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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第9話 錆びついた歯車と硝子の心

小舟は音もなく岸に着いた。

シルヴィアの屋敷の裏手には、運河から直接庭園へと上がれる船着場が設えられている。石段を登ると、そこには手入れの行き届いた芝生が広がり、その奥に白亜の邸宅が静かに鎮座していた。

下界の喧噪は、ここまでは届かない。

風が梢を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、鼓膜を撫でるように通り過ぎていく。草枕の画工が求めた非人情の世界が、この異世界の貴族の庭に実現されているとは、なんとも皮肉な巡り合わせである。

「静かだな」

吾輩が呟くと、シルヴィアは編み笠を取りながら微笑んだ。

「私の唯一の自慢だ。騎士団の務めから離れ、ここで独り、古書を紐解く時だけが、私が私自身に戻れる時間なのだよ」

彼女の横顔には、戦場で見せる鉄火のような激しさはなく、どこか憂いを帯びた、深窓の令嬢らしいかげりがあった。

通されたのは、先日とは別の、庭に面したサンルームのような部屋であった。

ガラス張りの壁からは、午後の柔らかな日差しが降り注いでいる。テーブルには、湯気を立てる銀のティーポットと、焼き菓子が並べられた。

「これは、東洋の茶葉だ。以前、交易商から譲り受けたものでな」

シルヴィアが自らカップに茶を注いでくれる。

琥珀色の液体から立ち昇る香気は、懐かしい日本の緑茶とは違うが、どこかジャスミンに似た、清涼な芳香を含んでいた。

一口啜る。

渋みの中に、微かな甘みがある。悪くない。

「……美味い」

「それはよかった」

シルヴィアは満足げに頷き、自身のカップを手に取った。

「ナツメ殿。貴殿は、先ほどの騒ぎを見てどう思った」

「どう、とは」

「人々が貴殿を崇め、あるいは力を恐れ、勝手な解釈を押し付けてくる、あの様子のことだ」

吾輩は茶菓子に手を伸ばしながら、少し考えた。

「滑稽だね」

「滑稽?」

「そうだ。彼らは吾輩という人間を見ているのではない。吾輩の背後にちらつく『九九九九』という数字の幻影を見て、勝手に踊っているだけだ。それはまるで、影絵を見て実体だと思い込み、怯えたり喜んだりしている幼児の姿に似ている」

吾輩はビスケットをかじった。

「力を持つ者が偉い、数字が高い者が尊い。そんな単純な物差しでしか世界を測れない彼らは、精神の発達が止まっているのだよ。哀れむべきことだ」

「……厳しいな」

シルヴィアは苦笑した。

「だが、その力こそが、この世界を支えているのも事実だ。魔王軍の脅威に対抗するには、個人の武勇と魔力が不可欠なのだから」

「魔王、か」

またその名前だ。

この世界に来てから、耳にタコができるほど聞かされた単語である。諸悪の根源であり、人類の敵であり、倒すべきラスボス。

だが、吾輩にはどうも、その存在が胡散臭く思えてならない。

「君は、その魔王とやらを見たことがあるのかね」

「いや、ない。魔王は最果ての地に城を構え、そこから魔物たちを操っているという。姿を見た者は、生きては帰らぬそうだ」

「見たこともないものを、よくもまあ、そこまで恐れることができるものだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉を知らんか」

「……何が言いたい」

「人々の不安や恐怖が、魔王という巨大な虚像を作り上げているだけかもしれん、と言っているのだ。あるいは、国家というものが民衆を統率するために用意した、便利な『共通の敵』に過ぎんのかもしれんぞ」

シルヴィアは目を丸くした。

不敬とも取れる発言だ。騎士団の副団長に対して言うべきことではない。だが、彼女は怒る代わりに、興味深そうに身を乗り出してきた。

「貴殿の視点は、常に斜め上から降ってくるな。……面白い。確かに、魔王軍の侵攻が始まって以来、王国の求心力は高まった。皮肉なことにな」

彼女はカップを置き、ふと真剣な表情になった。

「実はな、ナツメ殿。貴殿に見せたいものがあるのだ」

「見せたいもの?」

「この屋敷の地下倉庫に、代々伝わる『開かずの箱』がある。我が家の先祖が、古代遺跡から持ち帰ったものらしいのだが、どんな魔法を使っても、どんな腕利きの鍵師でも、開けることができんのだ」

