第3話
深淵からの生還、そして黄金の牙
部屋の空気が、ぴりりと張り詰めていた。
大統領は、口に含んでいた紫煙を吐き出すのを忘れ、レクトールの唇を見つめている。職人の手元では、タバコ葉を断つカッターの音が、鋭く一度だけ響いた。
「……投げ込まれたか。重りまで付けられて」
大統領が、噛みしめるように呟いた。
「海を愛した男が、最期は海の底へ。皮肉な結末だな、レクトール」
「いいえ、大統領。海を愛したからこそ、海が彼に味方したのです」
レクトールは、手帳の次の頁をめくった。そこには、激しい波しぶきに洗われる絶壁の図が描かれていた。
「男は、暗闇の中で十五年、この瞬間のためだけに牙を研いできたのですから」
凍てつくような冬の海が、鯉三郎の全身を叩きつけた。
衝撃で意識が飛びかけるが、麻袋の中に流れ込んできた冷水が、無理やり彼を現実に引き戻す。足元には、看守たちが投げ込んだ三十貫(約百十キロ)の鉄球が結わえられており、彼を容赦なく深淵へと引きずり込んでいく。
光のない水底。肺の中の空気が、泡となって漏れ出していく。
だが、鯉三郎は慌てなかった。兵衛との十五年が、彼に「死の中での冷静さ」を叩き込んでいた。
彼は口の中に隠し持っていた、一本の細く鋭い鋼の針を取り出した。それは、監獄の床に落ちていた釘を、十五年かけて石にこすりつけ、研ぎ澄ませた執念の刃であった。
鯉三郎は視界の効かぬ泥水の中で、正確に麻袋の合わせ目を切り裂いた。冷たい海水がなだれ込み、自由になった手で、自らの足を縛る紐を断ち切る。
重りから解放された肉体が、水面に吸い寄せられるように浮上していった。
ぷはっ、と水面に顔を出したとき、鯉三郎の目に映ったのは、監獄砦から放たれるサーチライトのような篝火の光だった。
彼は音を立てぬよう、海流を読み、漆黒の海へと潜った。兵衛から学んだ瀬戸内の潮の流れ。今、どの方向に泳げば本土ではなく、師が告げた「無人島」へ辿り着けるか、頭の中に完璧な海図が展開されていた。
数時間後、低体温症で指先の感覚が消えかけた頃、彼の指がざらりとした砂を掴んだ。
這うようにして辿り着いたのは、地図にも載らぬ小さな岩礁の島。その中央にぽっかりと口を開けた洞窟こそが、呂宋兵衛が遺した「宝物庫」であった。
洞窟の奥、潮が満ちても決して濡れることのない高台に、それは鎮座していた。
厳重に封印された漆塗りの長持。鯉三郎が震える手でその蓋をこじ開けると、暗闇の中で鈍い光が溢れ出した。
そこにあったのは、見渡す限りの南蛮銀の延べ棒と、まばゆいばかりの黄金の細工物。そして、さらに奥の革袋には、一枚の巨大な羊皮紙が収められていた。
それは、当時まだ世界でも誰も見たことのない、船体を鉄板で覆い、大口径の大砲を搭載した「鉄甲船」の緻密な設計図であった。
「……兵衛さん、これがあれば」
鯉三郎の乾いた喉から、低く、獣のような笑い声が漏れた。
十五年の歳月が、ただの若者を、莫大な富と軍事力を手にした「死神」へと作り変えたのだ。
数カ月後。
瀬戸内の活気あふれる自由交易港・堺に、一隻の奇妙な南蛮船が現れた。
漆黒の船体に、真紅の帆。その艫に立つのは、絹の衣服に身を包み、優雅にパイプを燻らせる謎の貴紳であった。
名は、こう名乗った。
「海煙の主、十字路の商人……とでも呼んでもらおうか」
彼の視線の先には、いまや一国の水軍を統べ、領主として権勢を振るう、かつての親友・蔵人の姿があった。
鯉三郎の復讐のチェスゲーム。その第一手は、蔵人の最も愛する「欲望」へと、美しく、冷酷に差し伸べられた。




