第31話 箱庭の亀裂と波の性質
覚悟を決めるというのは、生の卵を丸飲みするようなもので、喉元を過ぎるまではヌルリとして気持ちが悪いが、腹に収まってしまえば案外と落ち着くものである。
吾輩が、例の硝子球を懐に忍ばせ、宿屋『フクロウの止まり木亭』を出たのは、正午を少し回った頃であった。
毒々しい青空からは、相変わらず無遠慮な陽光が降り注いでいる。
「行くぞ、爺さん。忘れ物はねえか」
レイが、愛用の棍棒を肩に担いで言った。その表情は、いつもの昼行灯のようなふやけたものではなく、獲物を前にした獣のように引き締まっている。
「忘れ物と言えば、遺書を書くのを忘れていたな。まあ、宛先もいない身だ。必要あるまい」
「縁起でもねえことを言うなよ。……俺たちは、あくまで『家庭訪問』に行くだけなんだろ?」
レイがニヤリと笑う。
「そうだ。躾のなっていない管理者に、教育的指導をするだけのことだ」
吾輩は杖をつき、歩き出した。
隣には、ミナがいる。彼女は今日、いつもの黒いマントではなく、少し動きやすそうな短めの服を着ていた。眼帯はそのままに、左目だけで真っ直ぐに前を見据えている。
「師匠、あの白い塔まで、歩いていくんですか?」
「馬車を拾おうにも、この有様ではな」
吾輩は周囲を見渡した。
王都の大通りは、異様な静寂に包まれていた。
昨日の英雄アレクスの発狂、そして逃走。本来ならば国を揺るがす大事件であるはずだが、街を行き交う人々の様子は、不気味なほどに平静であった。
彼らは、壊れた英雄のことなど話題にもせず、ただ淡々と、システムに定められた日常を反復している。
「今日のクエストは……」
「回復薬の相場が……」
すれ違う人々の口から漏れるのは、昨日と同じ、判で押したような台詞ばかりだ。まるで、傷ついたレコード盤が、同じフレーズを永遠に繰り返しているかのような、空虚な響きである。
「……気持ち悪いです」
ミナが身震いをして、吾輩の袖を掴んだ。
「みんな、何もなかったことにしてる。……アレクス様がいなくなったのに、誰も気にしてない」
「修正されたのだよ」
吾輩は冷ややかに言った。
「物語の進行に不都合な事実は、管理者の消しゴムで消されたのだ。彼らにとって、英雄の不在は『認識してはならないエラー』なのだろう」
人間を、ただの演算素子として扱う。その傲慢な設計思想が、この街の空気を、腐った水のように淀ませている。
吾輩たちは、人々の視線を避けることもなく、堂々と大通りの中央を歩いた。
誰も吾輩たちを見ない。
見えているはずなのに、認識しない。システムが、吾輩たちを「風景の一部」あるいは「処理落ちしたノイズ」として扱い、住人の意識から除外しているからだ。
透明人間になった気分だ。
だが、この透明さは、自由の証でもある。
やがて、前方に巨大な建造物が聳え立ってきた。
白の塔。
王城であり、この国の魔力の中枢。そして、世界の管理システムへと繋がる端子である。
以前に招かれた時は、絢爛豪華な門が開き、侍従たちが恭しく出迎えてくれたものだが、今日は様子が違う。
巨大な鉄の門は固く閉ざされ、その前には誰もいない。衛兵すら立っていない。
ただ、門の周囲を取り囲むように、半透明の光の膜が揺らめいている。
「……結界か」
レイが足を止めた。
「こいつは手強いぞ。城壁全体を覆ってやがる。物理的な攻撃も、魔法も、全部弾き返す『絶対拒絶』の壁だ」
「拒絶、か。……招かれざる客には、玄関の鍵も開けてくれんというわけだな」
吾輩は杖で石畳をコツコツと叩きながら、その光の膜に近づいた。
ミナがおずおずと手を伸ばそうとする。
「触るな」
吾輩が鋭く制すると、ミナの手が引っ込んだ。
バチッ!
