第30話 忘却の河と不可逆の傷
嵐が過ぎ去った後の朝というものは、得てして白々しいほどに晴れ渡るものである。
吾輩が煤けた天井の下で眼を覚ますと、窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえてきた。チュンチュンなどという可愛らしいものではない。例の「レベルアップ」と鳴く、あの無粋な極彩色の鳥である。
「……昨夜の騒ぎは、夢幻であったか」
吾輩は枕元の三毛猫を撫で、身を起こした。
昨晩、あの「観測者」とかいう白装束の少女を、電球の光で追い返した。それは確かな事実である。しかし、階下に降りてみると、世界は何食わぬ顔で日常を演じているではないか。
「おはよう、爺さん。……昨日は飲みすぎたかな。頭が痛え」
レイがカウンターで眉間を押さえている。
「飲みすぎたのではない。情報の奔流に脳味噌がショートしたのだよ」
「ショート? なんだそりゃ。……まあいい。とにかく、昨日のあの光、凄かったな。夢かと思ったぜ」
「夢ではない。現だ」
吾輩は椅子に腰を下ろし、熱い茶を所望した。
レイとミナは覚えている。彼らはシステムの外れ値、すなわちバグであるからだ。しかし、表通りを行き交う人々はどうだ。
窓から覗けば、街は普段通りの活気に満ちている。
「英雄アレクス様、万歳!」
「魔王軍の幹部を撃退したぞ!」
まだ言っている。彼らの脳内では、昨日の吾輩の勝利も、夜の騒動も、すべて綺麗に削除され、都合の良い「英雄譚」に上書きされているらしい。
「……薄気味の悪いことだ」
吾輩は茶を啜った。
人間が、自分の記憶さえも所有できないとは。これでは、蓄音機のレコードと同じではないか。針を落とせば歌い、盤を取り替えれば別の歌を歌う。そこに「個」としての尊厳などありはしない。
その時、店の扉がカランと鳴った。
「やあ。朝から良い天気だね」
爽やかな声と共に現れたのは、白銀の鎧を纏った青年であった。
金髪碧眼。均整の取れた肢体。
英雄アレクスである。
吾輩は茶碗を取り落としそうになった。
昨日、吾輩に聖剣を溶かされ、無様に逃げ出したあの男が、何の恥ずかしげもなく、爽やかな笑顔で立っているのである。
「……いらっしゃい。英雄様が、こんなむさ苦しい店に何の用で」
レイが警戒心を露わにして問うた。
「人を探しているんだ。……この辺りに、『運命の巫女』の相を持つ少女がいると聞いてね」
アレクスは、店の中を見回した。
その視線が、吾輩の上を素通りする。
(……見えていないのか?)
いや、視覚的には捉えているはずだ。だが、認識していない。昨日の「敗北の記憶」と共に、吾輩という存在そのものが、彼の認識フィルターから除外されているらしい。
そして、彼の視線はミナのところで止まった。
「……見つけた」
アレクスは、芝居がかった動作でミナに歩み寄った。
「君だね。僕のパーティーに欠けている最後のピースは」
「え、えっ? 私?」
ミナが眼帯を押さえて後ずさりする。
「そうだ。僕の『真理の目』には見える。君の中に眠る、強大な魔力が。……さあ、行こう。世界を救う旅が、僕たちを待っている」
アレクスは、まるで王子様のように手を差し出した。
美しい絵面である。活動写真のラストシーンのようだ。
だが、吾輩には見える。
彼の手が、微かに震えているのを。そして、その瞳の奥に、感情のない冷たい光が明滅しているのを。
彼は「恋」をしているのではない。「勧誘イベント」という名のプログラムを実行しているだけだ。
「……お断りします」
ミナは、きっぱりと言った。
「私は、師匠の弟子です。あんたみたいな、嘘つきのピカピカ野郎にはついていきません!」
「嘘つき……? 何を言っているんだ。僕は英雄だぞ」
アレクスは首を傾げた。心底、意味が分からないという顔だ。
「昨日のこと、忘れたんですか! 師匠に負けて、泣いて逃げたくせに!」
ミナが叫ぶ。
しかし、アレクスの表情は動かない。
「……昨日のこと? 昨日は、魔王軍の幹部を撃退して、パレードをしただけだが」
彼は、本当に覚えていないのだ。
恐怖も、屈辱も、敗北感も。人間として成長するための糧となるべき「負の感情」が、すべてシステムによって消去されている。
「……哀れな男だ」
吾輩は、思わず声を漏らした。
「誰だ」
アレクスが、ようやく吾輩の方を向いた。
「ノイズか。……そこにいたのか」
「いたよ。君が入ってくる前から、ずっとここに座っていた」
吾輩は立ち上がり、杖をついた。
「君、壊れた時計のように、同じ時間を繰り返すつもりか」
「時計? 何を訳の分からないことを」
アレクスは不快そうに眉をひそめた。
「僕は、彼女を迎えに来たんだ。これは『決定事項』だ。シナリオにそう書かれている」
「シナリオ、か」
吾輩は、アレクスとミナの間に割って入った。
「人生というのは、白紙の紙にインクを落とすようなものだ。書き損じもあれば、染みもできる。だが、君の持っている台本は、印刷された活字だ。そこには修正の余地もなければ、即興の面白みもない」
