第三部
真っ白だ。先程からこれを塗り潰したくて仕方が無いのだが、如何せん、何も浮かんではこない。
テーマは自然。そう決めていた。しかし何もかもが漠然とし過ぎていて、何から手をつければいいのか分からない。
「ああ、もう!」
――殺さなくてはならない――
あの男の声が、妙にはっきりと思い出される。別に癖のある声だというわけでもない。しかし何故か、あの声と笑顔がいつまで経っても忘れられない。
「悟」
またしても急に耳に飛び込んで来る声。全く驚かないわけでもないが、流石にもう慣れはじめている。
あいつがこうして頻繁に俺の部屋に出入りするようになってから、もう二週間だ。二週間も経ってしまっている!ああ、慣れとはなんと恐ろしいものか。
「頼むからもう来ないでくれ……あるいは」
「あるいは?」
「俺が誰を殺すべきだというのか、さっさと教えてくれ」
「本当は分かってるくせに。あなたは認めたがらない」
「分かっていたらあんたなんかに訊きやしない!」
ああ、悪い癖だ。俺は我慢というものがどうも苦手なのだ。気にしている事、都合の悪い事などを言われると、つい大声を出してしまう。
実際に、いまだ早紀をデートには誘えていない。
「自然じゃなくても良い。何でも良いですから、そのキャンパスに描いてみてください。ただ好きな色で塗り潰してしまうだけでもいいです」
「何で俺が……」
何でもいい?好きなものを?
唐突に、頭の中にあるものが浮かんだ。正直迷ったが、何でも構わないと言うのでそれを描く事に決めた。
本当に適当に、直感だけで色を作り、何の計算もせずただ筆を滑らせる。
やがて浮かび上がってきたものからは、様々なものが溢れていた。
「は……はは……」
自分ですらも呆然とした。有り得ない。まずそう思った。
頭に浮かんできたものは死神。巨大なかまを持ち、全ての生きとし生ける者からその命を奪う存在。しかし彼の頭に浮かんできたものは、それだけの存在ではなかった。
生を奪うだけではない、命の蝋燭を見守る死神。恐怖は確かにそこにある。しかしその隣には、常に暖かさが隠れていた。
本当に適当に。浮かんできたものを、ありのままに書いただけ。それが、何十日も細かく計算しきれいに作り上げた数々の絵よりも、力強かった。それは生きていた。
「今、あなたは殺した」
「…………」
「殺すべき者を。高みを目指し続けるあまり見えていなかった、あなたの足を掴んでいた者を、あなたは殺した。もう、お分かりでしょう?」
「俺自身……」
認めてもらおうと。今までのどんな絵よりも緻密な計算をし、何のミスもなく創り上げた絵。確かにそれは綺麗だった。美しかった。しかし、それだけだったのだ。
所詮は、創り上げられたもの。生きてはいない。何も出てきやしない。
そうだ。生まれなければならない。筆を使うのは、それを伝えるためのただの橋だ。その橋しか見えないのなら、その先にあるものがどんなものであっても、人々には届くことはない。
「あんたは……」
「私は頼まれただけですよ。あなたがそれを望んだ。殺せと。死にたいと。そしてなにより、生きたいと」
死神の絵は、その後男がこの世を去るまで表に出る事はなかった。それは奪っていった。ゴミが溜まり、無駄に大きくなった炎を、奪っていった。そして残った火を、小さくとも消える事のない火を、見守り続けていた。