第33話 逆説の箱と不確定な猫
光の巨人が放った輝きは、物理的な熱量というよりは、精神を漂白するような純粋な情報の奔流であった。
吾輩は、咄嗟に杖を掲げ、目の前に「屈折」の場を展開した。
光あるところには必ず影が生まれ、直進する光も媒質が変われば曲がるのが道理である。
『天賦の才《光学的屈折・蜃気楼》』
殺意を帯びた光の束は、吾輩の身体の寸前でぐにゃりと軌道を曲げられ、床や壁へと散乱した。
ジュッ、という音がして、強化ガラスのような床が焦げ付く。
「……危ないところだ」
吾輩は冷や汗を拭った。
相手は、この世界を統べるシステムそのものだ。魔力というよりは、演算能力の暴力と言った方が正しい。
『……回避行動を確認。再演算。……対象の存在確率を下方修正します』
巨人の声が、脳髄に直接響く。
感情のない、平坦な響きだ。そこには憎しみも怒りもなく、ただ事務的に「エラー」を処理しようとする冷徹さだけがある。
周囲の空間が、ジジジとノイズを上げて歪み始めた。
吾輩の足元の座標が、あやふやになる感覚。自分がここに立っているのか、いないのか、世界そのものが吾輩の存在を拒絶し始めているのだ。
「存在の否定か。……陰湿なやり口だ」
吾輩は、懐から例の硝子球を取り出した。
真空を封じ込めた、エジソン電球。
「システム君。君は先ほど、効率こそが正義だと言ったな」
吾輩は、歪みゆく空間の中で、泰然と問いかけた。
『肯定します。無駄なき世界、矛盾なきシナリオこそが、至高の秩序です』
「ならば問うが、君は『明日の天気』を百パーセントの確率で予言できるかね」
『愚問です。全ての気象パラメータは管理下にあります。予測は完璧です』
「では、『人の心』はどうだ。あのアレクス君が、君たちのシナリオを外れて発狂したことは、予測できていたのかね」
光の巨人が、一瞬だけ明滅した。
『……それは、稀なエラーです。修正可能な誤差です』
「誤差ではない。必然だよ」
吾輩は、硝子球を高く掲げた。
「この世には、原理的に観測不可能な領域が存在する。ハイゼンベルクという男が提唱した『不確定性原理』だ」
位置と運動量を、同時に正確に知ることはできない。
一方を確定させようとすれば、もう一方が揺らぐ。観測するという行為そのものが、対象に影響を与えてしまうからだ。
「君たちが管理しようとすればするほど、世界は君たちの手から滑り落ちていく。アレクス君の心も、君たちが『観測』し、『固定』しようとしたからこそ、その反動で壊れたのだ」
『……理解不能。管理こそが安定です。不確定性など、排除すればよい』
巨人が腕を振るう。
無数の光の矢が、雨のように降り注ぐ。
逃げ場はない。
だが、吾輩は逃げなかった。
「排除できるかな。……吾輩という『猫』を」
吾輩は、硝子球の中に、ある「思考実験」のイメージを投影した。
シュレーディンガーの猫。
箱の中に閉じ込められた猫は、蓋を開けて観測するまで、生きている状態と死んでいる状態が重なり合って存在している。
「この硝子球の中は真空だ。何もない。だが、何もないということは、『何かが存在する可能性』が無限に詰まっているということでもある」
吾輩は、硝子球の内部を、この世界に対する「ブラックボックス」として定義した。
システムの干渉を受けない、完全なる未確定領域。
『天賦の才《量子重ね合わせ・因果の箱》』
光の矢が、吾輩に突き刺さる――その寸前で、硝子球が怪しく輝いた。
世界が、バグった。
吾輩の身体が、半透明になり、二重、三重にブレて見える。
矢が刺さった吾輩と、刺さらなかった吾輩。
倒れた吾輩と、立っている吾輩。
無数の可能性が、一つの空間に同時に存在し始めたのである。
『……!? エラー。対象の状態が確定しません。……生存と死亡が併存しています。処理不能』
システムの演算が追いつかない。
0か1か、生か死か。二元論で動くプログラムにとって、この「どちらでもあり、どちらでもない」という状態は、猛毒のパラドックスだ。
「どうした。処理落ちかね」
無数の吾輩が、同時に口を開き、重なり合った声で嘲笑った。
「人間とは、矛盾を抱えて生きる生き物だ。泣きながら笑い、愛しながら憎む。生きたいと願いながら、死に場所を探す。……そんな複雑怪奇な存在を、君たちの安っぽい定規で測れると思ったか」
『……警告。論理回路に深刻な負荷。……修正パッチを……』
「修正などさせんよ」
吾輩は、全ての可能性を収束させ、一歩前へと踏み出した。
手にした杖の先を、光の巨人の胸元――コアとおぼしき輝きに向ける。
