巻の一 第一幕
あたしを見て、その男は『バケモノ』を叫んだ。
そう言われて、あたしは目の前の男と自分自身を比べてみる。
何度か自分の体と相手の体へ視線を行き来させてみたが、何が違うのかわからなかった。
どういう意味なのか、あたしは首を傾げた。
男はそんなあたしの様子に隙を見つけたと勘違いしたものか、勢い良く立ち上がると脱兎の如く逃げ出す。
自分を狙う相手に背を向けるな。それは、あたしが師匠からゲンナリするほど言われ続けた言葉だ。
男は立ち上がった勢いは良かったものの、後は足に力が入らないのか、左右に揺れながら懸命に駆けている。
あたしと男の距離は、さっきとほとんど変わっていない。
男の後ろ姿をじっくりと観察してみる。
ありきたりなシャツに、ありきたりなズボン。髪は適当に切り揃えていて、右耳の後ろに切り傷が見える。背は高めだけど筋肉は付いていないようで、ヒョロヒョロしている。身のこなしを見る限り、何かの稽古を受けたことがあるようには思えない。せいぜい、小悪党の喧嘩が良いところだろう。
最初にあたしと対峙した時、開口一番、あたしを小馬鹿にして、その後にあたしの手並みを見てからは逃げることしかできないんだから、そのへんは推して知るべし、ってことだろう。
視界の先、男の背中はゆっくりと移動している。
でもまだ、あたしの距離からは逃げ切れていない。
そういえばと、一つ思い出して男の腰へ視線を移した。
そこには、それなりの値がしそうな剣が吊るされている。見た目だけでも、よく斬れそうな感じだ。
だが、男が剣の柄に手を掛けることは、一度としてなかったのではないか。
男と対面してから今までの光景を、飛ばし飛ばしに思い出してみる。
そのどの場面においても、男が武器を手にあたしに抵抗してみせる素振りはなかった。
ただひたすら、ヒィヒィと情けない声をあげながら駆けずり回っていただけだ。
そして、そのいずれの場面においても、男の顔は恐怖に引きつっていた。男のまともな表情を見たのは、初めに顔を合わせた時だけかもしれない。
顔といえば、逃げている男の顔は、良い男の部類に入るものらしい。
それを利用して、金持ちの妻や娘、未亡人を何人も騙して、金を毟り取っていたそうだ。
そんな恨みが積もり積もって、今、あたしという結果に結実したわけだけど。
ダンッ、と前方から大きな音がして、続けざまにバンバンと煉瓦塀を叩く音が響く。
「あらら、残念」
余計なことを考えている間に、男は袋小路に捕まっていた。
もう、追いかける必要もない。
男は蒼白な顔でこちらに振り向くと、初めて、腰の剣に手を掛けた。その腕は、あたしからでもわかるくらいに震えている。
「お、俺は、こんなところじゃ死ねねぇんだよ!」
男が剣を鞘から引き抜こうと動き出す。
だが、剣は鞘に引っ掛かり、男の動きを止めた。
それだけだった。
あたしは目一杯腕を伸ばすと、男の胸に短刀を突き立てる。
伸び切ったあたしの腕を驚愕の表情で眺めながら、男は血を吐き出して倒れた。
あたしは伸ばした腕を引き戻しつつ、倒れいる男の頭の近くでしゃがみ込んだ。
「宝の持ち腐れだね。護身用にもなりゃしない」
「……バケ、……モ…ノ、め」
男は口元に血の泡を吹き出しながら、あたしを虚ろに見上げている。
「バケモノかぁ。まあ、人と違うと、そう見えるのかなぁ」
言いつつ、あたしはその特徴的な長い腕を袖の下に滑り込ませた。
「見た目は悪いかもしれないけど、結構便利なんだよ」
そう思ってるのは、きっとあたしだけなんだろう。
人は自分と違う者を恐れるから、あたしみたいなのはバケモノとして括られる。
それが自分を殺そうとやってきたなら、なおさらだろう。
「まあ、バケモノに殺されたなら、剣を抜けなかった言い訳にはなるでしょ」
男が事切れたのを確認すると、あたしはその場を後にした。
「あらまあ、見事な濡れ鼠で」
「仕事が終わったとたん、土砂降りになった」
