第8話 虚名の泡と穴の信仰
昨日の喧騒が嘘のように引いてくれれば結構なのだが、世の中というものは、一度ついた火は容易には消えぬもので、むしろ油を注がれたように燃え広がるのが常である。
吾輩が目を覚ますと、階下から地響きのような唸り声が聞こえてきた。
ゴオオオ、という、遠くで潮が鳴るような音である。
三毛猫はとっくに寝床から抜け出し、梁の上から不安げに下を覗き込んでいる。吾輩も釣られて、節穴から階下を覗いてみた。
そこには、黒山の人だかりがあった。
普段は閑古鳥が鳴いている「三毛猫のあくび亭」が、芋を洗うような混雑ぶりである。冒険者、商人、町娘、果ては乞食のような身なりの者までが、すし詰めになって蠢いている。彼らの発する熱気と体臭が、腐った蒸気のように立ち昇り、天井裏まで押し寄せてくるのだから堪らない。
「おい、大賢者様を出せ!」
「俺はサインを貰いに来たんだ!」
「一目拝ませてくれれば、この壺を買ってもいい!」
口々に勝手なことを喚いている。どいつもこいつも、血走った目をして、興奮に酔いしれている。まるで、ええじゃないかの乱痴気騒ぎだ。
「やれやれ、これでは朝飯も食えん」
吾輩は嘆息した。
英雄になどなるものではない。英雄とは、大衆という名の無責任な怪物が作り出した、虚ろな偶像に過ぎない。彼らは吾輩個人を見ているのではなく、吾輩という鏡に映った、自分たちの欲望を見ているだけなのだ。
「爺さん、起きているか」
レイが顔を出した。梯子を登ってきたらしい。その顔は、いつもの眠そうなふやけたものではなく、商売人の卑しい活気に満ちている。
「下は大変な騒ぎだぞ。みんな、あんたを一目見ようと押しかけてきている」
「見世物小屋の熊じゃあるまいし、いちいち顔を出して愛想を振りまく義理はない」
「そう言うなよ。ほら、これを見ろ」
レイは革袋を振ってみせた。ジャラジャラと重たい音がする。
「入場料だけで、この稼ぎだ。爺さんがちょっと下に降りて、手を振ってやるだけで、さらに倍になる。酒も料理も飛ぶように売れているぞ」
「君、吾輩を客寄せパンダにするつもりか」
「パンダ? なんだそれは。珍獣か」
「似たようなものだ。……断る。吾輩は静寂を愛する男だ。こんな騒々しい場所には一秒たりとも留まりたくない」
「つれないなあ。借金はチャラにしてやった恩があるだろう」
「それは昨日の決闘で返したはずだ。これ以上、君の営利活動に加担するつもりはない」
吾輩はきっぱりと言い放ち、身支度を整えた。
といっても、古ぼけた着流しに、杖を持つだけである。
「どこへ行くんだ」
「散歩だ。人いきれで脳味噌が腐りそうだ」
「おいおい、正面から出たら揉みくちゃにされるぞ」
「裏口があるだろう」
吾輩は三毛猫を懐に入れると、レイの制止を振り切って、窓から屋根伝いに裏路地へと降りた。
泥棒猫のような真似だが、背に腹は代えられない。
裏路地へ降りると、表の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
だが、空気は淀んでいる。昨日の熱狂の残滓が、まだ街の其処此処にへばりついているようだ。
吾輩は杖をつきながら、あてもなく歩き出した。
行く当てなどない。ただ、あの視線の暴力から逃れたかっただけだ。
しばらく歩くと、あの中央広場に出た。
昨日の決闘が行われた闘技場の前である。
そこには、またしても人だかりができていた。
「なんだ、ここもか」
吾輩は顔をしかめたが、どうやら様子が違う。彼らは騒いでいるのではなく、何かを熱心に拝んでいるのである。
群衆の中心にあるのは、闘技場の外壁であった。
昨日の決闘の際、吾輩が「熱量収束」の理を用いて穿った、あの大穴である。
