第四部
どうでした?これは大した話でもありません。
もし“彼”がいなくとも、この男性は自分に気が付く事が出来たかもしれません。近くに、自分を見てくれる人がいればそれでいいのです。しかしこの男性は、周りの人間を見る事が出来ていなかった。ただそれだけの事です。
芸術などといったものは、作者がこの世を去ってから評価を受けるものがけっして少なくありません。
恐らく、彼らには先が見えすぎているのでしょう。そしてそれの伝え方にも長けている。しかし、周りの人間にそれを受け取れるだけの技量がないのです。
だから、長い時間をかけてそれについて検討し、そこに込められている思い、それから溢れてくるものを必死で掴み取ろうとするのです。
そして少しずつ掴めてきて、懐にある程度溜まったとき、ようやくそれが何を表しているのかという事に気がつきます。
しかしこれは別段おかしな事でもないと、私には思えます。人間自身が、自分の存在に気付くまでに一生分の時間がかかるのですから、早々にそれが見えた人達の生み出すものなど、そう簡単に理解し得る筈がないのです。しかし彼らは残し続けます。
それは何故か?早々に見つけてしまった彼らは、生きたいと願うのです。一度死んだ。ちゃんと生きる前に、死んでしまった。だから、生きたい。ここにいると、生きていると、誰かに思ってもらうだけで構わない。
それが理解されない間でも、変人として人々の中で生き続ける。認められれば、偉人として後々の人々の中で生きられる。
人生長さではありません。生きることができるか、どうかです。少なくとも、私はそう思って今生きていますよ。
ああ、申し訳ない。もう少し話していないのですが、また死を求める人が私を呼んでいます。人々の常識とは違うところで生きている、矛盾した死神を……。