一仕事終えて帰ろうと思った途端、灰色の空から勢い良く雨粒が降り注ぎ始めた。
雨具なんて持ち歩いてないものだから、濡れるままに走り続けて、やっとのことで行きつけの料理屋に駆け込んだ。
暇そうにカウンターでキセルを吹かしていた店主のティトルは、あたしの姿を見るなり大笑いして、店の奥に消えていった。
そのままだと店内が濡れるだろうと思って待っていたら、ティトルが大きめの布を持ってきて、あたしに渡す。
これで、体を拭けということだろう。
そう理解して、あたしは手渡された布で全身の水分を大雑把に拭っていった。
「朝から降りそうな空模様だったってのに、雨具は用意してなかったのかい?」
「荷物になるから、基本、持たない」
「言われてみりゃ、あんたはいつも濡れてるわね」
そう言って、ティトルは愉快そうに笑った。
「あんた用の着替え、用意しておいて良かったよ」
あたしが大方体を拭き終えると、ティトルは脇に置いていた着替え一式を差し出してきた。
そういえば以前、あまり着なくなった服を何着か持ってくるように言われて、持ってきたことがあった。
これは、その時のものだろう。
「あ、言っとくけど、そこで着替えないでよ。着替えるなら、いつもの個室使ってね。それと、腹拵えしてくでしょ?」
ティトルの言葉に、あたしは頷いてみせる。
そして、いつもあたし用に予約席になっている、一番奥の個室へ。
「何食べたい?」
「肉と魚と野菜」
「あいよ」
背中にかけられたティトルの質問へ、いつも通りの答えを返すと、彼女は奥のキッチンへと消えていった。
それを視界の隅で確認してから、あたしは奥の個室へ滑り込む。
この雨のせいか、店には客が一人もいなかった。
昼を少し過ぎてるとはいえ、普段なら一組二組は食事をしていてもおかしくない。
それだけ、今日の雨はひどい降り方をしてるのだろう。
その中を走ってきたんだから、ティトルがあたしのことを笑うのも仕方のないことだ。
あたしは身に着けていた衣服を下着を含めすべて脱ぎ捨てると、もう一度体の水分を拭い取る。
そして、新しい衣服に袖を通した。
濡れた下着をもう一度身に着ける気にはならなかったので、下着のことは諦めた。
まあ、別に問題はないだろうけど。
「はいはい、お待たせさま」
まるであたしが着替え終わるのがわかっているかのようなタイミングで、ティトルが姿を現した。手にはワインの瓶とカップ、それと魚介の乗ったサラダを持っている。
それをテーブルの上に手早く並べると、あたしが脱ぎ捨てた衣服を拾い集める。
そして、
「あんた、替えの下着は?」
「持ってないよ」
「これは?」
「びしょ濡れだから、履くのやめた」
あたしの下着を拾い上げながら、ティトルは呆れた様なため息を吐く。
「まあ、あんたはそういう奴よね、実際」
肩をすくめつつ、ティトルは濡れた衣服を持って個室を出て行った、
ティトルの言わんとしていることは、まあ、なんとなくわかる気ではいるけど、そのために不快感を受け入れろ、というのは横暴だ。
そもそも、下着を履いていないからって死ぬわけじゃなし、何が問題なのか。否、これはそういうのとは違って、人としての有り様とか、そういう問題なんだろう。
だからといって、あたしの考え方がいきなり変わることもないわけだけど。
あたしは気を取り直して、ワインの栓を開けた。
カップにワインを並々注ぐと、それを一気に飲み干す。
朝から今まで一滴の水分も摂っていなかったことを思い出したかのように、体全体に染み渡っていく。
ワインで一息ついた後、気が付いたらサラダを瞬く間に平らげていた。
味わったような、ないような。その上、サラダだからお腹にもいまいち溜まらない。それが余計に空腹感を呼び起こす。
「お腹減った」
「はいはい、お呼びですね?」
あたしの呟きに応えながら、ティトルが両手に料理を載せたトレーを持って現れた。
もしかすると、ここにいる間、あたしは彼女に監視されているんだろうか?