石壁は見事に溶け落ち、直径一間ほどの空洞ができている。その断面はガラス化し、朝日に照らされて、毒々しい虹色に輝いている。
人々は、その穴に向かって手を合わせ、賽銭を投げ、あるいは病気が治るようにと、溶けた石の破片を拾い集めている。
「ありがたや、ありがたや」
「これが大賢者様の一撃か。見ているだけで魔力が湧いてくるようだ」
「腰痛が治りました!」
馬鹿な。
ただの高熱による物理現象である。そこに神秘もへったくれもない。岩石が溶けて固まっただけのものを、薬石か何かと勘違いしてありがたがるとは、無知蒙昧も極まれりだ。
鰯の頭も信心からとは言うが、これでは鰯に失礼であろう。
「……嘆かわしい」
吾輩は思わず声に出してしまった。
その声を聞きつけて、一人の男が振り返った。
「おや、あなたは……」
男は、黒いローブを纏い、片眼鏡をかけていた。手には分厚い手帳を持っている。学者風の男だ。
「もしや、昨日の決闘で勝利された、ナツメ先生ではありませんか」
男の声は大きかった。
周囲の人々が一斉にこちらを向く。
「あ、大賢者様だ!」
「本物だ!」
「後光が差しているぞ!」
どっと人が押し寄せてくる。
吾輩は舌打ちをした。しまった。変装でもしておくべきであった。眼帯でもして、ミナの真似でもすればよかったかもしれん。
「先生! 感動しました! あの一撃、まさに神業!」
「あんな魔法、見たことがありません!」
「ぜひ、握手を!」
無数の手が伸びてくる。垢じみた手、脂ぎった手、指輪を嵌めた手。それらが一様に、吾輩という存在に触れることで、何か御利益を得ようと浅ましく蠢いている。
「離したまえ。吾輩は握手をするために生きているのではない」
吾輩は杖を振って、彼らを牽制した。
「それに、あれは魔法ではないと言ったはずだ。ただの物理現象だ」
「物理……?」
先ほどの片眼鏡の男が、興味深そうに前に進み出てきた。
「初めまして。私は王立魔法研究所の、ガリレオと申します」
ガリレオとはまた、大きく出た名前だ。地動説でも唱えるつもりか。
「あの現象について、詳しくお話を伺いたい。先生は、詠唱も魔法陣もなしに、あれだけの熱量を一点に集中させました。あれは、古代語魔法の応用でしょうか。それとも、精霊の力を借りたのでしょうか」
男の目は真剣であった。しかし、その真剣さは、真理を探究する者のそれではなく、珍しい昆虫の標本を欲しがる子供のそれに近い。
「どちらでもない。熱力学だ」
「ネツリキガク……? それは、どこの地方の呪文ですか」
男は手帳に猛烈な勢いで書き込みを始めた。
「呪文ではない。法則だ。エネルギーは不滅であり、移動と変換を繰り返すのみ。吾輩はただ、散らばっていた熱を集めて、圧縮したに過ぎない」
「圧縮……! なるほど、魔力を圧縮して、爆発的な威力を生み出すのですね。新しい理論だ!」
男は勝手に納得し、目を輝かせた。
「違いますか。……ならば、その『ネツリキガク』という流派に入門するには、どのような儀式が必要なのでしょう。やはり、滝に打たれたり、断食をしたりするのでしょうか」
話が通じない。
彼らの頭の中には、「魔法」という強固な枠組みがあり、すべての現象をその枠の中に押し込めようとする。枠からはみ出すものは、見なかったことにするか、あるいは「新しい魔法」として再定義するしかないのだ。
パラダイムシフトが起きていない。
天動説を信じている人間に、地球が回っていることを説明するような徒労感を覚える。
「儀式などない。必要なのは、観察と、計算と、論理的思考だ」
吾輩は、石壁の穴を指差した。
「見ろ。あの穴の縁が溶けているのは、熱が逃げ場を失って周囲に伝導したからだ。もし、君たちが魔法で同じことをしようとすれば、熱を『発生』させることに注力するだろう。だが、吾輩は熱を『移動』させた。その違いが分かるか」
