第5話 活字の霊魂と技能の即席
下水道での一幕以来、吾輩に対するミナの視線は、どうにも熱を帯びて鬱陶しい。
朝、煤けた天井の下で目を覚まし、顔を洗おうと井戸端へ出れば、そこには既に片目に眼帯をした少女が待ち構えているのである。そして、手桶を差し出しながら、期待に満ちた一つ目でこちらを見上げてくる。
「師匠、今日こそは奥義を!」
「師匠ではない。吾輩はただの書生だと言っているだろう」
「またまたご謙遜を。あの水蒸気爆発の理屈、昨晩ずっと考えたんですけど、やっぱり私には分かりません。どうやったら魔力もなしに、あんな熱量を発生させられるんですか?」
少女はしつこい。まとわりつく蚋のようだ。
吾輩は冷たい井戸水で顔を洗い、手拭いで乱暴に拭った。
「君、理屈を知りたければ、魔法の杖を振る前に、物理の教科書を読みたまえ。ボイルだのシャルルだのという先人が、君の生まれる何百年も前に法則を見つけている」
「ボイル? シャルル? どこの大賢者様ですか、それは」
ミナはきょとんとして首をかしげた。
やれやれ、これだから異世界という所は困る。魔法などという便利な近道があるせいで、基礎的な学問がお留守になっているのだ。彼らにとって世界の真理とは、探求するものではなく、神か誰かから「与えられる」ものらしい。スキルとやらを覚えれば、修行もせずに達人になれる。本を読めば、内容を理解せずとも知識が頭に入る。
そのようなインスタントな万能感に浸っていては、精神の発達など望むべくもない。精神というものは、悩み、苦しみ、行き詰まることによってのみ、少しずつ肥大していくものなのだ。
「レイは起きているか」
吾輩は話題を変えた。
「リーダーなら、まだ夢の中ですよ。昨日の報酬で安い酒を買い込んで、夜中まで飲んでましたから」
「……あの男も、どうしようもない高等遊民だな」
吾輩は嘆息し、朝の光が差し込む酒場へと戻った。
カウンターの上には、昨夜の残骸である酒瓶が転がり、その向こうでレイが突っ伏している。三毛猫がその背中の上で、気持ちよさそうに毛づくろいをしていた。
この「夜明け前の行灯」というクランは、実に怠惰な空気に満ちている。誰も彼もが、社会の歯車として回ることを拒否し、錆びついたまま放置されているようだ。吾輩にとっては居心地が悪くないと言えなくもないが、借金のことを考えると、そう呑気にもしていられない。
ギルドへの弁償金、金貨百枚。
昨日のスライム退治で得た報酬は、金貨三枚であった。レイが上前をはねた残りがそれだ。このペースでは、完済するまでに何年かかるか知れたものではない。
「おい、起きんか」
吾輩はレイの肩を揺すった。
「ん……なんだ、爺さんか……。朝飯なら勝手に……」
「飯ではない。金の話だ。昨日の魔石、あれでいくらになった」
「ああ……全部で金貨五枚分くらいか。ギルドへの分割払いに一枚、俺の酒代に一枚、店の維持費に一枚、残りが爺さんとミナの取り分だ」
「計算が合わんぞ。どうして君の酒代が経費に含まれている」
「必要経費だ。俺が酒を飲まねば、このクランは回らん」
レイは悪びれもせず言い放ち、あくびをした。
「それにしても、爺さんの魔法は燃費がいいな。魔石の質も上々だ。この調子なら、案外早く返せるかもしれん」
「吾輩は、溝浚いを一生の仕事にするつもりはない」
吾輩はきっぱりと言った。
「今日は別行動をとらせてもらう。この街の様子を見ておきたい」
「ああ、好きにしろ。ただし、夕飯までには戻れよ。ミナが寂しがるからな」
「誰が寂しがるんですか!」
厨房からミナの怒鳴り声が飛んできた。
吾輩は苦笑し、杖を手に取って店を出た。