「なんでわかるの?」
「これでも、結構付き合いは長いほうでしょ」
小首を傾げるあたしをよそに、ティトルは手際よくテーブルに料理を広げていく。
食欲をそそる匂いに、あたしの思考は疑問から食欲に支配されていった。
考えても仕方ないと、あたしはナイフとフォークを手に、肉の塊に挑みかかっていく。
「さて、それで、仕事の方はどうたった?」
「問題なし。優男は死んだよ」
口の周りを肉汁とソースでベタベタにするあたしに苦笑いを向けつつ、ティトルは切り出した。
ティトルの言う仕事とは、あたしが請け負っている殺しのことである。
彼女はすべてを了解している、数少ない人間だ。
というよりも、彼女こそが殺しの元請け人である。
この無節操で汚い街には、殺しを生業とする人間が数多いる。そして、ティトルのような請負人の元、日々発生する依頼をこなしているのだ。
痴情の縺れ、隣人問題、亡国の大使、とある国の貴族や議員。何かの用でこの地を訪れたが最後、誰彼構わず標的にされ、殺されていく。
仕事に失敗して、あたしらの方が殺されることだって日常茶飯事だ。
人殺しなんてのを生業にする以上、自分が殺される覚悟はとっくにできてはいるけれど。
じゃ、なぜ、ここではそれほどに殺しが横行しているのか?
それは、この吹き溜まりみたいな場所が、周囲を囲む国々の不干渉地域になっているからだ。どの国にも属さず、与しない。干渉されず、することもない。その大前提がある手前、どこ国もここに対して表立って動くことはない。だから、ここで殺し合いが起こる。
武力を持ち込むこともできないことから、交渉は基本、ここで行われる。それを狙って、あたしらみたいな人間に依頼がもたらされ、人を殺す。場合によっては、雇い主の違いから、あたしらが殺し合うこともある。いうなれば、殺し屋による代理戦争だ。
現に、あたしも何件かそんな経験がある。運が良いことに、まだ生きていられているけど。
「そうよね。あんたの仕事だもの、しくじるはずないわよね」
言いつつ、ティトルの表情が歪む。何かを思案するように、眉間に深いシワが刻まれた。
こういう表情をする時、ティトルは面倒な問題を抱えている。そして今回は、あたしが殺した男が関わっているのだろう。
「あの男、他にも何か?」
「面倒な連中の女に手を出してたのよ。それで、男を捕まえるよう連絡が回ってきたの。それも、今朝早く!」
「そりゃ、手遅れだ」
「でしょ。適当に誤魔化したけど、まだウチの周りを嗅ぎ回ってるみたいでね、鬱陶しいこと」
「疑われてるの?」
「あの男に対して殺しの依頼が出たことは掴んでたみたいでね。街中の請負人に監視を付けてるのよ。イアンから、さっき愚痴の連絡が来たわ」
イアンの名前を聞いて、あの巨体とそれをはち切れそうに包む桃色のフリルドレス姿が思い出された。イアンと一度会えば、誰もが彼のその異様な出で立ちを忘れられなくなる。あたしなんかは、巨体と服の印象が強すぎて、イアンの顔が全く思い出せないくらいだ。
「イアンなら、監視してる奴ぶっ飛ばしそうだけど」
「そうしてから、私に連絡してきたみたいよ」
ああ、と呟きながら、その様子が簡単に想像できた。あの丸太のように太い腕で殴ると、大抵の男は簡単に吹き飛ばされるのだ。そして、そんな光景をあたしは何度か目撃している。
「でも、それだとあたしがここに入るのも、見られてるんじゃないの?」
「大丈夫でしょ、それは。その頃にはもう、夢心地だろうから」
「ああ、嗅がせたのか」
すっかり忘れていたが、ティトルはお香を扱うのが上手い。
この店内にも、気分を落ち着けるお香が焚かれている。焚かれているが、注意しなければ気付かないほど繊細だ。それに、お香の調合はその日の天候や条件によって微妙に変えているらしい。その調合方法はティトルしか知り得ず、ティトルがいない時は焚かれることがない。
そして、そのお香の効果は、時に人の意識を操ることにも利用される。
ティトルは商売柄、身の危険に晒されることもある。そんな時、彼女は危機を脱するためにお香を焚くのだ。その香りに包まれると、相手は戦意を失い、幻想の世界に目を奪われることになる。童心に還り、純粋な瞳を取り戻すそうだ。