また、厄介ごとか。

吾輩は顔をしかめたが、好奇心という虫が、少しばかり疼いたのも事実である。

「……魔法で開かんものを、吾輩が開けられるとでも?」

「貴殿なら、あるいはと思うてな。貴殿の使う力は、既存の魔法体系とは異なることわりに基づいているようだから」

シルヴィアの案内で、吾輩は地下へと続く階段を下りた。

ひんやりとした空気が肌を刺す。カビと埃の匂いが、歴史の重みを感じさせる。

最奥の部屋、その中央にある石の台座の上に、それは置かれていた。

一辺が一尺ほどの、金属製の立方体である。

表面は錆びつき、蔦のような紋様が彫り込まれている。だが、よく見ると、それは装飾の蔦などではなく、無数の歯車や配線が複雑に絡み合った、機械的な意匠であることが見て取れた。

「これだ」

シルヴィアがランプを掲げる。

吾輩は杖をつき、その箱に近づいた。

「……ほう」

これは、魔道具ではない。

吾輩の「天賦の才」が、箱の内部構造を解析し、脳内に青写真を投影する。

そこにあるのは、魔力回路ではない。物理的な歯車と、発条ぜんまい、そして極めて精緻な電気回路の残骸である。

「機械仕掛けか」

「キカイ?」

シルヴィアが首を傾げた。

「魔法で動くのではなく、物理的な動力で動く装置のことだ。……この世界にも、かつてはこうした技術があったのか」

吾輩は箱の表面を撫でた。

冷たい金属の感触。その奥に、かつてこれを作った誰かの、執念のような情熱が眠っているのを感じる。

「開けてみるかね」

「できるのか」

「鍵穴はない。だが、論理的なパズルにはなっているようだ」

吾輩は、箱の表面にある、錆びついた三つのダイヤルを指差した。

それぞれのダイヤルには、異世界の数字が刻まれている。

「これを正しい組み合わせに合わせれば、ロックが外れる仕組みだ。……典型的な、金庫のダイヤル錠だな」

「その組み合わせが分からんのだ。歴代の当主たちが、あらゆる数字を試したが、徒労に終わった」

「でたらめに回しても開かんよ。ここには、製作者からのメッセージが隠されている」

吾輩は、箱の側面に彫られた、小さな文章を読み上げた。

『我、虚空に星を数え、その運行に理を見出す。最初の星は孤独にして唯一。次なる星は双子のごとく。三番目の星は……』

「それは、古代の詩歌だ。意味は誰にも分からん」

「詩ではない。数列だよ」

吾輩は即座に断じた。

「孤独にして唯一、すなわち『1』。双子は『2』。これは素数の配列を示唆しているのかもしれんし、あるいはフィボナッチ数列か。……いや、待てよ」

吾輩は、文章の続きを目で追った。

『……円環の理は、終わりのない旅路なり。汝、その値を問わば、りつを以て答えよ』

円環。終わりのない旅。率。

「……円周率か」

吾輩は失笑した。

なんと単純で、しかし美しい答えだろう。

円という完全な図形の中に潜む、決して割り切れることのない無限の数字。それを「終わりのない旅」と表現するとは、なかなかに風流な製作者である。

「円周率? なんだそれは」

「円の周りの長さを、直径で割った値だよ。……三・一四一五九二六五三五……」

吾輩は記憶にある数字を呟きながら、ダイヤルを回した。

カチ、カチ、カチ。

錆びついた金属が擦れる、乾いた音が地下室に響く。

魔法などいらない。

必要なのは、基礎的な数学の知識と、少しばかりの教養だけだ。

「……開くぞ」

最後のダイヤルを回した瞬間、ガコン、という重たい音がして、箱の蓋がわずかに持ち上がった。

「あ……」

シルヴィアが息を呑む。

数百年の間、何人もの魔導師が挑み、決して開くことのなかった「開かずの箱」が、たった数分の計算で開かれたのである。

吾輩は蓋を押し上げた。

中には、金銀財宝が入っているわけでも、強大な魔導書が入っているわけでもなかった。

そこにあったのは、一冊の古びた手帳と、ガラスで作られた奇妙な球体だけであった。

「……これは?」

シルヴィアが覗き込む。

吾輩は手帳を手に取った。革の表紙はボロボロで、今にも崩れ落ちそうだ。

ページを開く。

そこに書かれていた文字を見て、吾輩は呼吸を止めた。

それは、異世界の文字ではなかった。

『西暦二〇××年。私は、この世界に絶望した』

日本語である。

それも、吾輩が知る明治の言葉遣いではない。もっと現代的で、簡略化された、見慣れぬ横書きの日本語だ。

「……どうした、ナツメ殿。何が書かれている」

「……日記のようだ」

吾輩は努めて冷静に答えた。

この箱の持ち主は、吾輩と同じ「転生者」であったらしい。それも、吾輩よりも遥か未来の日本から来た人間だ。

手帳には、彼がこの異世界で体験した苦悩と、魔法文明への失望、そして科学技術を再現しようとして挫折した記録が綴られていた。

『魔法は便利だ。だが、それは人間を堕落させる。誰も計算をしなくなり、誰も物の理屈を考えなくなる。私は、この世界に「科学」の灯火を残そうとした。だが、彼らは私を異端と呼び、追放した』

