第29話 箱庭の自浄と読まれざる栞
英雄アレクスとかいう機械仕掛けの人形を撃退し、路地裏の闇に紛れて宿屋『フクロウの止まり木亭』へと戻った頃には、日は西の空に没し、毒々しい残照が石畳を赤黒く染め上げていた。
逃げる途上、吾輩は奇妙な感覚に襲われた。
背後で沸き起こっていたはずの群衆の動揺が、潮が引くように急速に鎮静化していくのである。あれほどの大騒動だ。国の象徴たる英雄が、薄汚れた老人に剣を溶かされ、無様に逃走したのだ。本来ならば、王都中が蜂の巣をつついたような騒ぎになり、衛兵が血眼になって犯人捜しを始めるはずである。
しかし、追手は来ない。
それどころか、すれ違う人々の顔には、興奮の余韻こそあれ、パニックの形跡が見当たらない。彼らは何事もなかったかのように、「英雄様は立派だった」「魔王軍の刺客を見事に撃退された」などと口々に語り合っているではないか。
「……奇妙だ」
吾輩は杖をつき、眉をひそめた。
「どうした、爺さん。怖い顔をして」
隣を歩くレイが、不安げに覗き込んでくる。彼もまた、この不自然な空気を肌で感じ取っているらしい。
「耳を澄ませてみたまえ。彼らの会話がおかしい」
「会話? ……あ、あれ? 『英雄が勝った』って言ってるぞ。爺さんが勝ったんじゃなかったのか?」
「記憶の改竄、あるいは認識の誘導か」
吾輩は冷ややかに独りごちた。
どうやらこの世界には、都合の悪い事実を糊塗し、システムが定めた「正史」へと無理やり軌道修正する、強力な自浄作用が働いているらしい。
宿に戻ると、三毛猫がカウンターの上で欠伸をしていた。その悠然たる姿だけが、この世界で唯一、嘘偽りのない真実であるように思える。
「ただいま。……どうやら、我々は幽霊にでもなった気分だ」
吾輩は椅子に腰を下ろし、冷めた茶を啜った。
「師匠、どういうことですか? みんな、私たちがあのピカピカ野郎をやっつけたことを忘れてるんですか?」
ミナが不満げに頬を膨らませる。
「忘れているのではない。書き換えられたのだよ」
吾輩は懐から、あの転生者の手帳を取り出した。
以前読んだ箇所に、気になる記述があったのを思い出したからだ。
『管理者は、シナリオの逸脱を許さない。バグが発生した場合、世界は自動的に修正パッチを当て、矛盾を解消しようとする。住人たちの記憶は、その修正に合わせて上書きされる』
なるほど、そういうからくりか。
英雄が敗走するという「バグ」は、システムにとって致命的なエラーであったのだろう。ゆえに、「英雄は刺客を撃退し、刺客は逃亡した」という、都合の良いシナリオに書き換えられたわけだ。
「……莫迦にした話だ」
吾輩は手帳を机に叩きつけた。
人間を何だと思っている。記憶も、感情も、体験も、すべてはデータの一行に過ぎず、管理者の都合一つで如何ようにも編集できるというのか。
これでは、人間は物語の登場人物ですらない。ただの記号だ。
「爺さん、それじゃあ俺たちはどうなるんだ? 『逃げた刺客』として指名手配か?」
レイが青ざめた顔で聞いてくる。
「恐らくな。だが、大掛かりな捜索はなかろう。なぜなら、英雄が『撃退した』ことになっている以上、犯人がのうのうと捕まっては、英雄の顔が立たんからな」
吾輩は皮肉な笑みを浮かべた。
「我々は、物語の整合性を保つために、存在しないことにされたのだよ」
「存在しない……?」
「そうだ。この街にいても、誰も我々を深く追求しようとはしないだろう。まるで道端の石ころのように、意識の外側に追いやられる。……それが、この世界の『事なかれ主義』だ」
レイとミナは顔を見合わせた。安堵と、底知れぬ気味悪さが入り混じった表情だ。
その夜、宿の客足は、先日までの閑古鳥が嘘のように回復していた。