どういう原理でそんなことになるのか、それはあたしにはわからないけど、そういう秘策を持ってることから、ティトルのことを『香術士』なんて呼ぶ連中もいるらしい。
そのお香を嗅がされたなら、監視の目を心配する必要はないだろう。
「でも、これからどうする? あの男の死体なら、近いうちに見付かると思うけど」
「とりあえずは、様子見ね。アムリタ、悪いんだけど」
「しばらくは、部屋でおとなしくしてるよ。蓄えもあるし」
「食事はウチから持たせるから」
そう言って、ティトルは申し訳なさそうに手を合わせた。
当分の間は暇ができそうだ。せっかくだから、久しぶりに庭の畑の手入れをしよう。ここのところ忙しなくて、きちんと見てやれてなかったから。
そんなことを考えながら、ギムネの丸焼きに頭から齧り付いた。
*** ***
娼館が立ち並ぶ一角、その建物同士が作る狭い通路の奥に黒尽くめの男が数名集まっていた。
男達の足元にはどす黒い染みが広がり、その中心には死体が一つ転がっている。
「間違いなく、ラジシルなんだな?」
「ええ、間違いありません。血の気が抜けてはいますが、確かに奴です」
杖に体を預けながら死体を見下ろしていた老齢の男に、その手下と思しき男が背筋を正して答える。
「儂の号令を、無視した奴は、どいつだ?」
「今、目撃者を探してます。一人ぐらい、見てたもんが出てくるでしょう」
「見つけ次第、ケジメ、付けさせろ。このメリニス一家に喧嘩売ったんだ、ダダじゃ済ますな」
そう言って部下達を鋭い眼光で射抜いたのは、この辺りでは知らぬ者のないメリニス一家の長、ベラルディ・メリニスその人であった。
ここ、テヘナン緩衝地帯には幾人かの実力者がいる。そして、彼らは日々ここでの覇権を得るために血を流し続けていた。
ベラルディ率いるメリニス一家もそのうちの一つであり、現在のテヘナン領主とは入魂の間柄で、実力が頭一つ抜きん出ている。
だが、メリニス一家は義理人情を重んじる傾向にあり、無闇矢鱈と力を振るうようなことはない。彼らが動く時、それは、彼らの仁義に反した何かが起きたときである。
そして、今回は正にその仁義が踏みにじられていた。
「エジル、サシャの様子はどうだった?」
「今日は落ち着いていました。あの様子なら、すぐにいつものお嬢さんに戻りましょう」
死体の持ち物などを確認していた男、エジルはベラルディに話し掛けられると手を止め、少し考える素振りを見せてから淡々と答えた。
その声や表情には感情が微塵も感じられず、無機質な印象を与える。
「さよか。ラジシルには、きっちり謝ってもらうつもりだったんだがな」
言いつつ、ベラルディは手にした杖で死体の頭を小突いた。その表情は憎々しいというより、悲しげである。
そんな二人の元へ、部下の一人が女を連れて戻ってきた。女は連れられながら散々騒ぎ立てていたので、場が途端にうるさくなる。
「男が殺されるところを見たって女を、連れて来ました」
部下は女を二人の前に引き摺るようにして立たせた。
明るい赤のワンピースに身を包み、派手な化粧をした女は、通路に面した娼館で働く娼婦だった。二人を前にして、女は抗議するような強い視線を向ける。
「女、お前が見たのは、この男が殺されるところか?」
エジルが死体を指し示しつつ、女に問う。その冷たい声と表情に、女は一瞬身震いした。それでも何とか気丈さを取り戻すと、女は口を開いた。
「わ、私が見たのは、ここで殺された男よ。顔まではよく見てないからわからないけど、ここで何件も殺しがあったってんじゃないなら、そこに転がってる男のことで間違いないんじゃない」
そこまで一気に喋り終え、女は様子を窺うように二人を見た。対して、ベラルディもエジルも何の反応も示していなかった。
女は大きく息を吸い込むと、腹に力を込める。
「あの日、ちょうどお客が帰った後よ。空気を入れ替えようと部屋の窓を開けたの。その時、ここに男がフラフラしながら逃げてきたの。その後を、ローブを羽織ってフードで顔を隠した奴が追いかけて来てた。逃げてきた男に比べて、そいつは小柄だったから、もしかすると、女とか子供かもね。で、男が通路の先、この袋小路に追い詰められて、反撃でもしようと振り返ったところをグサリとやってたわ」
