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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第6話 古書の薫りと貴族の遊戯

案内されたシルヴィアの屋敷は、城壁に近い高台の一等地に鎮座していた。

下町の喧噪が嘘のように遠のき、整然とした石畳の道が続いている。左右には刈り込まれた植え込みと、白亜の壁が並ぶ。美しいと言えば美しいが、どこかよそよそしい。まるで日本橋の博覧会に並べられた模型の家屋を見るようで、そこに人の生活の温もりというものが感じられない。

「ここだ。殺風景なところだが、気兼ねは無用だぞ」

シルヴィアは重厚な鉄扉を開け、吾輩を招き入れた。

彼女は既に甲冑を脱ぎ、貴族の令嬢らしい、しかし装飾の少ない簡素なドレスに着替えていた。戦場での凛々しさとはまた違い、深窓の佳人といった風情が漂っている。だが、その瞳にある知的な光だけは、剣を帯びていた時と変わらない。

「広いな。吾輩のような貧乏性には、どうも落ち着かん」

「父が残した屋敷でな。私一人には広すぎる。使用人も最小限しか置いていない」

通された広間には、豪奢な絨毯が敷き詰められ、壁には歴代の当主らしき肖像画が飾られている。どいつもこいつも、偉そうに髭を蓄え、胸を反らせている。自尊心の塊のような顔だ。

吾輩はそれらを一瞥しただけで、興味を失った。権威を誇示する肖像画ほど、退屈な芸術はない。

「図書室はこちらだ」

シルヴィアが先導する。

長い廊下を渡り、奥まった部屋の扉が開かれた瞬間、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。

古紙とインク、そして微かな埃の匂い。

それは、神田の古書店街に漂うあの芳香であり、吾輩の魂を鎮める鎮静剤のようなものであった。

「……ほう」

吾輩は思わず感嘆の声を漏らした。

高い天井まで届く書架が、部屋の四方を埋め尽くしている。そこには、背表紙の剥げかけた古い書物が、ぎっしりと並べられているではないか。先日訪れた魔道書屋の、あの成金趣味の装丁とは違う。長い年月を生き抜き、数多の手垢にまみれ、それでもなお知の灯火を守り続けてきた、本物の書物の群れである。

「どうだ、ナツメ殿。お気に召したか」

「悪くない。いや、この世界に来て初めて、深呼吸ができる場所を見つけた気分だ」

吾輩は書架に歩み寄った。

一冊を手に取る。ずしりとした重みがある。この重みこそが、著者の魂の重みであり、歴史の重みなのだ。額に当てて知識を吸い取るなどという、味気ない魔道具とはわけが違う。

パラパラとページをめくる。

異世界の文字である。ミミズがのたくったような記号の列だ。だが、吾輩の脳髄に巣食う「天賦の才」は、それを瞬時に日本語へと翻訳し、意味を再構築していく。

『西方戦役史論』『竜種生態学』『古代魔法文明の興亡』

「……読めるのか」

シルヴィアが、驚いたように吾輩の横顔を覗き込んだ。

「吾輩は、これでも学者だからな」

「いや、文字が読めるのは当然としても、それは古代語で書かれた書物だぞ。今の魔導師たちは、スキルによる翻訳なしには解読できん代物だ」

「古代語?」

「そうだ。魔法体系が確立される以前、人々がまだ自らの頭で理屈をこねくり回していた時代の言葉だ。効率が悪いとされて、今では廃れてしまったがな」

なるほど、合点がいった。

この世界の住人が、なぜこうも思索を軽視し、安直なスキルに頼るのか。それは、言語そのものが断絶しているからなのだ。先人の知恵を受け継ぐ言葉を捨て、システムという名の便利な共通語に乗り換えた結果、彼らは過去との対話を失ってしまったのである。