ガリレオとかいう男は、首を傾げた。
「移動……? しかし、火を生み出すには、火の精霊に契約を求めねば……」
「だから、精霊などいない」
吾輩は苛立ちを隠さずに言った。
「火は、物質の酸化反応に伴う発熱と発光だ。そこに人格を持った精霊などが介在する余地はない。君たちが精霊と呼んでいるのは、単なる自然現象の擬人化に過ぎないのだよ」
周囲の群衆が、ざわめいた。
「精霊がいないだって?」
「大賢者様は、精霊信仰を否定されるのか?」
「いや、きっと高次元の存在すぎて、我々には見えないものが見えているんだ」
勝手な解釈が飛び交う。
結局、彼らは「分からないこと」を「有り難いこと」として処理し、思考を停止させているだけなのだ。
吾輩は嘆息した。
「……もういい。講釈は終わりだ」
これ以上、馬の耳に念仏を唱えても時間の無駄である。
「吾輩は帰る。道を空けたまえ」
吾輩が歩き出すと、人々はモーゼが海を割るように、さっと左右に分かれた。畏怖の念が、彼らを遠ざけたのである。それはそれで悪くないが、孤独感は増すばかりだ。
ガリレオが追いかけてきた。
「待ってください、先生! まだお話が! その『ネツリキガク』の奥義書はないのですか!」
「ない。教科書なら、元の世界に置いてきた」
「元の世界……? 天界のことでしょうか!」
「勝手に想像したまえ」
吾輩は男を振り切り、早足で路地裏へと逃げ込んだ。
人気のない薄暗い路地に入り、ようやく一息つく。
懐の中で、三毛猫が「ニャー」と鳴いた。
「そうだな。お前だけだ、吾輩の言葉をそのまま受け取ってくれるのは」
吾輩は猫の頭を撫でた。
この世界に来て、チートだの大賢者だのと持ち上げられているが、その実、吾輩の言葉は誰にも届いていない。言葉は通じているのに、意味が通じない。これは、言葉が通じない異国にいるよりも、遥かに深い断絶である。
孤独だ。
レベルが上がれば上がるほど、周囲との溝は深まっていく。
力を持てば持つほど、人間としての等身大の付き合いは失われていく。
こころの先生が、遺書の中で「私は寂しい人間です」と書いた、その心境が痛いほど分かる。
「……腹が減ったな」
朝から何も食っていない。
あくび亭に戻れば、またあの騒ぎに巻き込まれるだろう。どこか別の場所で、静かに飯を食いたいものだが。
その時、路地の奥から、妙な気配がした。
殺気ではない。もっと粘着質な、欲望の気配だ。
「へへへ、見つけたぜ。大賢者様」
下卑た声と共に、三人の男が現れた。
薄汚れた皮鎧を着て、腰には短剣を下げている。冒険者崩れのゴロツキといった風情だ。
「何か用かね」
「用ってほどじゃねえがな。あんた、すげえ金を持ってるんだろ? ギルドであの熊男を倒して、大穴の配当金をがっぽり稼いだとか」
「……あれは店主のレイが賭けたもので、吾輩の懐には一銭も入っておらんよ」
「嘘つけ。大賢者が貧乏なわけあるかよ」
男たちがジリジリと間合いを詰めてくる。
「それに、あんたのその杖。見たところ、安物に見せかけて、とんでもない魔道具なんだろ? それを寄越せば、痛い目には遭わせねえよ」
やれやれ。
表通りでは崇拝され、裏通りでは強盗に遭う。
どちらにしても、吾輩という人間を見てはいない。見ているのは、金か、力か、道具だけだ。
「君たち、学習能力というものがないのかね」
吾輩は杖を構えた。
「昨日のマクシミリアンがどうなったか、知らぬわけではあるまい」
「へっ、あんな貴族のお坊ちゃんと一緒にするなよ。俺たちは実戦で鍛えてるんだ」
男の一人が、短剣を抜いて飛びかかってきた。
速い。素人ではない。
だが、吾輩の目には、その軌道がスローモーションのように見えている。