ミナの指先が触れようとした空間で、青白い火花が散った。
「うわっ!」
「高圧電流のようなものだ。あるいは、情報の遮断プロトコルか。……生半可な干渉では、消し炭にされるぞ」
吾輩は光の膜を見上げた。
ドーム状に展開されたその障壁は、遥か上空まで続き、白の塔を完全に外界から隔離している。これでは、蟻一匹入り込む隙間もない。
「どうする、爺さん。力ずくで割るか? 俺の棍棒じゃあ、骨が折れそうだが」
「力任せは下策だ。……押して駄目なら、引いてみな、という言葉がある」
吾輩は、懐から例の硝子球を取り出した。
フィラメントの切れた、エジソン電球。
今はただのガラス玉だが、そこには「真空」という名の無が保存されている。
「君たち、壁というものの定義を知っているか」
吾輩は二人に問うた。
「定義? ……通れないもの、邪魔なもの、ですか?」
ミナが首をかしげる。
「物理学的に言えば、壁とは『ポテンシャルの障壁』だ。粒子が通過するのに必要なエネルギーが、粒子の持つエネルギーよりも高い領域のことを指す」
「……さっぱり分からねえ」
レイが頭を掻いた。
「要するに、高すぎる山のようなものだ。越えるには、山よりも高く跳ばねばならん。……だが、それは『粒子』として振る舞う場合の話だ」
吾輩は硝子球を、光の膜にかざした。
「この世の全ての物質は、粒子であると同時に、波としての性質も併せ持っている。光も、電子も、そして人間という存在さえもだ」
ド・ブロイ波。物質波の概念である。
マクロな世界では無視できるほどの微細な波長だが、理論上、我々は波として振る舞うことができる。
「波ならば、壁を越える必要はない。……染み出せばいいのだ」
量子トンネル効果。
エネルギーの障壁よりも低いエネルギーしか持たない粒子が、確率的に障壁を透過してしまう現象。
吾輩は、自身の存在を、そしてレイとミナの存在を、「確固たる個体」から「確率的な波」へと再定義するイメージを構築した。
肉体の輪郭を曖昧にし、存在確率の雲として認識する。
ここにいるかもしれないし、あそこにいるかもしれない。壁の手前にいる確率が九十九パーセントでも、壁の向こう側にいる確率がゼロでなければ、移動は可能となる。
『天賦の才《確率密度操作・トンネル効果》』
吾輩は、杖を光の膜へと突き出した。
抵抗はない。
杖の先が、水に濡れた紙にインクが染み込むように、音もなく光の膜の向こう側へと抜けていく。
「……なっ!?」
レイが目を見開いた。
「爺さん、杖が……埋まってるぞ!?」
「埋まっているのではない。透過しているのだ。……さあ、君たちも吾輩の背中に掴まりたまえ。振り落とされるなよ」
レイとミナが、慌てて吾輩の着物の裾を掴む。
吾輩は、彼らの存在情報もまとめて「波」として演算し、一歩、前へと踏み出した。
世界が揺らぐ。
視界が砂嵐のようにざらつき、上下左右の感覚が消失する。
壁を通り抜けるという感覚は、泥沼の中を泳ぐのとも、霧の中を歩くのとも違う。自分という存在がバラバラに解れ、数式の一部となって空間に溶け出し、そして再び凝固するような、嘔吐感を伴う浮遊感であった。
「うぷっ……」
ミナが口を押さえる。
「我慢しろ。……今、我々は『有』と『無』の狭間にいる」
数秒か、あるいは数時間か。
時間という概念さえ曖昧なその領域を抜け、吾輩の足裏が、再び硬い感触を捉えた。
カツン。
乾いた音が響く。
視界が開けた。
そこは、白の塔の内部――ではなく、広大な庭園の入り口であった。
振り返れば、背後にはあの光の膜が揺らめいている。
「……抜けた、のか?」
レイが自分の体をまさぐっている。五体満足だ。
「ああ。確率の壁をすり抜けた。……狐に化かされたような気分だろうが、これが物理だ」
吾輩は額の汗を拭った。
やはり、人間二人分の質量をトンネルさせるのは骨が折れる。胃の腑が締め付けられるような疲労感だ。
「すごい……すごいです、師匠! 壁抜け男ですね!」
ミナが目を回しながらも、興奮して叫ぶ。
「声が大きい。……不法侵入の最中だぞ」
吾輩は人差し指を口に当てた。
しかし、その心配は無用であったかもしれない。
庭園には、人の気配がなかった。
