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第二部

 男は、公園のベンチに座って頭を抱え込んでいた。長方形の薄っぺらい一枚の紙を、男の右手は強く握り締めている。

 その所為で、その紙には沢山の皴が付き、更には滲み出ている汗によってしっとりと濡らされていた。

「誘うんだ。お前なら誘える。言えるさ」

 しきりに右手で握り締めている紙と左手に持った携帯電話を見比べながら、ぶつぶつと独り言まで呟きだすので、その前を通る人々は怪訝そうな顔を男に向ける。しかし今のこの男の頭に、そんなものは全く入らなかった。


「怖いんでしょう?」

「この俺が一体何を恐れるって……あ、あんた、あんた誰だ!」

 男は文字通り、ベンチから飛び上がって驚いた。思わず声を荒げてしまう原因を作った人物は、先程まで自分が座っていた場所に座り、こちらを見ながら微笑んでいた。

 男の自分が見惚れてしまうほどに、それは美しく中性的であった。

「こういった物は」

 立ち上がり、身に纏った真っ黒いコートとは真逆の、雪のように白い腕を自分の眼前まで持ってくる。

 その優雅な動作にも目を奪われるが、手に持っている物があの紙であることにようやく気が付き、はっとなった。

 不思議な男は持っている逆の手の人差し指と中指で軽く挟み、そのまま端から端へとゆっくり滑らせる。すると指が通った後の紙は、まるでたった今作られたばかりの物のように、皴も湿りも消えていた。

「綺麗な方がいいでしょう。女性なのですから」

 そんな理解しがたいことを言いながら紙を返してくる。戸惑いながらもそれを受け取り、礼を言おうとしたのだが、男の妖艶な笑みと不気味な行動がそれを止めさせた。

「あ、あんた……何したんだ?」

「何も?元から、そうでしたよ」

 改めて見た男性の笑顔に、今度はすっかり見惚れてしまっていた。それに気付くまで、一体何秒かかったのだろうか。

 こちらがずっと見つめていることに彼は気が付いている筈なのだが、彼は何も言わず、少しも動かず、ただ笑顔を浮かべ続けているだけだった。

「あ……悟だ。加藤、悟……」

 自分でも良く分からないまま、気付けば名乗っていた。他にどういう行動を取ればいいのかも分からなくなったほど、混乱していた。俺は魅入られたのだ。

 いい年の俺が、こんな中年の男に?しかし……確かに美しい。

「そうですか」

「いや、俺が名乗ったんだ。お前も名乗るのが道理ってもん……」

「ほら、来ましたよ」

「ああ?」

 彼は既に、こちらを見てはいなかった。何故か寂しいという感情が生まれてくるのを感じつつ、急いでその視線の先を追う。


 向こうはまだ気付いていない。まさに偶然だ。今電話しようか迷っていた相手がここへとやってきたのだ。ああ、これは神様が誘えと言っているに違いない。

「お、おい早紀」

「……何?」

「何?って、もうちょっと普通に喋れねえのかよ」

「忙しいの。これからお得意さんにこれ届けなきゃいけないんだから……」

 早紀と呼ばれている女性は、手に持った少し大きめの封筒を悟に見せ付ける。封筒自体には何も書かれてはいなかったが、容易に想像できてしまった。

「おいおい、それの締め切りは二日後までの予定だろ?」

「しょうがないでしょ?上がこれを気に入っちゃったんだから。こんなところでもたついてるあんたが悪いのよ」

「分かってるさ……でも期限ぐらい」

「どうだか。二日経っても、あんたには出来ないように見えるけど?」

「うるせえな!お前に何が分かるってんだよ!」

 ここが公園であることなど、すっかり忘れていた。

 いや、忘れてなどいない。周りにいる多くの他人が、自分のことを見ているのだって分かっている。ただそんなことはもう、どうでもよくなっているだけだ。

 自分でも驚くほど、無性に腹が立った。何に対してなのか、それが何に向けられるべきなのか、自分は知っている。知っているのに、知っているから、それは目的から外れた働きをしてしまう。

「お前はただ従って働いてりゃいいだけだろ!俺とはまるで違うんだよ!」

「……私に当たるなんてね。本当は殴り飛ばしたい気分だけど、我慢してあげる。どうやら自分が一番、良く分かってるみたいだから」

 ポン、と肩に手を置いて、一歩ですぐ横に並び、あっという間に離れていった。

 それがまるで自分と、この世界のことを表現されているように思えてしまい、それもまた癪に障った。

「くそっ」

 ちょうど良く足元に転がっていた缶を蹴飛ばそうと、思いっきり足を上げ、振った。今日初めて、気持ちが良いと思った。すっきりする音を上げて、それは放物線を描いた。蹴った衝撃で缶はへこみ、そのおかげで缶がどういう回転をしているのかが良く見える。それが地に着く前に、背を向ける。そういった仕草が格好良いのではないかと、そんなくだらない事を考えながら。


 しかしいくら待っても、缶が地に落ちて再び聞こえてくる筈の音が鳴らない。目を瞑って音を聞くべきか、開けて聞くべきか、そんなことを迷う暇が生まれた生まれたほどだ。

 例え誰かに当たってしまったとしても、音はする。だんだんと不気味に思えてくるが、それでも恐る恐る振り返った。

「危ないですよ。こんなこと」

「………」

 またあんたか。自分ではそう言ったつもりだった。だが想像以上に、自分の脳は疲れたらしく、暫くの間は深い溜息しか出てこなかった。

「だから……」

 缶を綺麗にゴミ箱の中へ投げ入れた男の、流し目が俺を捕らえた。まるで体中が凍ってしまったかのように、体が強張って動かなくなる。

「だから、あなたは私を呼んだ」

 呼んだ?馬鹿な!誰かを呼ぶにしたって、俺はもっと利益を得られそうな奴を呼ぶ。その怖いほどの美しい笑顔と不気味さ以外、あんたに何があるってんだ。

「あなたは殺したい筈だ」

「いい加減にしてくれ!いくら俺がこんな紙切れを持っていたって、十分忙しいんだ!もうこれ以上、俺にその顔を見せないでくれ!」

 振り返りたい。せめてもう一度、あの美しい笑顔を拝んでおきたい。

 背を向け、もう二度と会う事はないだろうと考えていると、急にそんなものが頭の中を占拠し始めた。

 一生分の我慢を使ってしまうような気がするが、それに負けるようなことはない。

「あいつを殺さなければ、あなたは人々に受け入れられる絵などは描けませんよ」

 足が止まった。続いて勝手に体は振り返る。

 やはり男は、美しかった。

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