酒場には冒険者たちが集まり、英雄の凱旋パレードの話題で持ちきりであった。だが、彼らの会話の中に、吾輩たちの話題は一切出てこない。カウンターの隅で茶を啜る吾輩を見ても、誰も反応しない。まるで、そこには空気しかないかのように、視線が素通りしていく。
「……透明人間になった気分ですね」
ミナが小さな声で言った。
「悪くない。有名税を払わずに済むなら、それに越したことはない」
吾輩は強がりを言ったが、胸の奥には鉛のような重苦しさが沈殿していた。
無視されるというのは、攻撃されるよりも堪えるものだ。自己の存在証明を、他者の認識という鏡に映すことができなくなるからだ。
吾輩は、懐の硝子球を握りしめた。
この冷たいガラスの感触だけが、吾輩がここに「個」として存在している証拠であった。
「……師匠」
ミナが、心配そうに吾輩の袖を引いた。
「私には、師匠が見えてますよ。レイさんも、ネコちゃんも」
「当たり前だ。君たちは、システムの外れ値だからな」
吾輩は少女の頭を撫でた。
「バグ同士、仲良くやろうではないか」
その時、酒場の扉が静かに開いた。
カラン、というベルの音が、やけに大きく響いた。
入ってきたのは、一人の少女であった。
年齢は十歳ほどか。真っ白なワンピースを着て、長い銀髪をリボンで結んでいる。その容姿は、西洋人形のように整っているが、肌の質感がどこか作り物めいており、生気というものが感じられない。
少女は、店内の喧騒を無視して、真っ直ぐに吾輩のテーブルへと歩み寄ってきた。
周囲の客たちは、彼女に気づいていない。酔っ払いが通り道を空けることもなく、彼女はまるで幽霊のように、人々の間をすり抜けてくる。
「……客かね」
吾輩が声をかけると、少女は無表情のまま、ガラス玉のような瞳で吾輩を見上げた。
「ナツメ・ソウセキ。個体識別ID、測定不能」
少女の声は、鈴を転がすようでありながら、抑揚が欠落していた。あのアレクスとかいう英雄の声に似ているが、さらに無機質で、冷徹だ。
「……エラー要因を確認。シナリオ修正率、低下。……貴方は、物語の進行を阻害しています」
「物語、か」
吾輩は目を細めた。
「お嬢ちゃん、迷子なら交番へ行きたまえ。ここは酒場だ」
「質問に答えなさい。……貴方はなぜ、役割を演じないのですか」
少女は首をかしげた。その仕草すら、計算された角度で動いているように見える。
「役割?」
「賢者は賢者らしく、悪役は悪役らしく。定められたパラメータに従って行動すれば、世界は円滑に回ります。なのに、貴方は『理』を書き換え、数値を無視し、プロットを破壊する。……迷惑です」
迷惑。
またその言葉か。
門番も、ギルドの受付も、貴族も、そしてこの謎の少女も。彼らは一様に、吾輩の存在を「迷惑」だと断じる。規格外の異物が混入することで、彼らの愛する予定調和が乱されるのが、我慢ならないらしい。
「君、名前は」
「……『観測者』7号。管理者の代行体です」
管理者。
手帳に書かれていた、この世界の創造主か。その手先が、ついに吾輩の前に現れたというわけか。
「7号君。吾輩は役者ではない。人間だ」
吾輩は、テーブルに置かれた手帳を指差した。
「人間というものは、脚本通りに動く操り人形ではない。時には台詞を忘れ、時には舞台から転げ落ち、時には脚本家に文句をつける。それが生きているということだ」
「……非効率です」
少女は無表情に断じた。
「不確定要素は、処理落ちの原因になります。……貴方を、削除することを推奨します」
少女が右手をかざした。
その手のひらに、幾何学模様の光が集束していく。魔法ではない。もっと根源的な、システムのコマンドのような輝きだ。
「おい、何だあのガキ!」
レイがようやく異変に気づき、カウンターから飛び出した。
「待てレイ!」
吾輩は制止した。
「手出し無用だ。……これは、思想の問題だよ」
吾輩は立ち上がり、少女と対峙した。
