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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第7話 衆愚の熱狂と冷ややかなる理

闘技場という場所は、いつの世も人間の品性を最も下劣な形で露出させる装置である。

ローマの昔から、民衆は血と暴力の匂いを嗅ぎつけると、理性をドブ川に捨てて集まってくる。彼らが求めているのは、正義の勝利でもなければ、技の競い合いでもない。ただ、他人が苦痛に歪む顔や、鮮血の飛沫といった、原始的な刺激だけである。

吾輩は控え室の冷たい石壁に背を預けながら、頭上の観客席から降ってくる地響きのような歓声を聴いていた。

「殺せ! 殺せ!」

「俺の金貨を倍にしてくれよ!」

野卑な怒号が混じり合い、ひとつの巨大な怪物の咆哮となって鼓膜を震わせる。まったく、嘆かわしい光景だ。文明が進歩したといっても、所詮は着ている物が皮衣から綿布に変わっただけで、中身は猿と大差がないらしい。

「落ち着いているな、ナツメ殿」

入り口に、シルヴィアが立っていた。昨日の今日で、心配して顔を出したらしい。今日は儀礼用の、白銀に輝く豪奢な鎧を身につけている。その美貌は、薄暗い控え室には不釣り合いなほど眩しい。

「落ち着いているわけではない。呆れているのだよ」

吾輩は答えた。

「呆れる?」

「そうだ。たかが個人の喧嘩を見るために、これだけの人間が銭を払って集まる。その野次馬根性が浅ましいと言っているのだ。彼らは吾輩が勝とうが負けようが、どちらでも構わんのだろう。ただ、退屈な日常を忘れるための見世物が欲しいだけだ」

シルヴィアは苦笑した。

「相変わらずの手厳しい批評だな。だが、その見世物の主役は貴殿だぞ」

「不本意なことだ。吾輩はピエロになるために異世界へ来たわけではない」

「しかし、勝たねばならん。負ければ国外追放だ」

「分かっている。……あの猫と離れ離れになるのは御免だからな」

吾輩は杖を握り直した。

この杖は、ただの樫の棒切れではない。昨日、レイが店の裏から拾ってきた、何かの農具の柄である。マクシミリアンとかいう伊達男が、宝石を散りばめた杖を持つのとは対照的に、吾輩の武器はどこまでも土臭い。だが、それでいい。弘法は筆を選ばず、文士はペンを選ばず。道具の煌びやかさで勝負をするのは、中身の空虚な成金のすることだ。

「時間だ。行こう」

シルヴィアに促され、吾輩は重い鉄扉をくぐった。

瞬間、暴力的な日差しが視界を白く染めた。

「おおおおお!」

割れんばかりの歓声が、四方八方から浴びせられる。

円形の闘技場は、すり鉢状の客席に囲まれていた。そこを埋め尽くす何千、何万という群衆。彼らの視線が、一斉に吾輩という一点に注がれる。それは好意的なものではない。値踏みし、嘲笑し、あるいは獲物を見るような、残酷な好奇心の集合体である。

向こう正面のゲートから、真紅のローブを翻して男が現れた。

マクシミリアンである。

彼は両手を高く掲げ、観客の歓声に応えている。その姿は、まさしく英雄気取りだ。周囲には取り巻きの魔導師たちが侍り、彼の威光を演出している。

「見よ! あれが我らが炎の帝王だ!」

「偽の賢者を焼き尽くせ!」

観客のボルテージが上がる。どうやら、吾輩は完全に悪役として配役されているらしい。

吾輩は中央まで歩み寄ると、マクシミリアンと対峙した。

「よく逃げずに来たな、薄汚い老人」

マクシミリアンは、ハンカチで鼻を覆う仕草をして見せた。相変わらずの芝居がかった動作だ。

「逃げる理由がない。それに、君のような男に背中を見せれば、後ろから火をつけられそうで安心できんのでね」

「減らず口を叩くのも今のうちだ。貴様のその痩せこけた体、灰になるまで焼き尽くしてくれる」

審判役の男が、二人の間に割って入った。

「これより、マクシミリアン伯爵対、ナツメ・ソウセキの決闘を行う! ルールは無制限! どちらかが降参するか、戦闘不能になるまで続けられる!」

無制限とは恐れ入る。殺し合いを公認するということか。野蛮ここに極まれりだ。

「始め!」

審判が手を振り下ろした瞬間、マクシミリアンの全身から紅蓮の炎が噴き出した。

ゴオオオッ!

