第4話 眼帯の少女と粘液の憂鬱
吾輩は三毛猫の重みで眼を覚ました。
胸の上に、温かい毛玉が乗っている。この異世界に来て以来、初めて感じる安堵感である。見上げれば、煤けた天井の節穴から、朝の光が槍のように差し込んでいる。日本の障子越しに差す、あの柔らかい陽光とは似ても似つかぬ、無遠慮で暴力的な光だ。
「やれやれ、今日もまた、あの毒々しい青空の下で呼吸をせねばならんのか」
吾輩は猫を抱き上げ、身を起こした。猫は不満げに「ニャー」と鳴き、寝ぼけ眼で吾輩の膝の上へ移動した。この猫だけが、この狂った世界における唯一の正気であるように思える。
階下へ降りると、店主のレイはまだカウンターの中で高いびきをかいていた。
涎を垂らし、何やら夢見心地で顔を緩ませている。精鋭集団のリーダーが聞いて呆れる。これでは、ただの惰眠を貪る高等遊民だ。もっとも、吾輩とて似たような身の上だが、少なくとも涎は垂らさんつもりだ。
「おい、起きんか。日が中天に昇るぞ」
吾輩が杖でカウンターを小突くと、レイは「ううむ」と唸り、のっそりと顔を上げた。
「……なんだ、爺さんか。朝から精が出るな」
「朝ではない、もう昼に近い。それで、朝餉はどうなっている。吾輩は腹が減った」
「飯か。勝手に厨房を使ってくれ。材料はある」
非人情を決め込むにも、腹は減る。吾輩は渋々、厨房へ入り、硬いパンと得体の知れない干し肉、それに庭の畑で採れた野菜を放り込んでスープを作った。味は薄く、野暮ったい。だが、贅沢を言える立場ではない。
スープをすすっていると、店の扉が勢いよく開いた。
「おはようございます! 我が名はミナ! 爆裂の理を操りし、紅蓮の魔導師なり!」
入ってきたのは、小柄な少女であった。
年齢は十四、五といったところか。黒いマントを纏い、片目には眼帯をしている。そして手には、吾輩のものよりもさらに大袈裟な、禍々しい装飾の施された杖を握りしめている。
「……なんだ、この騒がしいのは」
吾輩が眉をひそめると、レイがあくびを噛み殺しながら言った。
「ああ、こいつもウチのクランのメンバーだ。ミナ、挨拶しろ。新入りの爺さんだ」
少女は吾輩の前に仁王立ちになり、バッとマントを翻した。
「ふふん、新入りですか。我が深淵なる魔力に恐れおののくがいいです!」
「……君、その目はどうしたのだ」
吾輩は、彼女の眼帯を指差した。
「流行り目か、それともものもらいか。早めに眼科医に見せた方がいいぞ。トラホームだと厄介だ」
少女は一瞬、きょとんとした顔をし、それから顔を真っ赤にして怒った。
「違います! これは、我が右目に封印されし黒龍の力が、暴走せぬように抑えているのです!」
「黒龍?」
「そうです。ひとたび眼帯を外せば、この街など一瞬で灰燼に帰すほどの力が……」
「なるほど、虚言癖か」
吾輩は納得してスープに戻った。
明治の世にも、文学に被れて現実と虚構の区別がつかなくなった書生はいたが、異世界にもその種の手合いはいるらしい。精神の病というよりは、思春期特有の、自意識の肥大化による熱病のようなものであろう。
「信じてないですね! 本当なんですから!」
ミナとかいう少女は地団駄を踏んだ。
レイが苦笑いしながら割って入る。
「まあ待てミナ。爺さん、こいつはこれでも、魔法の腕だけは確かなんだ。ただ、燃費が悪すぎて一発撃つと倒れるがな」
「一発で倒れる? それは燃費以前に、基礎体力の欠如だろう」
吾輩は呆れた。どいつもこいつも、極端から極端へと走る。中庸というものを知らんのか。
「それで、だ」
レイが表情を引き締めた。
「爺さん、あんた昨日、ギルドの水晶を割っただろう」
「……粗悪品だったと言ったはずだが」
「ギルドの方から、請求書が回ってきた。金貨百枚だ」
吾輩はスープを吹き出しそうになった。
「百枚? 法外な値段だ。あの女、足元を見てきおったな」
「払えないなら、働いて返してもらうしかない。ちょうど、ギルドから手頃な依頼が来ている」
レイは一枚の紙切れをテーブルに置いた。
そこには、地図のような絵と、ミミズがのたくったような文字が書かれている。吾輩の「天賦の才」が、それを自動的に日本語へと変換する。
『依頼:下水道の清掃および、粘液状怪物の駆除』
「……下水道掃除だと?」
吾輩は顔をしかめた。
「ああ。街の地下水路に、スライム……粘液の化け物が大量発生して、流れが悪くなっているらしい。地味だが、数は多いから報酬は悪くない」
「断る」
吾輩は即答した。
「吾輩は学者だ。溝浚いをするために異世界へ来たわけではない」
「じゃあ、金貨百枚はどうするんだ。俺は払わんぞ」
レイは冷たく言い放った。
「それに、この依頼にはミナも連れて行く。こいつの魔法なら、掃除の手間も省けるだろうしな」
「ええっ、私もですか? 爆裂魔法は下水道なんかで撃てませんよ! 街が沈みます!」
「加減を覚えろ、馬鹿タレ」
レイはミナの頭を拳骨で小突いた。
結局、吾輩は逃げ場を失ったのである。
金はない。借金はある。そして、この怠惰なリーダーは動こうとしない。坊っちゃんが、宿直の夜にイナゴを入れられても我慢して学校へ行ったように、吾輩もまた、義理と借金という鎖に繋がれて、泥仕事へ向かう羽目になったのだ。