そう言って、女は何かを思い出そうとするように目を細めた。その様子を、二人の男がじっと見詰めている。
「そういえば、逃げてた男と殺した奴の間、結構離れてた気がするわ。でも、殺した奴は腕を伸ばしてた。そう、あれは腕の動きだと思うけど、でも、長すぎる気もする」
「腕が長かった、そうなんだな?」
女の言葉に、エジルが反応した。いつの間に取り出したのか、メモ用のペンと羊皮紙を手にしている。
「あの距離で届いたなら、そうなるわね。でもそうだとすると、普通の二倍か三倍の長さよ。普通じゃないわ」
「常人とは異なる身体的特徴。異様な体。アグリタ種なら、可能性はある」
「ああ、アイツラね。そうね、アイツラなら、そういう腕を持ってる奴がいても、不思議じゃないわね」
「アグリタ種の、殺し屋」
エジルが幾度か同じ言葉を反芻する。まるで、何かを確かめるように。
「ここでもアグリタ種の殺し屋となれば、そう数はいない。探すのに、そう時間はかからないでしょう」
エジルはベラルディにそう言い残すと、足早にその場を後にした。ベラルディはエジルの後ろ姿を眺めつつ杖で地面を一突きし、女に向き直る。
「わざわざ済まなんだな。これはその礼だ。取っておけ」
ベラルディが言うと、脇に控えていた部下が女に金貨を二枚差し出した。女は出てきた金貨とベラルディの顔へ視線を何度か往復させた後、すばやく金貨を取り上げ、そのまま逃げるように去っていった。
残されたベラルディは満足そうに頷くと、未だ地面に転がったままの死体を見やる。
「お前が謝らないというなら、代わりの者を探してこよう」
そう言って、杖で死体の頭を叩き割った。
娼婦から得た情報を元に、エジルはすぐさま動き始めた。
動ける部下と息の掛かった情報屋を総動員し、それぞれの請負人が抱えている駒の中にアグリタ種がいる者をピックアップしていく。
アグリタ種。それは、人間のなり損ないだと言われている。人と同じ様な容姿をしていながら、人とは異なる身体的特徴を持って生まれてきた存在。通常の倍以上ある手足や余分な四肢を持つ者、獣のような角や爪を持つ者、飛べない羽を生やした者など、その特徴な様々だ。
基本、呪いの子として生まれて間もなく殺されることが多いのだが、見世物として奴隷商に売られることや、自らの子を殺すことができず、アグリタ種であること隠しながら育てられることもある。ただし、どの様な場合であれ、アグリタ種であることが周囲に発覚すれば、大抵迫害の対象となる。
一部、アグリタ種への偏見が少ない、もしくはアグリタ種であろうとも普通に暮らせる場所は存在するが、それは極限定的な話である。
ここテヘナン緩衝地帯も、数少ないアグリタ種居住の地になっている。なってはいるが、決して安住の地ではない。偏見が普通に横行しているうえ、地位も低く見られる事が多い。だが、ここが他の場所と違うのは、アグリタ種であろうとも相応の実力があれば認められることである。そのため、自らに備わった特異な体を活かし、居住権を手にする者が多い。
部下達に号令を飛ばした後、エジルは事務所にこもって手元の資料を漁っていた。彼の記憶が正しければ、過去に潰した請負人達から押収した駒のリストが保管されているはずだからだ。そのリストに記されている殺し屋に該当しそうな者がいれば、請負人の横の繋がりから手掛かりが見付かるかもしれない。
「しかし、定期的に整理はしておくべきだったな」
すぐに使うことはないだろうと、適当に保管していたことが仇となっていた。様々な職種の人間から押収した多種多様な書類が、そこにはいくつかの箱に別れて収められている。過去の自分の仕事とはいえ、その全ての保管場所を把握しているわけではい。そのため、目的のリストを探し出すのに手間取っていた。
記憶を頼りに目星を付けていた箱を二つばかり処理し、三つ目を半分ほど片付けたところで、エジルは目的のリストを発見し、小さくため息を吐く。
請負人から押収したリストは、都合三冊見付かった。
エジルはその三冊を自身の事務机に横に並べると、手元にはメモ用のペンと羊皮紙を用意する。
