そして、その惨劇直後、彼奴は儂の前に現れた。彼奴の姿を見て、儂は全てを悟った。何もかもが、手遅れだったのだと。彼奴を前にして、儂は、儂の知り得る全てを語った。そして、殺されるはずだった」
ミゲルガはあえぐように息を吐くと、手の中のガラス片を強く握り締めた。皺だらけの皮膚が裂かれ、くすんだ色の血がテーブルを汚していく。
「儂は、罪を知るものとして生かされた。そして、彼奴の懺悔を聞き届ける役目を仰せつかった。それ以来、儂は地獄の業火から逃れることができないのだ」
ミゲルガは手にしたガラス片を勢い良く、自らの腕に突き立てた。
突然の行動に、話を聞いていた男が腰を浮かす。
ミゲルガはそれを視線で制すと、男に座るように促した。それに従い、男は椅子の上で姿勢を正す。
ミゲルガは腕からガラス片を引き抜き、無造作に放り投げた。傷口からは濁った血が溢れてくる。
「見ておれ、これが、儂に与えられた呪いだ」
そう言って、ミゲルガは腕の傷が男によく見えるように突き出してきた。男は言われるまま、その傷に注意を向ける。
どれだけそうしていたのか。
気が付けば、ガラス片で付けられた傷が塞がり始めていた。血が止まり、皮膚の裂け目がなくなっていく。
男は驚愕の表情でミゲルガに視線を移した。
「見ての通り、傷が癒える。癒えるどころではない、死ぬことさえできん。彼奴から受けた奇跡によって、儂は、彼奴の許しなしには死ねぬ体になった。それも、ただ彼奴の懺悔を聞くためだけにだ。信じられるかね、こんな話が?」
ミゲルガは両手、両腕を広げてみせる。グラスを割った時にできたはずの傷も、ガラス片を握り締めた時の傷も、先の腕の傷も、跡形もなく消えていた。
その光景を前にして、男はただ呆然とミゲルガを眺めるだけだった。
「お前さんが相手にしようとしてるのは、そういう埒外の存在だ。その覚悟が、お前さんにはあるのかえ?」
ミゲルガは眼光鋭く、男を見据える。
男は突然の喉の渇きを覚え、乱暴にグラスにワインを注ぐとそのまま飲み干した。それでも足りずもう一杯飲み干すと、ようやく落ち着きを取り戻す。
「私達とて、もう後がないのです。私の命に変えても、イワノフを動かさねばならない」
男の顔に、もう迷いはなかった。
その様子を見て取ると、ミゲルガは薄く笑った。
「よかろう。ならば、イワノフを呼ぶとしよう。今夜、月が一番高くなる時刻、村の外れの墓地で落ち合おうかね。だが、お前さんの依頼を受けるかどうか、それは儂にはどうにもできん。彼奴が何を基準にして依頼を選んでいるのか、それは儂にもわからんのだ。まさに、神のみぞ知る、だな。せいぜい、イワノフと会うまでに神に祈っておくが良い」
そう言って、ミゲルガは席を立った。その手には、中身が残っていたワインボトルが握られている。
「おお、そうじゃった。お前さん、名は何という? 聞いていたかもしれんが、覚えておらん」
「ミスト、ミスト・クーパーですよ」
「そうだったか。ではな、ミスト。幸運を祈っておるよ」
来たときとはまるで別人のように、ミゲルガはかくしゃくとした様子で酒場を出て行った。
一人残されたミストは、同じ様に呆然とミゲルガを見送る女給に追加のワインを頼み、懐から一枚の人物画を取り出す。
「イワノフが罪人を断罪するのなら、もしかすると」
ミストの取り出した人物画、そこにはアムリタの顔が少々乱雑に描かれていた。
赤い月が煌々と輝く夜、ミストは宿を抜け出し、ミゲルガに指定された村外れの墓地へと向かっていた。
イワノフに会うにあたり、彼はどうすればイワノフに仕事を受けてもらえるか、そのことばかりを考え続けていた。
事前に集めた情報では、イワノフには仕事の内容に非常にこだわりがあることがわかっている。どれだけ好条件や高額を示そうと、彼が求める条件が揃わなければ仕事を受けることはないという。金貨100枚に見向きもしなかったかと思えば、子供の用意した花冠で仕事を受けることさえある。
そして通り名の通り、彼の仕事の後には死体しか残らない。家一軒、屋敷一つ、そこの住人を皆殺しにする。彼は依頼対象とその家族、使用人等、対象の身近な人間全てを殺す。そのため、家人が全て揃い、寝静まった深夜に仕事をすることが多いらしい。彼が訪れた家は血に染まり、惨劇の現場となる。
イワノフが何を考え、仕事を選び、その関係者を皆殺しにするのか。
情報を集め、いくつもの仮設を立ててみたものの、ミストには確証が得られなかった。
そして、見つからない結論を探し続けた結果、辿り着いたのがミゲルガの存在だった。あの老爺に行き着いたのは偶然の産物であり、ミストにとっても予想外の収穫であった。そして、彼は勝手にミゲルガに会うことで問題は解決するものだと思い込んでいた。それが、あの酒場での一件である。