熱波が押し寄せる。観客席から悲鳴と歓声が上がる。

「我が魔道の深淵を見るがいい! 『紅蓮の・炎よ・我が敵を・討ち滅ぼせ』!」

彼は大仰な身振りで呪文を詠唱し始めた。

空中に、幾何学模様の光の輪が浮かび上がる。魔法陣とかいうやつだ。その複雑怪奇な模様が回転し、膨大な魔力を収束していく。

吾輩は、その光景を冷ややかに眺めていた。

(なるほど)

昨日借りた『古代魔法文明の興亡』という本には、興味深いことが書かれていた。

かつて、魔法とは「言葉」であったという。

世界を構成する法則を、特定の言語によって定義し、書き換える技術。それが魔法の起源である。しかし、時代が下るにつれ、人々はその複雑な理論を理解することを放棄した。代わりに開発されたのが、この「魔法陣」というシステムである。

あらかじめ構築されたプログラムを図形化し、そこに魔力を流し込むだけで、誰でも簡単に現象を引き起こせるようにしたのだ。いわば、魔法のインスタント食品化である。

マクシミリアンのやっていることは、まさにそれだ。

彼は自分で料理を作っているつもりだろうが、実際には、ただ袋を開けてお湯を注いでいるに過ぎない。

「『焦熱地獄インフェルノ』!」

マクシミリアンが叫ぶと同時に、魔法陣から巨大な火柱が奔流となって襲いかかってきた。

闘技場の砂が一瞬でガラス化するほどの熱量である。まともに食らえば、吾輩の老体など跡形もなく蒸発するだろう。

観客が息を呑む気配がした。

だが、吾輩は動かなかった。

逃げる必要などない。

吾輩の目には、迫り来る炎そのものではなく、その炎を構成している「式」が見えている。

世界は物理法則でできている。魔法とて、その法則を一時的に歪める干渉に過ぎない。そして、システム化された魔法陣には、必ず「構造」がある。

吾輩は、杖の先をちょいと突き出した。

狙うのは、火柱の中心ではない。その根源にある、魔法陣の構成式の一点。

「構築が甘いな」

吾輩は呟き、その一点に、自身の「天賦の才」による干渉を叩き込んだ。

ことわりの書き換え。

マクシミリアンが展開した『熱量を前方へ放出する』という定義を、ほんの少しだけ、『熱量をその場に固定する』へと書き換える。

それだけで十分だ。

ボフンッ。

マクシミリアンが放った極大の火柱は、吾輩に届く寸前で、まるでマッチの火が風に吹かれたように、呆気なく掻き消えた。

「……は?」

マクシミリアンが口を半開きにして固まった。

観客席の歓声も、ピタリと止む。

何が起きたのか、誰にも理解できていないのだ。派手な爆発も、激しい衝突もない。ただ、あるはずの現象が、唐突に無かったことになったのである。

「な、何をした……? 貴様、何をした!」

マクシミリアンが狼狽して叫んだ。

「火遊びは終わりか」

吾輩は杖を下ろし、静かに言った。

「君の魔法は、随分と大掛かりな割には、中身がスカスカだ。まるで張りぼての芝居小屋だな。外見ばかりを飾り立てて、肝心の土台が腐っている」

「貴様ァ! 偶然だ、まぐれに決まっている!」

マクシミリアンは顔を真っ赤にして、再び杖を振り上げた。

「これならどうだ! 『連弾・火球ファイアボルト』!」

無数の火の玉が機関銃のように放たれる。

だが、結果は同じだ。

吾輩が杖を一振りするたびに、火の玉は空中で霧散し、あるいは勝手な方向へ飛んでいって地面を焦がす。

「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な!」

マクシミリアンは半狂乱になって杖を振り回す。

吾輩は、その様子を見ながら、憐れみすら感じていた。

彼は、自分が「強い」と信じて疑わなかったのだろう。システムという虎の威を借り、数値という名の権威に守られている間は、彼は無敵の帝王でいられた。だが、そのシステムそのものを否定された時、彼には何も残らない。

「君は、魔法を使っているのではない。魔法に使われているのだよ」

吾輩は一歩踏み出した。

「古代の賢人たちは、自らの頭で世界を解釈し、言葉を紡いで理を動かしたという。だが君はどうだ。先人が作った便利な道具に頼り切り、その理屈すら知ろうとせず、ただボタンを押して喜んでいるだけではないか」