街の地下水路は、鼻が曲がるほどの悪臭で満ちていた。
薄暗い石造りの通路を、汚水が淀みながら流れている。壁には緑色の苔がびっしりと張り付き、ネズミの死骸が浮いている。
「おえっ、臭いです……」
ミナが鼻をつまんで呻いた。
吾輩もハンカチで鼻と口を覆った。衛生観念の欠如も甚だしい。文明というものは、まず下水を完備することから始まるというのに、この世界の人々は、ただ魔法で臭いを消せばいいと思っている節がある。
「おい、爺さん。あそこにいますよ」
ミナが指差した先、水路の奥に、半透明の緑色の塊がうごめいていた。
大きさは子供の頭ほど。それが数十、いや百近くも密集し、水路を塞いでいる。
「あれがスライムか」
見た目は、出来損ないの寒天か、腐った葛餅のようである。知性のかけらも感じられない。ただ、食欲と増殖の本能だけで動く、下等な生物だ。
「さあ、爺さん。やっちゃってください。私は、いざという時の切り札ですから」
ミナは安全な後方へ下がって、杖を構える真似だけをした。
「……やれやれ」
吾輩は前に進み出た。
靴が汚水に浸かるのが不快だ。帰ったらすぐに洗わねばなるまい。
スライムどもが、吾輩の気配に気づいて、ずりずりと近寄ってくる。酸の混じった体液を飛ばそうという腹らしい。
吾輩は杖を軽く振った。
魔法を使うのは癪に障るが、こんな不潔な場所で長居は無用だ。
「……消えろ」
詠唱などしない。ただ、物理現象として、其処にあるべき熱量を操作するだけだ。
瞬間、水路の空間が歪んだ。
『天賦の才《熱量操作》』
吾輩の杖の先から、目に見えぬ波動が奔流となって押し寄せた。
それは炎ではない。分子の運動を極限まで高める、純粋な熱エネルギーの干渉である。
ジュッ、という音が響いた。
数百匹のスライムたちは、一瞬にして沸騰し、蒸発した。断末魔を上げる暇もない。ただ、白い湯気となって霧散したのである。
あとに残ったのは、綺麗に乾いた水路の床と、いくつかの魔石だけであった。
「……え?」
後ろでミナが口を開けていた。
「い、今、何をしたんですか? 詠唱もなしに? 魔法陣もなしに?」
「ただの物理だ。水を沸騰させれば蒸気になる。それだけの話だ」
吾輩は、何事もなかったかのように答えた。
『経験値獲得。レベルが上がりました。』
まただ。
頭の中に直接響く、あの無機質な声。
レベルが上がっただと? あんな葛餅を蒸発させただけで、何が向上したというのだ。人間性か? 徳か? いや、ただの「殺人能力」だろう。
吾輩は吐き捨てるように言った。
「くだらん」
人を殺め、怪物を屠り、その数だけ強くなる。まるで人斬り包丁だ。使えば使うほど切れ味が増すが、その分、持ち主の魂は錆びついていく。
「す、すごいです爺さん! 今の、無詠唱の広範囲熱魔法ですよね! 私、感動しました!」
ミナが駆け寄ってきて、吾輩の手を握った。その瞳が、眼帯をしていない方の左目が、キラキラと輝いている。
「私、弟子入りします! その魔法、教えてください!」
「断る」
吾輩は手を振りほどいた。
「吾輩は魔法使いではないし、弟子を取る趣味もない。それに、君にはその『黒龍』とやらがいるのだろう。浮気は感心せんよ」
「うっ……そ、それはそうですけど……」
ミナは口ごもった。やはり、あの黒龍設定は、彼女なりの虚勢、あるいは孤独を紛らわすための空想なのだろう。
吾輩は、少しだけ声を和らげた。
「魔法など、所詮は道具だ。それに振り回されて、己の目を見失うなよ。……眼帯の奥の目も、ちゃんと開けておくことだ」
ミナは、ぽかんとして吾輩を見上げた。
「……はい」
素直な返事だ。眼帯などという奇矯な振る舞いをしてはいるが、根は悪い子ではないのかもしれない。
吾輩たちは、落ちていた魔石を拾い集め、地上へと戻った。
外の空気は、やはり新鮮であった。
下水の臭気から解放され、吾輩は大きく息を吸い込んだ。
「あー、臭かった。爺さん、帰ったらお風呂入りましょうね」
「そうだな。……それにしても」
吾輩は、懐の魔石の手触りを確かめた。
これで借金の一部は返せるだろう。だが、まだ足りない。
「人の世は住みにくいが、異世界もまた、世知辛いものだ」
吾輩は独りごちて、空を見上げた。
毒々しい青空に、白い雲がひとつ、のんびりと浮かんでいる。
あの雲のように、地位も名声も、レベルという名の数字も気にせず、ただ風の吹くままに漂えたら、どんなに楽だろうか。
だが、吾輩の足元には、まだ見えぬ「しがらみ」という名の泥が、へばりついているような気がしてならなかった。
酒場へ戻ると、三毛猫が「ニャー」と出迎えてくれた。
その無垢な瞳を見た瞬間、吾輩の中で渦巻いていた殺伐とした感情が、すっと消えていくのを感じた。
「ただいま。……腹が減ったな」
吾輩は猫を撫でながら、レイに夕飯の催促をすることにした。
英雄になどならなくていい。
ただ、温かい飯と、猫と、雨風をしのぐ屋根があれば。
それ以上の「レベルアップ」など、吾輩には不要なのだから。