そして、右端から順に一頁ずつめくり、内容を確かめていった。該当する人物がいれば羊皮紙に写し、そうでなければ次の頁へ。その作業速度は驚くほど早く、三冊のリストは次々と頁をめくられていく。普通であれば数時間かかるかと思われる作業を、エジルはたった一人で、一時間とかからずにこなしてしまった。
「このリストだけでも、意外といるものだ」
羊皮紙に羅列された人名を眺めつつ、エジルは感心したように呟いた。ここテヘナンではアグリタ種が珍しくないといえ、殺し屋などという職種にまでこれほどの人数がいるとは思っていなかったのだ。
「とはいえ、腕が長いという特徴に的を絞れば、確実に対象は減っていく」
リスト上ではアグリタ種か否かの別しか確認できなかった。だが、名前がわかれば、そのアグリタ種の身体的特徴が何であるかはすぐわかる。これから部下達がもたらすであろう情報との付け合せもできる。対象が特定されるのも、時間の問題だった。
少し休憩しようかとハーブティーを入れ終わったところで、部下の一人が早くも戻ってきた。
「早かったな」
エジルから声をかけられるも、戻ってきた部下は浮かない顔をしている。その様子に、エジルは一抹の不安を覚えた。
「どうした?」
「それが、請負人に門前払いを食らいました」
その答えは、エジルの想定していないものだった。
大抵の場合、メリニスの名前を出せば請負人は仕事も受けるし情報も渡す。それは、メリニス一家と事を構えるのを嫌がってのことだ。殺し屋をまとめているとはいえ、真正面からぶつかるとなれば話は違ってくる。殺し屋は基本、裏で働くものであって、大立ち回りをするものではない。抗争となれば、兵が多いほうが有利なのだ。
そういう事情があったため、請負人に接触すれば簡単に情報は引き出せるものと思っていた。その前提があっさりと覆されたことに、エジルは焦りを感じ始める。
「どうやら、手当たり次第に監視を付けたことが、請負人達の反感を買ったようです。監視にあたっていた一部の者に、今朝から姿が見えなくなった者もいます」
その報告を聞いて、エジルは絞り出すようなうめき声を発した。
今まで、このようなことは一度としてなかった。メリニスの名はそれだけ恐れられている、そう自負していた。その自信が、根底から崩れようとしている。
それから部下達が次々と戻ってきたが、誰一人としてまともな情報を持ち帰った者はなかった。ある者は門前払いされ、ある者は意味のない情報を大量に持たされた。メリニスの名を出し実力行使に出た者もいたが、逆に返り討ちにあい、満身創痍で叩き返されている。
今や、街中の請負人がメリニス一家を敵に回す勢いであった。
さらに、動かしていた情報屋達も泣き言を言い出し、逃げ出す始末。今回のことが原因で、情報元が大量に失われることになりそうだと懇願され、一人、また一人と情報屋はいなくなっていった。
わずか半日の間に、エジルは探すべき相手の手掛かりを得る手段を失い、八方塞がりに陥る。よもやこの様な状況になるとは、完全に想定外であった。
「どういうことだ? 俺達は恐れられていたはすだ。俺達が動けば、ここの連中は抗うことなく従うはずだったろう」
エジルは自問する。だが、その問いに対える者は誰もいない。
今日に至るまで、暴力、金、女、あらゆるものを利用して地盤を築き、支配力を強めてきた。そして、兵を集め、武器を集め、軍隊を作り上げた。ここでは、力こそが正義であり、真実なのだ。そして、それをもってベラルディにこの地に君臨してもらわねばならないのだ。
このままでは、ベラルディに申し訳が立たない。その思いが、エジルを奮い立たせる。
彼は一度不敵に笑うと、自ら作成した対象者リストを破り捨てた。
そんなエジルの様子に、その場に居合わせた部下達がどよめく。
「社交場的な対応はここまでだ。誰を敵に回したか、それをクズ共に教えてやる必要がある」
エジルは懐から黒の手甲を取り出すと、慣れた手付きではめていく。それを見ていた部下達が一斉に歓声を上げた。
「騒ぐな、馬鹿共。すぐに出るぞ、準備しろ。手当たり次第、叩き潰す」
エジルの言葉に、さらに大きな歓声が上がった。