身体能力の向上。これもまた、ステータスとかいう忌々しい数字のおかげである。
吾輩は、杖を軽く突き出した。
魔法など使わない。ただの棒術だ。
切っ先が届くより早く、杖の先が男の鳩尾に吸い込まれる。
ドスッ。
鈍い音がして、男が白目を剥いて崩れ落ちた。
「なっ……!?」
残りの二人が足を止める。
「魔法使いじゃねえのか!? なんだその動きは!」
「文武両道と言いたまえ」
吾輩は杖を引いた。
「暴力は嫌いだが、降りかかる火の粉は払わねばならん。……去れ。これ以上、吾輩の手を汚させるな」
男たちは顔を見合わせ、悲鳴を上げて逃げ出した。
「化け物だ! ジジイの皮を被った化け物だ!」
捨て台詞を残して、彼らは姿を消した。
化け物、か。
言い得て妙だ。
九九九九などという数字を背負った人間は、もはや人間ではないのかもしれない。
吾輩は、倒れた男を一瞥もしないで、その場を離れた。
強盗を撃退したというのに、胸のすくような痛快さは微塵もない。あるのは、ただ重苦しい疲労感だけである。
「……嫌な渡世だ」
吾輩は独りごちた。
路地を抜けると、運河沿いの道に出た。
水面が、毒々しい青空を映して揺れている。
そこへ、一艘の小舟が滑るように近づいてきた。
舟の上には、編み笠を被った人物が乗っている。
「乗らないか、先生」
聞き覚えのある声がした。
編み笠の下から現れたのは、シルヴィアの顔であった。今日は騎士の鎧ではなく、平民のような質素な服を着ている。
「シルヴィア君か。……どうしてここに」
「あくび亭が騒がしいのでな。貴殿のことだ、逃げ出して路頭に迷っているだろうと思って、迎えに来たのだ」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「私の屋敷なら、静かだぞ。昨日の本の続きも読める」
その誘いは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように魅力的であった。
「……渡りに船とは、このことか」
吾輩は苦笑して、小舟に乗り込んだ。
「感謝する。衆愚の相手には、少々骨が折れた」
「だろうな。有名税というやつだ」
シルヴィアは櫂を操り、舟を出した。
運河の水音だけが、心地よく響く。
「ナツメ殿。貴殿は強いな」
シルヴィアが、背中を向けたまま言った。
「マクシミリアンを倒し、暴漢を退け、それでもなお、その強さを誇ろうとしない」
「誇るようなものではないよ。借り物の力だ」
「それでも、その力をどう使うかは、貴殿の魂が決めることだ」
彼女は振り返り、真剣な眼差しを向けた。
「私は、貴殿のような人間が、この国に現れてくれたことを、嬉しく思うよ」
その言葉は、今日初めて、吾輩の心に届いた「言葉」であった。
数字でも、名声でもなく、吾輩という人間の在り方を肯定してくれる言葉。
「……買い被りだよ」
吾輩は照れ隠しに、懐の猫を撫でた。
「吾輩は、ただの偏屈な老人だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「ふふ、そういうことにしておこう」
舟は、水面を滑るように進んでいく。
喧騒の街が、遠ざかっていく。
空には、相変わらず書き割りのような雲が浮かんでいるが、今はそれも、少しだけ風流に見えなくもなかった。
「さて、今日は何の茶を御馳走してくれるのかな」
「とびきりの茶葉を用意してある。東洋の菓子もあるぞ」
「それは楽しみだ」
吾輩は杖を置き、足を伸ばした。
人の世は住みにくい。
だが、たまには、こうして誰かの舟に乗せてもらい、流れに身を任せるのも、悪くはない。
吾輩は目を細め、運河の風を感じながら、つかの間の平穏を噛み締めていたのである。