文明の退化だ。

吾輩は嘆息した。

「嘆かわしいことだ。過去を捨てた文明は、根無し草と同じだよ。どんなに花を咲かせても、風が吹けばすぐに枯れる」

「……貴殿の言う通りだ」

シルヴィアは寂しげに微笑んだ。

「だから私は、この蔵書を守っている。誰も読まなくなった、忘れ去られた歴史をな。マクシミリアンのような連中は、これを『燃えないゴミ』と呼ぶが」

「あの赤シャツめ、言うに事欠いてゴミとは何だ」

吾輩は憤慨した。知性を冒涜するにも程がある。

「ナツメ殿、貴殿は不思議な人だ。魔法を使わずとも魔法ごとき現象を引き起こし、廃れた古代語を母国語のように読みこなす。……一体、どこから来たのだ」

彼女の碧眼が、真実を探るように吾輩を射抜く。

吾輩は本を閉じ、書架に戻した。

「東洋の、小さな島国だよ。そこでは、魔法の代わりに蒸気機関が走り、ステータスの代わりに身分と家柄が幅を利かせている。住みにくいことこの上ない場所だが、少なくとも、本を読む愉しみだけは残されていた」

「蒸気……機関? よく分からんが、興味深い国だ」

シルヴィアは窓際の長椅子を勧め、自らも向かい側に腰を下ろした。

メイドが茶を運んでくる。湯気の立つ紅茶の香りが、室内の古書の匂いと混ざり合い、一種独特の安らぎを醸し出している。

吾輩は茶を一口すすった。悪くない。

「ところで、シルヴィア君」

「なんだ」

「君は、騎士団の副団長だと言ったな。あのような、数字と暴力が支配する組織の中で、君のような知的な人間がやっていけるのかね」

「……厳しいな」

彼女は苦笑し、カップをソーサーに置いた。

「やっていけるかどうかではない。やらねばならんのだ。私の家は代々、騎士の家系でな。剣の腕と魔力の数値だけが、個人の価値を決める。私は幼い頃から、その数字を上げるためだけに育てられた」

「まるでブロイラーだな」

「ブロイラー? ……まあいい。とにかく、私はその『期待』に応え、若くして副団長の座に就いた。だが、どうにも虚しいのだよ」

彼女は窓の外、広大な庭園へと視線を投げた。

「レベルを上げ、スキルを覚え、魔物を倒す。その繰り返しだ。そこに何の意味がある? 私たちはただ、システムによって動かされる駒に過ぎないのではないか。……時々、そう思えてならんのだ」

彼女の独白は、吾輩が抱いていた違和感と、見事に共鳴していた。

こころの先生が、Kの自殺を通して明治という時代の終焉を感じ取ったように、このシルヴィアという女性もまた、異世界の繁栄の陰にある、精神の空洞化を感じ取っているらしい。

「君は、まだ救いがあるよ」

吾輩は言った。

「その虚しさに気づいているだけ、マクシミリアンごとき手合いよりはずっと人間らしい。悩むことだ。大いに悩むがいい。悩みこそが、人間を人間たらしめる唯一の特権なのだから」

「ふふ、貴殿に励まされるとはな」

シルヴィアは柔らかく笑った。

その時である。

廊下を急ぐ足音が響き、乱暴に扉が叩かれた。

「副団長! シルヴィア副団長! 大変です!」

入ってきたのは、若い騎士であった。息を切らせ、顔面蒼白である。

「騒々しいぞ。何事だ」

シルヴィアが表情を引き締め、立ち上がった。一瞬にして、深窓の佳人から、冷徹な指揮官の顔へと戻る。

「魔導師ギルドより、正式な抗議文が届きました! および、決闘の申し込みです!」

「決闘だと?」

「はい! 相手はマクシミリアン伯爵。指名されたのは……そこにいる、ナツメ・ソウセキ殿です!」

やはり、来たか。

吾輩はカップに残った紅茶を飲み干し、ゆっくりとため息をついた。

あの赤シャツ、ただで済むとは思っていなかったが、まさか決闘などという野蛮な手段に訴えてくるとは。しかも、騎士団を通して正式に申し込むとは、よほど自尊心を傷つけられたと見える。