美しく刈り込まれた植栽、幾何学模様を描く噴水。それらは完璧な美しさを保っているが、手入れをする庭師の姿も、巡回する衛兵の姿もない。
まるで、時間が止まった箱庭だ。
「……静かすぎるな」
レイが短剣を抜き、警戒する。
「ああ。どうやら、歓迎はされていないらしい」
吾輩は、庭園の奥、白亜の巨塔を見上げた。
その入り口に、一人の人物が立っていた。
白いワンピースに、銀色の髪。
先日、酒場に現れたあの少女。「観測者」7号である。
彼女は、無機質な瞳でこちらを見下ろしていた。
「……異常事態発生。セキュリティ・ゲートの論理的突破を確認」
少女の声が、庭園に響き渡る。
「個体名、ナツメ・ソウセキ。……貴方は、確率論を悪用しましたね」
「悪用とは心外な。吾輩はただ、自然法則の隙間を通らせてもらっただけだよ」
吾輩は歩み寄った。
「それに、門を閉ざして客を拒むのは、家の主として感心せんマナーだ。少しばかり、風通しを良くしに来た」
「……理解不能。ここは管理区域です。NPCの立ち入りは許可されていません」
少女が右手をかざす。
その掌に、幾何学的な光が集束していく。
「排除します。今度こそ、完全に」
庭園の風景が、ノイズのように歪み始めた。
芝生が、噴水が、そして空の色までもが、0と1の数字の羅列へと分解されていく。
テクスチャの剥離。
彼女は、この空間そのものを「消去」しようとしているのだ。
「爺さん、やばいぞ! 地面が消えていく!」
足元の石畳が、黒い虚無へと変わっていく。
「……やれやれ、相変わらず乱暴な片付け方だ」
吾輩は杖を構えた。
空間を消すなら、消せないものを置けばいい。
「ミナ、あの硝子球を貸せ」
「は、はいっ!」
ミナが懐から硝子球を取り出し、吾輩に投げた。
吾輩はそれを受け取り、頭上に掲げた。
「7号君。君は忘れているようだが、この世界には君たちのシステムが及ばない『真空』がある」
吾輩は、硝子球の中に、今度は「重力」ではなく、「存在のアンカー(錨)」としての定義を打ち込んだ。
質量保存の法則。
物質は、形を変えることはあっても、決して無にはならない。
『天賦の才《質量保存・存在固定》』
硝子球を中心にして、強烈な「存在感」の波紋が広がった。
データとして分解されかけていた地面や木々が、再び物理的な質量を取り戻し、実体化していく。
ガガガガッ!
空間がきしむ音がした。
消去しようとするシステムの力と、存在しようとする物理の力が衝突し、火花を散らしている。
「……エラー。消去プロセス、失敗。……なぜですか。なぜ、そこまでして『在る』ことに固執するのです」
少女の無表情な顔に、僅かな困惑の色が浮かんだ。
「固執ではない。当然の権利だ」
吾輩は言った。
「我々はデータではない。ここに生き、呼吸し、飯を食う肉体だ。君たちの都合で消されたり書かれたりするような、安い画用紙ではないのだよ」
吾輩は杖を振り下ろし、少女の展開した光の図形を叩き割った。
パリン。
硝子が割れるような音がして、庭園に元の風景が戻った。
「……観測者7号。道を開けたまえ。吾輩は、君の主人に用がある」
少女は、割れた光の破片の中で、しばらく吾輩を見つめていたが、やがてふっと姿を消した。
「……メインシステムに報告。……イレギュラーの侵入を許諾します」
彼女の声だけが残響として残り、そして消えた。
塔の扉が、重々しい音を立てて開いていく。
その奥に広がるのは、王宮のきらびやかな廊下ではなく、無数の配管と歯車が蠢く、巨大な機械仕掛けの迷宮であった。
「……なんだこりゃ」
レイが口を開けた。
「これが、王城の中身かよ。まるで工場のボイラー室だ」
「舞台裏とは、得てしてこういうものだ」
吾輩は、硝子球を懐に仕舞い、その機械の迷宮へと足を踏み入れた。
智に働けば角が立つ。
だが、その角で壁を突き破った先には、見たこともない真実が、歯車を回して待ち受けている。
果たして、この世界の心臓部には、どのような顔をした神が座っているのか。あるいは、神など最初からおらず、ただの空虚な計算機が唸っているだけなのか。
それを確かめるまでは、吾輩の猫背も治りそうにない。
「行くぞ。……足元に気をつけたまえ。油まみれだ」
吾輩の声に、二人が頷く。