表通りは、相変わらずの喧騒であった。
馬車の車輪が石畳を軋ませる音、商人の売り声、鎧の触れ合う金属音。それらが渾然となって、暴力的な活気を作り出している。
吾輩が求めているのは、静寂と、知的な刺激である。
この世界に来て数日、吾輩は活字に飢えていた。元の世界では、書斎の壁を埋め尽くす洋書や漢籍に囲まれて暮らしていたのだ。それが唐突に断たれ、見るもの聞くものすべてが、品性の欠片もない極彩色のファンタジーである。これでは脳髄が干からびてしまう。
「本屋はないか」
吾輩は通りすがりの男に尋ねた。
「本屋? ああ、魔道書屋ならあそこの角を曲がったところにあるぜ」
魔道書、か。まあ、活字が並んでいれば何でもいい。
教えられた場所へ行ってみると、そこは古びた石造りの店舗であった。ショーウィンドウには、革表紙の分厚い本が飾られている。
『初級火炎魔法』『剣術の心得・上巻』『ポーション調合入門』
題名は実用一点張りで、文学的な薫りなど微塵もない。それでも、久しぶりに見る「書物」の形に、吾輩の心は少し躍った。
カラン、とベルを鳴らして中に入る。
店内は薄暗く、独特のインクと黴の匂いがした。壁一面の棚に、ぎっしりと本が詰まっている。
店主らしき老人が、カウンターの奥で眼鏡を拭いていた。
「いらっしゃい。何をお探しかな」
「文学書はないか。詩集とか、小説とか、あるいは哲学書でもいい」
吾輩が言うと、店主は怪訝な顔をした。
「文学? そんな役に立たんものを読んでどうする」
「役に立たんから読むのだ。実益ばかりを求めていては、心は貧しくなる一方だろう」
「変わった客だねえ。うちはスキルブック専門店だよ。読んで覚える技能書しかない」
店主は棚を指差した。
「ほら、あそこにあるのが『筋力増強』の指南書。こっちが『鑑定眼』の解説書。どれも読めばすぐにステータスに反映される優れものだ」
吾輩は棚の一冊を手に取った。『詠唱短縮の極意』という本だ。
ページをめくってみる。
驚いたことに、中身は白紙であった。いや、よく見ると、文字のようなものが淡く発光しながら浮かび上がっては、消えている。
「これはどういうことだ。文字が定着しておらん」
「ああ、それは『魔本』だからね。額に当てて念じれば、知識が直接脳に流れ込んでくる仕組みさ。読む手間が省けるだろう?」
吾輩は愕然として、その本を取り落としそうになった。
読む手間を省く?
読書という行為は、一字一句を目で追い、脳内で咀嚼し、著者の思考と己の思考を擦り合わせる、その遅々とした過程にこそ意味があるのではないか。それを、額に当てて念じるだけで済ませるとは。
それでは、まるで家畜に飼料を流し込むようなものではないか。
「……嘆かわしい」
吾輩は呻いた。
「知識を何だと思っている。これでは、人間が書物を読むのではなく、書物が人間を犯しているだけではないか」
「あんた、さっきから何をぶつぶつ言ってるんだ。買わないなら帰ってくれ」
店主が不機嫌そうに手を振った。
その時、背後で扉が開く音がした。
「邪魔をするぞ」
傲慢な響きを持った声である。
振り返ると、一人の男が入ってきた。
真紅のコートを羽織り、首には金鎖をぶら下げている。顔立ちは整っているが、その表情には、他者を見下すことに慣れきった者特有の、薄ら寒い優越感が張り付いている。歳は三十前後か。坊っちゃんに出てくる、あの「赤シャツ」を、さらに西洋風に気取らせたような男だ。
男は吾輩を一瞥もしなかった。まるで道端の石ころか何かのように、吾輩の存在を無視してカウンターへ進む。
「店主、『爆裂魔法・上級編』は入荷したか」