結局、ミストはイワノフと会う算段はつけられたものの、イワノフを突き動かしている何かを掴むことはできなかった。
イワノフと会うまでに与えられた時間で再度考察を続けていたが、宿を出るその時まで、何かしらの結論に至ることはなかった。
今こうして墓地へ向かいながら、彼は後のことを時の運に任せてみようと考えている。
そもそも、ミゲルガの話が本当であるならば、神の御使いに策を弄したところで詮無きことである。
「おお、よく来たな」
あれこれと考えているうちに、ミストは目的地に到着していた。
墓石に腰をおろしていたミゲルガが、彼を見付け声を掛けてくる。
「イワノフは?」
「まだ来ておらん。そろそろだとは思うがな」
ミゲルガはミストを見据え、何かを考えるように顎をさすった。
「して、策は決まったかね?」
ミゲルガの視線を真正面に受け止めつつ、ミストは首を左右に振る。
そして、軍人としての本来の洞察力を見せるミゲルガに、ミストは恐れを感じ始めていた。
「何も。いくら考えてみても、イワノフを動かせそうな案は出ませんでした。それは、貴方にもわかっているのでは?」
「だが、お前さんはここに来た。可能性がゼロではないのなら、それに賭けるつもりなのだろう?」
「本当に、よくわかっていらっしゃる。昼にも話しましたが、私にも引けぬ訳があるのです」
「じゃが、何もイワノフである必要はなかろう。他にも腕の立つ者は居るのではないかね」
「そうかもしれません。ですが、最も確実に殺せるのは、イワノフだけだど、そう考えているのです」
そして、ミストは自らにイワノフとの交渉を一任した、ある男の顔を思い描いていた。
その男への恩義を返す、その思いこそが、ミストをひたすらに前に進ませる原動力となっている。
「そうかね、ならば、成功を祈らせてもらおうか」
言いつつ、ミゲルガの視線がミストを超えて後方を捕らえた。
それと同時に、ミストの全身を得も言われぬ悪寒が襲う。
振り返り、ミゲルガの視線の先を追うと、巨漢の大男がこちらに向かってこようとしていた。
説明などいらなかった。あれがまさしく、皆殺しのイワノフだろう。
大男は大股でドシドシと近付いてくると、墓地の入り口を飾るアーチを窮屈そうにくぐりながら、目の前までやってきた。
「突然呼び立ててしまって、悪かったな」
「気にするな。俺とあんたの仲だ。で、話してたのは、その男か」
イワノフは値踏みをするようにミストを見下ろす。
それだけで、ミストの全身からは冷や汗が流れ続けた。
「その娘を殺して、どうなるんだ?」
イワノフの言葉に、ミストは驚きのあまり腰を抜かし、地面に座り込んだ。空気を求め、ミトスは頻りに口を震わせる。
「その男は、なぜ、その娘を恨む。自分の娘を汚したのは、その娘ではないだろう」
イワノフは、すべてを了解しているようだった。その上で、ミストに問を発している。何を求めているのか、と。
ミストは襟元を緩めると、懐から一枚の人物画を取り出し、イワノフに示した。
「この娘、アムリタはどうあっても殺さなければならない。確かに、貴方の言うように、お嬢さんを汚したのは、この娘ではない。だが、この娘の仕事によって、お嬢さんの痛みは癒えることがなくなってしまった。それを、ベラルディは一番に嘆いている。ラジシルは、死ではなく、償わなければならなかったんだ。その機会を、この娘は奪った。その行為は、断罪されてしかるべきではないのですか!」
ミストは叫ぶように、一気に捲し立てた。
肩で息をしながら、それでも手にした人物画を力強くイワノフへと突き付け続ける。
その人物画を、イワノフはそっと受け取った。
そこに描かれている少女の顔を、月明かりの元、じっくりと観察する。顔の輪郭を指でなぞり、眉、目、鼻と続け、最後に唇へ。
そして、イワノフは満足そうに満面の笑みを浮かべた。
「良いだろう。この仕事、受けよう」
そう宣言したイワノフは、実に愉快そうだった。まるで、恋い焦がれた想い人に出会えたかのように、顔を上気させている。
その様子に、さしものミゲルガも驚きを隠せないでいた。平素のイワノフの反応とは、明らかに異なっていたからだ。
イワノフは笑っている。だが、その瞳の奥には狂気の光が見え隠れしていた。
ミゲルガが何かを言おうと口を開くも、イワノフの瞳がそれを封じる。全身を小さく震わせながら、開いた口を閉じるのみ。
ミストにしても、目的を達成したというのに、生きた心地がいないまま、地にうずくまっていた。
「良い日だ、今日は実に良い日だ。後は、俺に任せておけ。報酬など必要ない。俺の好きなようにやらせてもらおう」
それだけ言い残し、イワノフは足早に去って行く。
残された男二人、生きていることが奇跡なのではないかと思いながら、巨体の背中を呆然と眺め続けていた。