最終話
潮騒のレクイエム
着底し、泥の中に沈みゆく『天王丸』の甲板。
膝をつき、変わり果てた親友の姿を見上げて震える蔵人の耳に、鯉三郎の冷徹な声が降ってきた。
「蔵人、お前が欲したのはこの鉄の塊か? それとも、それを動かすために奪い取った、民の汗と血か?」
「だ、黙れ! 鯉三郎、貴様……生きていたのか……!」
蔵人は腰の刀に手をかけようとしましたが、その指は恐怖で凍りつき、動きません。周囲では、徴税と重労働に耐えかねていた領民たちが、竹槍や鎌を手に、沈みゆく巨艦を取り囲んでいました。もはや、蔵人を守る兵は一人もいなかった。
「十五年、俺は暗闇の中で、お前の顔を一度も忘れたことはなかった」
鯉三郎は、静かに蔵人の前へ歩み寄る。
「お前を殺すのは容易い。だが、死は救いだ。お前には、これから俺と同じ時間を味わってもらう。……すべてを失い、誰からも顧みられぬ、生ける屍としての時間をな」
鯉三郎が合図を送ると、群衆の中から役人たちが現れました。それは鯉三郎が事前に裏工作で動かしていた、公儀の検分役たちだ。
「蔵人、貴様には領民への不当な搾取、および南蛮との不法な武器密輸の疑いがある。……曳けい!」
かつての権力者が、泥にまみれ、惨めな叫びを上げながら引きずられていきました。彼が向かう先は、かつて鯉三郎が十五年を過ごした、あの絶海の孤島の監獄砦。
因果は巡り、復讐の円は、ここで完璧に閉じられたのだ。
静寂が戻った港。
泣き崩れていたお露が、震える足で立ち上がり、鯉三郎を見つめる。
「……鯉三郎様。本当にお戻りになったのですね」
その瞳には、十五年前の純真な光が、一瞬だけ宿ったように見えた。
鯉三郎は、彼女の美しく、しかし蔵人の妻として刻まれた苦労の跡が残る顔を、じっと見つめました。彼の胸に去来したのは、かつての愛か、あるいは共に失われた時間への憐憫か。
「お露……お前はもう自由だ。この街で、誰の影にも怯えず生きていくがいい」
鯉三郎は懐から、一枚の書状を取り出し、彼女の手へと握らせました。それは、堺の豪商『海煙』が持つ利権の一部を彼女に譲渡する、莫大な資産の証明だった。
「鯉三郎様! 貴方は……貴方はどこへ行かれるのですか!?」
追いすがろうとするお露の手を、鯉三郎は静かに、しかし決然と解いた。
「俺の居場所は、もう陸にはないのだ。……十五年の熟成は、俺を海の一部にしてしまった」
朝日が水平線から顔を出し、瀬戸内の海を黄金色に染め上げた。
鯉三郎は、無傷のまま浮かぶ自らの鉄甲船『不知火』に乗り込み、帆を上げさせる。
背後で聞こえるお露の泣き声と、自由を得た民衆の歓声。
それらを潮騒の中に置き去りにして、漆黒の船はゆっくりと沖へ向かった。
彼はもう、復讐者ではなかった。富も、権力も、女の愛も、彼を繋ぎ止めることはできない。
十五年の暗闇を経て、男はただ、風と波だけが支配する永遠の自由へと、その魂を解き放った。
レクトールがゆっくりと手帳を閉じる。
部屋には、朝の光と共に、清々しい静寂が満ちていた。
「……見事な幕引きだ、レクトール」
大統領は立ち上がり、コートを羽織りました。
「復讐の味は苦いが、その後に残る朝の空気は、これほどまでに澄んでいるのだな」
大統領は、作業台の上に一枚の金貨を置きました。物語への、最高級の謝礼。
「職人。お前が巻いたその葉巻、名はもう決まっているか?」
職人は、出来上がったばかりの、太く、力強い一本を掲げて見せた。
「ええ。……『モンテクリスト』。あるいは、『巌窟王』とでも呼びましょうか」
大統領は満足げに頷き、扉を開けて外の世界へと戻っていった。
レクトールもまた、静かに椅子から立ち上がる。
開け放たれた窓から、新しい一日の香りが、煙の残骸をさらっていった。