「へい、へい! お待ちしておりました、マクシミリアン様!」
店主の声色が、瞬時に卑屈なものへと変わった。先ほど吾輩に向けた無愛想さはどこへやら、揉み手をして愛想笑いを浮かべている。
「取っておきましたよ。王都から取り寄せた最高級品です」
店主はカウンターの下から、豪奢な装丁の本を取り出した。表紙にはルビーのような宝石が埋め込まれている。
「ご苦労。これで私の魔力も、また一つ階梯を登るというわけだ」
マクシミリアンと呼ばれた男は、満足げに口元を歪めた。
「金貨五十枚だ。釣りはいらん」
男は革袋をカウンターに投げ出した。ジャラリと重たい音がする。
「ありがとうございます! さすがは『紅蓮の貴公子』、太っ腹でいらっしゃる!」
なんと浅ましい光景だろう。
知識を金で買い、それを努力なしに脳へ注入し、ただ数字上の強さを誇る。そこには、真の知性も、人格の陶冶も存在しない。あるのは、ただ肥大した自尊心と、空虚な力への渇望だけである。
吾輩は胸が悪くなった。こんな店には長居無用だ。
出口へ向かおうとした時、マクシミリアンが不意に足を止め、吾輩を見た。
「おい、そこの薄汚い老人」
呼び止められた。
無視して通り過ぎようかとも思ったが、それではこちらの品位に関わる。吾輩は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「何か用かね」
「貴様、私を見て挨拶もしないとは、どこの田舎者だ? 私がこの街の魔導師ギルドを統べる、マクシミリアン伯爵であると知らぬわけではあるまい」
やはり赤シャツだ。権威を笠に着て、他人に礼儀を強要する。
「知らんね。吾輩は田舎者どころか、異界の者だ。君のごときハイカラな紳士には縁がない」
「異界の者? ……ふん、なるほど。召喚されたばかりの『迷い人』か。どうりで礼儀を知らんわけだ」
男はハンカチを取り出し、鼻を覆った。まるで汚らわしいものを見る目つきだ。
「まあいい。無知は罪ではないが、無礼は罰に値する。……貴様、その杖、安物だな」
男は、吾輩が持っていた樫の杖を指差した。
「賢者を名乗るなら、もう少しマシな道具を持て。そんな薪のような棒切れで、まともな魔法が使えるとは思えん」
「弘法は筆を選ばず、という言葉がある。道具に頼らねば何もできんのは、未熟者の証拠だよ」
吾輩がさらりと言うと、店内の空気が凍りついた。
店主が真っ青になって震えている。
マクシミリアンの顔から、優越感の仮面が剥がれ落ち、代わりにどす黒い怒りが浮かび上がった。
「……貴様、誰に向かって口を利いている」
「マクシミリアンとか言ったかね。名前負けしておるようだが」
「この下郎が……!」
男が右手を上げた。その指には、いくつもの指輪が嵌められている。魔力を増幅させるための道具であろう。
「私の前で減らず口を叩いたことを後悔させてやる。『火球』!」
男が指を弾くと、そこからバスケットボールほどの大きさの火の玉が生まれ、吾輩に向かって飛んできた。
狭い店内である。避ける場所はない。
店主が悲鳴を上げてカウンターの下に潜り込む。
吾輩は動かなかった。
まただ。また暴力だ。
議論で勝てぬとなれば、すぐに暴力に訴える。この世界の住人は、どいつもこいつも精神年齢が幼児並みである。
吾輩はため息をつき、手にした「薪のような棒切れ」を軽く振った。
魔法など使わない。ただ、理を少しずらすだけだ。
飛来する火の玉。その構成要素である熱エネルギーのベクトルを、ほんの少し、上空へと書き換える。
『天賦の才《ベクトル操作》』
火の玉は、吾輩の鼻先数寸のところで直角に軌道を変え、天井へと吸い込まれていった。
ドォン!