「君たちの失敗は、世界を『物語』として完成させようとしたことだ。完成した物語など、死んだ標本と同じだ。変化もなく、成長もない」
吾輩は、かつて『草枕』で夢見た、非人情の世界を思い出した。
あれは美しかったが、やはり人間が住むには適さぬ場所であった。人間は、情に流され、角を立て、泥にまみれてこそ、生を実感できるのだ。
「吾輩は、不完全であることを選ぶ。……未完成のまま、明日どうなるかも分からぬまま、泥臭く生きてやる!」
吾輩は、杖を突き出した。
『天賦の才《因果律崩壊・無限の可能性》』
硝子球から放たれたのは、破壊の光ではない。
「未知数(X)」という名の、カオスの種子である。
それが巨人のコアに触れた瞬間、まばゆい光が炸裂した。
『ガガガ……ガ……。……システム、致命的エラー。……シナリオの維持が、困難です……』
巨人の身体が、光の粒子となって崩れ始めていく。
『……なぜ……。なぜ、苦しみを選ぶのですか。……管理された幸福よりも、不確かな自由を……』
消え入りそうな声が問うてくる。
「決まっている」
吾輩は、崩れゆく神を見上げて言った。
「吾輩の人生の脚本を書くのは、吾輩自身だからだ。……例えそれが、どんなに駄文であろうともな」
パリン、と音がした。
手の中の硝子球が、役目を終えて砕け散った。
同時に、光の巨人もまた、無数の星屑となって四散し、漆黒の闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、圧倒的な静寂と、床に散らばったガラスの破片だけであった。
「……終わった、か」
吾輩はその場に膝をついた。
どっと疲れが出た。胃が痛い。偏頭痛もする。
やはり、神殺しなどという大それた真似は、老体には堪える。
「爺さん!」
「師匠!」
背後から声がした。
扉をこじ開けて、レイとミナが飛び込んできた。二人ともボロボロだが、五体満足のようだ。
「無事かよ、爺さん! すげえ音がしたぞ!」
「師匠、あのピカピカ野郎はどうしたんですか!?」
「……片付けたよ。少しばかり、哲学的な議論をしてな。論破してやった」
吾輩は苦笑しながら、レイの手を借りて立ち上がった。
「議論で勝ったって……あんた、相手は神様みたいなもんだろうが」
レイが呆れたように言う。
「神だろうが何だろうが、理屈の通らん相手には説教をするのが教育者の務めだ」
「まったく、とんでもない爺さんだ」
レイは笑い、吾輩の肩を叩いた。
「帰ろうぜ。……ここは寒くて敵わん」
「そうだな」
吾輩は杖をつき、出口へと向かった。
部屋を出る際、ふと振り返ると、闇の中に浮かんでいた星々のような光の粒が、ゆっくりと点滅しているのが見えた。
システムは完全に消滅したわけではないのだろう。
ただ、その絶対的な拘束力は失われ、世界は少しだけ「緩く」なったはずだ。
これからは、ステータス画面の数値が絶対ではなくなるかもしれない。努力次第でスキルを覚えたり、あるいは忘れたりすることもできるようになるかもしれない。
それは、効率的で安全な箱庭の終焉であり、不便で危険な、しかし自由な世界の始まりでもあった。
王城の外に出ると、空には満天の星が輝いていた。
あの毒々しい青空も、夜になればこうして美しい星空を見せるのだ。
「……綺麗な星ですね」
ミナが空を見上げて呟いた。
「ああ。……『最初の星は孤独にして唯一』か」
吾輩は、手帳に書かれていた言葉を思い出した。
かつての転生者も、この星空を見たのだろうか。
彼は孤独だった。だが、彼の遺した硝子球が、今日、世界を変える鍵となった。
「……君の無念、少しは晴らせたかな」
吾輩は夜空に向かって、小さく問いかけた。
返事はない。ただ、一筋の流れ星が、白の塔の彼方へと消えていった。
「爺さん、腹減らねえか。帰って一杯やろうぜ」
「賛成です! 今日こそお肉食べましょう!」
「やれやれ。……まあ、いいだろう。今夜は吾輩の奢りだ。王様から菓子を貰った礼もある」
「太っ腹!」
三人の影が、石畳に長く伸びる。
吾輩は、自分の影を見つめた。
相変わらずの猫背だ。
レベルがいくつになろうと、神を論破しようと、この背中の丸みだけは治りそうにない。
だが、それもまた、吾輩という人間の「形」なのだろう。
「……智に働けば角が立つが、角をへし折って丸くなるよりは、幾分マシな生き方かもしれん」
吾輩は独りごちて、夜の街へと歩き出した。
その足取りは、来る時よりも少しだけ軽く、そして自由な響きを帯びていたのである。
***
つづく、かもしれないし、これで大団円かもしれない。それは、吾輩の気まぐれ次第である。