『私は孤独だ。誰とも話が通じない。言葉は通じるのに、概念が通じないのだ』

その言葉は、吾輩の胸を鋭く抉った。

吾輩がこの数日間で感じていた孤独感、疎外感と、全く同じ叫びがそこにあったからだ。

「……哀れな男だ」

吾輩は呟いた。

「彼は、この世界を変えようとして、敗北したのだな」

「敗北?」

「そうだ。魔法という安易なシステムに浸りきったこの世界の住人には、彼の語る『科学』や『論理』は、難解で面倒な雑音にしか聞こえなかったのだろう」

吾輩は、箱の中に残されたガラスの球体を取り出した。

底に小さなスイッチがついている。

「これは、何だ」

「彼の遺した、最後の発明だろう」

吾輩はスイッチを押した。

ジーッ、という微かな駆動音がして、ガラス球の中に淡い光が灯った。

フィラメントの頼りない輝き。

それは、魔法の光のように部屋全体を明るく照らすほどの力はない。しかし、その光は揺らぐことなく、静かに、確かな熱を持ってそこに存在していた。

電球である。

エジソンが竹を焼いて作ったという、あの原始的な電球だ。

「……綺麗だな」

シルヴィアが呟いた。

「魔法の光とは違う。なんとなく、温かい光だ」

「ああ。これは、理屈と計算と、度重なる失敗の末に生まれた光だからな」

吾輩は、その頼りない光を見つめた。

この名もなき転生者は、この光に何を託したのだろうか。

絶望か。それとも、いつか誰かがこの理屈を理解してくれるという、微かな希望か。

「……ナツメ殿、貴殿は泣いているのか」

シルヴィアの声に、吾輩はハッとして顔を上げた。

「……馬鹿を言え。地下の埃が目に入っただけだ」

吾輩は乱暴に目元を拭った。

涙など流すものか。吾輩は、非人情を貫く「先生」である。過去の亡霊の感傷に付き合って、メソメソする柄ではない。

だが、この手帳と電球は、吾輩が預かることにしよう。

この世界で唯一、吾輩の孤独を理解してくれた、顔も知らぬ同胞への、せめてもの手向けとして。

「……シルヴィア君。この箱の中身、吾輩が貰い受けても構わんかね」

「構わんよ。私には扱えんし、貴殿が開けたのだから、貴殿のものだ」

「感謝する」

吾輩は手帳と電球を懐に収めた。

階段を上がり、再びサンルームに戻ると、日は既に西に傾きかけていた。

庭の木々が長い影を落としている。

「不思議なものだな」

シルヴィアが、冷めた紅茶を一口飲んで言った。

「その箱が開いたことで、何かが変わるわけではない。だが、数百年の謎が解けたというだけで、胸のつかえが取れたような気がする」

「謎というものは、解かれるためにあるのだよ」

吾輩は杖を手に取り、立ち上がった。

「さて、そろそろおいとましよう。長居をしては、君の『自分に戻る時間』を奪ってしまう」

「……また来てくれるか」

シルヴィアの言葉には、あからさまな期待が含まれていた。

吾輩は少し困惑した。他人に期待されるというのは、どうにも居心地が悪い。だが、彼女との会話が、この世界で唯一の、まともな知的交流であることも否定できない事実であった。

「……気が向いたらな。あの猫が、また散歩に行きたがったら、連れてこよう」

「ふふ、楽しみにしているよ」

シルヴィアは玄関まで見送ってくれた。

屋敷を出ると、空には一番星が光っていた。

『最初の星は孤独にして唯一』

手帳にあった言葉を思い出す。

あの星もまた、広大な宇宙の中で、独りぼっちで燃えているのだろうか。

「……やれやれ、センチメンタルは胃に悪い」

吾輩は独りごちて、杖をついた。

街の方からは、相変わらずの喧噪が風に乗って聞こえてくる。英雄だの大賢者だのと騒ぐ、あの軽薄な群衆が待っているのだ。

だが、懐の中にある電球の重みが、少しだけ吾輩の足取りを確かにしてくれているような気がした。

少なくとも、吾輩は一人ではない。

時空を超えて、同じ孤独を味わった先達がいたのだから。

「智に働けば角が立つが、時には角を隠して、理屈の灯火を胸に抱くのも悪くない」

吾輩は、少しだけ背筋を伸ばし、夜の帳が下り始めた街へと歩き出した。

その背中を、三毛猫の幻影が、優しく見守っているような気がしたのである。

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