「うるさい、うるさい! 黙れ老人!」

「思考を止めた人間に、賢者を名乗る資格はない」

吾輩はさらに一歩近づく。

マクシミリアンは後ずさりをした。恐怖の表情だ。自分の最強の武器が通じない相手に対し、彼はもはや、ただの怯える子供でしかない。

「く、来るな! 化け物め!」

「化け物とは失敬な。吾輩はただ、君が忘れている『理屈』を教えてやっているだけだ」

吾輩は杖を水平に構えた。

そろそろ、幕引きといこう。

いつまでも猿芝居に付き合っているほど、吾輩は暇ではない。

「……さて、君が先ほど見せた火柱。あれの正しい使い方は、こうだ」

吾輩は、マクシミリアンが展開しようとしていた魔法陣の残滓、その空中に漂う魔力の残骸を集めた。

詠唱などいらない。

必要なのは、明確なイメージと、厳密な物理法則への理解。

熱力学第一法則。エネルギー保存の法則。

散らばったエネルギーを、一点に収束させ、断熱圧縮する。

『天賦の才《熱量収束・極小》』

吾輩の杖の先に、米粒ほどの小さな光が生まれた。

それは、マクシミリアンの出した火柱のような、派手な大きさはない。しかし、その輝きは太陽のように鋭く、凝縮されている。

「ひっ……」

マクシミリアンが腰を抜かしてへたり込んだ。

本能で悟ったのだろう。その小さな光が孕んでいる、破壊的なエネルギーの密度を。

「安心したまえ。君のように野放図にばら撒いたりはせん」

吾輩は杖を振った。

光の粒が、マクシミリアンの横をすり抜け、彼のはるか後方、闘技場の石壁に着弾した。

カッ!

音よりも先に、閃光が走る。

直後、轟音と共に、堅牢な石壁の一部が綺麗に消滅していた。爆発ではない。高熱による瞬時の昇華である。ぽっかりと開いた穴の縁が、ドロドロに溶岩化して垂れている。

静寂。

闘技場全体が、水を打ったように静まり返っていた。

誰も声を発しない。いや、発せないのだ。あまりにも圧倒的な、理外の現象を目の当たりにして、彼らの貧弱な理解力が追いついていないのである。

吾輩は杖を懐に収め、へたり込んでいるマクシミリアンを見下ろした。

「……参ったか」

マクシミリアンは、青ざめた顔でガタガタと震え、小さく頷いた。その股間が濡れているのが見て取れる。失禁したらしい。炎の帝王が聞いて呆れる。

「勝負あり! 勝者、ナツメ・ソウセキ!」

審判が震える声で宣言した。

その瞬間、堰を切ったように歓声が爆発した。

「すげええええ!」

「なんだあいつは! 一撃だぞ!」

「新しい賢者様だ!」

掌を返したような称賛の嵐。先ほどまで「殺せ」と叫んでいた口で、今度は「万歳」と叫んでいる。

吾輩は、その熱狂の渦の中心で、冷めきった溜息をついた。

(これだから、衆愚は救い難い)

彼らは結局、強い方になびくだけだ。そこに思想も哲学もない。ただ、強い刺激を与えてくれる者に拍手を送る、自動人形のようなものだ。

吾輩は観客席に向かって手を振ることもなく、マクシミリアンに手を貸すこともなく、くるりと背を向けた。

出口の陰で、シルヴィアが呆気にとられた顔で立っていた。

「……ナツメ殿。貴殿、一体何者だ」

「ただの書生だよ。少しばかり、物理を知っているだけのな」

吾輩は短く答え、彼女の横を通り過ぎた。

「帰ろう。腹が減った」

「……ああ、そうだな」

シルヴィアは苦笑し、吾輩の後を追ってきた。

闘技場を出ると、外の空気は驚くほど静かで、爽やかであった。

中の熱気と狂騒が、まるで嘘のようである。

「やれやれ、とんだ茶番であった」

吾輩は独りごちた。

だが、これで一応の決着はついた。あの赤シャツも、当分は大人しくしているだろう。国外追放も免れたし、何より、あの三毛猫との生活を守ることができた。

それだけで、まあ、良しとすべきか。

酒場『三毛猫のあくび亭』に戻ると、店主のレイが満面の笑みで飛び出してきた。

「爺さん! やったな! 大穴だ! 大儲けだぞ!」

レイは吾輩の手を握りしめ、ブンブンと振った。

「俺の言った通りだろ! 爺さんならやると思ってたぜ!」

「現金な男だ。……それで、私の取り分はあるのかね」

「おうよ! 借金はこれでチャラだ。さらに当面の宿代と飯代も保証してやる!」

「それは重畳」

吾輩は、やれやれと肩をすくめた。

店の奥では、眼帯少女ミナが、何やら興奮して飛び跳ねている。

「師匠! すごいです! あの魔法、私にも教えてください! あれがあれば黒龍だってイチコロです!」

「……またそれか」

吾輩は苦笑した。

どうやら、平穏な日々というのは、まだまだ遠い場所にあるらしい。

だが、足元にすり寄ってきた三毛猫の温かい毛並みを撫でながら、吾輩は、この騒がしくも滑稽な異世界での生活も、そう悪くはないかもしれないと、少しだけ思い始めていたのである。

人の世は住みにくい。異世界とて同じこと。

ならばせめて、気に入った場所で、気に入った猫と、少しばかりのへそ曲がりを貫いて生きるのも、また一興であろう。

吾輩は猫を抱き上げ、夕暮れの空を見上げた。

毒々しい色は相変わらずだが、そこに浮かぶ雲は、心なしか昨日よりも悠然と流れているように見えた。

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