「……断るわけにはいかんのかね」

吾輩が尋ねると、若い騎士は首を横に振った。

「この国では、貴族からの正式な決闘状を拒否した場合、その者は名誉を失い、市民権を剥奪され、最悪の場合は国外追放となります」

「なんと理不尽な法律だ。明治の世でも、もう少しマシな裁判をするぞ」

「マクシミリアンの奴、貴殿が逃げられぬように外堀を埋めてきたか」

シルヴィアが忌々しげに言った。

「奴は、自分の魔力に絶対の自信を持っている。公衆の面前で貴殿を叩き潰し、失墜した権威を取り戻すつもりだろう。……どうする、ナツメ殿」

「どうするもこうもない」

吾輩は立ち上がり、杖を手に取った。

「売られた喧嘩を買う趣味はないが、降りかかる火の粉は払わねばならん。それに、国外追放になっては、あの三毛猫に会えなくなる」

それが一番の理由だ。

せっかく見つけた安住の地(と言っても、薄汚い酒場だが)を、あんな派手な男のつまらない虚栄心のために奪われてたまるものか。

「受けて立とう。場所と時間は?」

「明日の正午、中央広場の闘技場にて。……相手は本気ですよ、ナツメ殿。奴は『炎の帝王』の異名を持つ、この国でも五指に入る魔導師です。くれぐれも油断なさらぬよう」

「炎の帝王か。キャンプファイヤーの親玉にはお似合いのあだ名だ」

吾輩は鼻で笑った。

帰り際、シルヴィアが玄関まで見送ってくれた。

「すまない、ナツメ殿。私の監督不行き届きで、貴殿を巻き込んでしまった」

「気にするな。遅かれ早かれ、ああいう手合いとは衝突する運命だったのだろう。……それに」

吾輩は、借りてきた一冊の本を掲げた。

『古代魔法文明の興亡』

「良い本を貸してもらった礼だ。少しばかり、彼に教育的指導をしてやるとしよう」

「……死ぬなよ」

「吾輩は猫ではないからな。そう簡単にはくたばらんよ」

軽口を残して、吾輩は屋敷を後にした。

外に出ると、夕暮れの赤紫色の空が広がっていた。毒々しいまでの色彩が、明日の波乱を予感させるように渦巻いている。

町へ下る坂道を歩きながら、吾輩は考える。

明日の決闘。それは単なる私闘ではない。

数字とスキルに溺れ、精神を置き去りにしたこの異世界の「慢心」に対する、明治の文士からの、ささやかな抵抗戦となるであろう。

「智に働けば角が立つ。……だが、時には角を立てて、相手の脇腹を突いてやるのも、一興かもしれん」

吾輩は杖で石畳をカツンと鳴らした。

その音は、意外なほど高く、澄んだ響きとなって、黄昏の街に吸い込まれていった。

酒場に戻ると、店主のレイと、眼帯少女ミナが、何やら深刻な顔で話し込んでいた。

「あ、爺さん! 大変ですよ!」

ミナが駆け寄ってくる。

「知っている。決闘だろう」

「そうです! 街中に張り紙が出てますよ! 『偽の大賢者を処刑する公開ショー』だって!」

「ショーだと? 趣味の悪い」

「賭けのオッズも出てます。爺さんの勝ちは百倍ですって!」

「百倍……。吾輩も随分と舐められたものだ」

レイがカウンターから顔を出した。

「おい爺さん、逃げるなら今のうちだぞ。相手は腐っても伯爵だ。勝っても負けても、ろくなことにならねえ」

「逃げんよ」

吾輩は椅子に腰を下ろし、三毛猫を膝に乗せた。猫はゴロゴロと喉を鳴らす。

「逃げれば、この猫が路頭に迷う。それに、吾輩は借金も返さねばならんのでな」

レイは少し驚いた顔をして、それからニヤリと笑った。

「へえ、言うじゃねえか。……じゃあ、俺は爺さんに賭けるとするか。百倍なら、借金もチャラにできるしな」

「現金な男だ」

吾輩は苦笑した。

こうして、決戦の前夜は更けていく。

吾輩は膝の上の猫を撫でながら、借りてきた本を開いた。明日の対策を練るためではない。ただ、知的な興奮に浸り、己の精神を研ぎ澄ますために。

窓の外では、二つの月が、まるで観客の目のように、じっとこちらを見下ろしていた。

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