「削除するか。……結構だ。だがその前に、一つだけ教えてくれたまえ」
「……質問を許可します」
「君たちの言う『効率』の先には、何があるのだ。全ての人間が、君たちの描いたシナリオ通りに動き、数字を積み上げ、予定調和の結末を迎える。……その先に、何の感動がある。何の救いがある」
少女は瞬きもしなかった。
「感動も救いも、不要なパラメータです。必要なのは、世界の『維持』と『安定』のみ」
「……そうか」
吾輩は嘆息した。
「やはり、話は平行線か。……維持のための維持。手段の目的化。官僚主義の極致だな」
吾輩は、懐の硝子球を取り出した。
「だが、残念ながら吾輩は、安定よりも変化を、維持よりも破壊を好む、へそ曲がりな性分でね」
少女の手のひらから、光の奔流が放たれた。
『消去』
それは、物理的な破壊力を持たない。対象の「存在情報」そのものを書き換え、無へと還元する、究極のシステム干渉である。
当たれば、吾輩は文字通り「無かったこと」になるだろう。
だが、吾輩は動じない。
情報とは何か。
信号である。電気信号のパターンである。
「電気ならば、通すべき道がある」
吾輩は硝子球を掲げた。
『天賦の才《電気回路・バイパス》』
少女の放った光の信号を、硝子球のフィラメントへと誘導する。
情報はエネルギーと等価である。膨大な情報量は、膨大な熱量へと変換される。
ジジジジジ……!
硝子球の中で、切れていたはずのフィラメントが、白熱し、眩い光を放ち始めた。
「……!?」
少女が初めて表情を変えた。
「エラー発生。……干渉波が、吸収されています。……対象のデバイス、解析不能」
「解析できまいよ」
吾輩は、光り輝く硝子球を、少女の目の前に突きつけた。
「これは『真空』だ。君たちのシステムが存在しない、空白の領域だ。……君たちの理屈が通じない場所へ、その消去信号を捨てさせてもらった」
フィラメントが焼き切れる寸前の、強烈な閃光が酒場を包む。
その光の中で、吾輩は言った。
「帰りたまえ、7号君。そして管理者に伝えるがいい。『この世界という書物には、まだ読まれていない栞が挟まっている』とな」
少女は、眩しさに目を細め、後ずさりした。
「……理解不能。……撤退します」
彼女の姿が、ノイズのように揺らぎ、霧散していく。
光が収まると、酒場には元の喧騒が戻っていた。
客たちは、今の閃光にも、少女の存在にも気づいていない様子で、相変わらず英雄の噂話に花を咲かせている。
「……消えたか」
吾輩は硝子球をテーブルに置いた。
球体は熱を帯びていたが、ひび割れ一つない。
「爺さん、今のは……?」
レイが呆然として立っている。ミナも口を開けて固まっている。
「……借金取りだよ」
吾輩は嘯いた。
「世界のツケを払えと、催促に来たのさ」
「ツケ……?」
「ああ。便利さを享受した代償としての、魂の自由というツケだ」
吾輩は冷めた茶を飲み干した。
管理者。観測者。
敵の正体がおぼろげながら見えてきた。それは、魔王や教会よりも遥かに厄介な、この世界の根幹に関わる存在だ。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、血が騒ぐのを感じる。
定められた運命、管理された自由。そんな退屈な「硝子戸」を叩き割るために、吾輩はこの世界に呼ばれたのかもしれない。
「……面白くなってきたではないか」
吾輩はニヤリと笑った。
その笑顔は、かつて『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が、泥棒を追い返した時のような、ささやかな勝利の味を含んでいた。
窓の外では、二つの月が、相変わらず無表情に世界を見下ろしていた。
だが、その光はもはや、吾輩を監視するものではなく、これからの戦いを照らすスポットライトのように思えたのである。