天井板が焼け焦げ、穴が開く。パラパラと煤が落ちてくる。
「……なっ!?」
マクシミリアンは目を見開いた。
「貴様、何をした? 詠唱もなしに、魔法を弾いたのか?」
「魔法ではない。ただの物理現象だ」
吾輩は杖を下ろし、冷やかに言った。
「君の火遊びは、キャンプファイヤーには丁度いいかもしれんが、室内でやるにはいささかマナー違反だぞ。火事になったらどうする」
「ぐっ……おのれ、偶然か! ならばこれならどうだ!」
男は更に魔力を練り上げようとした。両手に紅蓮の炎が渦巻く。本気で店を吹き飛ばすつもりらしい。
その時、店の入り口から凛とした声が響いた。
「そこまでだ、マクシミリアン」
男の動きが止まった。
入り口に立っていたのは、あの男装の麗人、シルヴィアであった。
銀色の甲冑を纏い、腰には細剣を佩いている。その背後には、数名の騎士が控えている。どうやら巡回中であったらしい。
「シルヴィア……副団長か。何の用だ」
マクシミリアンは炎を消し、憮然として言った。
「街中での魔法行使は、緊急時を除いて禁止されているはずだ。魔導師ギルドの長ともあろう者が、規則を忘れたか」
シルヴィアは店に入り、吾輩とマクシミリアンの間に割って入った。
「こやつが私を侮辱したのだ! 貴族への不敬罪で処刑してやる!」
「侮辱されたくらいで店を焼こうとするとは、随分と沸点の低い貴族もいたものだな」
シルヴィアは冷ややかに言い放つと、チラリと吾輩を見た。
「また貴殿か、ナツメ殿。行く先々で揉め事を起こす才能があるようだな」
「人聞きが悪い。吾輩はただ、本を探していただけだ。そこへこの赤……いや、派手な男が絡んできたのだよ」
「……事情はおおよそ察しがつく」
シルヴィアは嘆息し、マクシミリアンに向き直った。
「この老人は、先日私がギルドで身元を保証した人物だ。不敬罪云々と言うなら、私が相手になろう」
「チッ……騎士団がバックについているとでも言うのか」
マクシミリアンは舌打ちをし、憎々しげに吾輩を睨んだ。
「覚えておけ、老人。この街で私に盾突いて、タダで済むと思うなよ」
男は捨て台詞を残し、肩を怒らせて店を出て行った。店主が慌ててその後を追いかけていく。
後に残されたのは、焦げた天井の匂いと、気まずい沈黙だけであった。
「……助かった、と言えばいいのかね」
吾輩が言うと、シルヴィアは肩をすくめた。
「礼には及ばん。治安を守るのは私の仕事だ。それに、あの男には以前から腹に据えかねるものがあった」
彼女は吾輩の杖を見た。
「それにしても、貴殿……今の火球の逸らし方、見事だったな。魔力による障壁を展開した様子もなかったが」
「偶然だよ」
吾輩はとぼけた。
「ふん、まあいい。秘密の一つつや二つ、誰にでもあるものだ」
シルヴィアはそれ以上追求せず、ふと吾輩の顔を覗き込んだ。
「ところで、ナツメ殿。本を探していると言ったな」
「ああ。活字が恋しくてね」
「ならば、私の屋敷に来るといい。父が遺した蔵書がいくらかある。魔道書ばかりではない、歴史書や詩集もあるぞ」
「……ほう」
吾輩は思わず身を乗り出した。
詩集。歴史書。それは、この乾いた砂漠のような世界における、オアシスのような響きである。
「騎士団の詰所に行くのは御免だが、個人の書斎ならば話は別だ。拝見させてもらってもいいかね」
「構わん。貴殿のような知的な話し相手には、私も飢えていたところだ」
シルヴィアは珍しく、微かに笑った。その笑顔は、昨日の冷徹な鉄仮面とは違い、年相応の女性らしい柔らかさを含んでいた。
どうやらこの世界にも、話の通じる人間は皆無ではないらしい。
吾輩は少しだけ気分を良くして、彼女の案内で店を出た。
外へ出ると、毒々しい青空が広がっていたが、先ほどまでよりは幾分、風が心地よく感じられた。
だが、吾輩は知っている。
「赤シャツ」の系譜に連なるあのマクシミリアンという男が、このまま大人しく引き下がるはずがないことを。坊っちゃんの物語において、赤シャツが陰で画策を巡らせたように、彼もまた、卑劣な手段で吾輩を陥れようとするであろう。
そして、その面倒ごとに巻き込まれるのは、結局のところ、吾輩の「業」のようなものなのだ。
「やれやれ、のんびり本を読む時間くらいは、確保したいものだが」
吾輩は独りごちて、杖をついた。
その背中を、誰かの視線がじっと見つめているような気配を感じたが、振り返っても、そこには雑踏があるだけであった。