「退け、老人。NPC風情が、メインストーリーに干渉するな」
アレクスが、無造作に手を払った。
その手には、強烈な不可視の力が込められている。触れれば吹き飛ばされるだろう。
だが、吾輩は動じない。
「『不可逆』という言葉を知っているか」
吾輩は杖で、アレクスの手首を軽く叩いた。
パチン。
乾いた音がした瞬間、アレクスの動きが止まった。
「……な?」
「時間は戻らない。起きたことは消せない。覆水盆に返らずだ」
吾輩は、熱力学第二法則――エントロピー増大の法則を、概念として彼に叩き込んだ。
物質は、秩序ある状態から無秩序な状態へと変化する。その流れは一方通行であり、決して逆転しない。
システムが無理やり時間を巻き戻し、記憶をリセットしても、物理的な「劣化」までは誤魔化せない。
「君のその剣。……よく見たまえ」
吾輩は、アレクスの腰にある聖剣を指差した。
昨日、吾輩が熱で溶かしたはずの剣。今は元通りに修復され、輝いているように見える。
だが、アレクスがそれに触れた瞬間。
ボロボロと、刀身が錆びて崩れ落ちた。
「う、わああああ!?」
アレクスが悲鳴を上げる。
「な、なんだこれは!? 聖剣が、錆びている!?」
「無理な修復をしたからだ」
吾輩は冷徹に告げた。
「システムは記憶を書き換えたかもしれんが、物質に刻まれた『傷』までは消せなかったようだな。……君の心も同じだ」
吾輩は、杖の先でアレクスの胸を突いた。
「君は覚えていないつもりでも、君の魂は覚えている。昨日味わった恐怖、挫折、自己崩壊の予感。……それらは、錆となって君の内側を蝕んでいるのだよ」
「あ、あ、ああ……」
アレクスはガタガタと震え出した。
虚空を見つめ、何かを確認しようとしている。おそらくステータス画面だろう。だが、そこには彼の理解を超える「エラー」が表示されているに違いない。
「……エラー。……整合性、不一致。……再起動、再起動……」
彼はまたしても、壊れた玩具のように同じ言葉を繰り返し始めた。
「師匠……」
ミナが怯えたように吾輩の背中に隠れる。
「見るな」
吾輩はミナの目を手で覆った。
「これは、人間が壊れる音だ。子供が聞くものではない」
アレクスは、錆びた剣の柄を握りしめたまま、ふらふらと後ずさりをした。
「……違う。僕は英雄だ。……こんなルートは存在しない。……リセットだ。リセットしなければ……」
彼は、虚ろな目で呟きながら、店を出て行った。
その背中は、昨日見た時よりも一層小さく、そして歪んで見えた。
店内に、重苦しい沈黙が降りる。
「……おい爺さん」
レイが、引きつった顔で言った。
「あいつ、どうなっちまったんだ。廃人じゃねえか」
「廃人ではない。ただ、自分の物語を見失っただけだ」
吾輩は席に戻り、茶を飲み干した。苦い。
「管理者は、彼を『修復』したつもりだったのだろうが、接着剤が乾く前に動かしてしまったな。……粗製乱造もいいところだ」
「あのまま放っておいていいんですか?」
ミナが心配そうに尋ねる。
「放っておくしかない。他人の人生の脚本を、吾輩が書き直してやる義理はない」
吾輩は冷たく突き放したが、胸の奥には澱のような不快感が残っていた。
アレクスという若者が憎いわけではない。彼をあのような姿にした、この世界の構造そのものが腹立たしいのだ。
人間を部品として扱い、壊れれば直し、気に入らなければ捨てる。そんな傲慢な「造物主」の遊戯に、いつまで付き合わされるのか。
「……そろそろ、潮時かもしれんな」
吾輩は懐の硝子球を確かめた。
「潮時?」
レイが怪訝な顔をする。
「王都だよ。こんな、人形劇の舞台裏のような場所には飽きた」
「出て行くのか?」
「いや。……舞台裏を暴きに行くのだ」
吾輩は立ち上がり、窓の外に聳え立つ「白の塔」を見上げた。
王城であり、この国の魔力の中枢。そしておそらくは、この世界を管理するシステムへの「接続口」がある場所。
「観測者が来たということは、あちらも吾輩を意識しているということだ。ならば、こちらから出向いて、文句の一つも言ってやらねば、明治の男の沽券に関わる」
「……本気かよ」
レイが呆れたように笑った。
「王城に殴り込みか。反逆罪どころの話じゃねえぞ」
「殴り込みではない。家庭訪問だ」
吾輩は杖をつき、ニヤリと笑った。
「教育的指導というやつだよ。……どうだ、ついてくるか」
「へっ、面白え。最後まで付き合ってやるよ」
レイがカウンターを飛び越えた。
「私も行きます! 黒龍の力が唸ってます!」
ミナも杖を掲げる。
「ニャー」
三毛猫も、吾輩の足元で同意するように鳴いた。
「よし。……では、行くとしよう」
吾輩は店の扉を開けた。
外には、相変わらず毒々しい青空が広がっている。
だが、その空の向こうにある「真実」を見据え、吾輩たちは一歩を踏み出した。
硝子戸の中の安寧を捨て、荒野へと続く道へ。
それは、この世界に対する、吾輩なりの宣戦布告であった。




