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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第28話 機械仕掛けの英雄と数値の奴隷

騒動の後の静寂というのは、得てして嵐の前の不気味な凪に似ている。

役人と商人を物理的な「共振」で追い払った翌日、吾輩は宿の二階で、例の手帳をめくっていた。窓の外からは、いつになく華やいだ、それでいてどこか強迫的な歓声が波のように押し寄せてくる。

手帳には、かつての転生者が遺した、この世界の「管理者」に関する考察が記されていた。

『管理者は、効率を愛する。無駄を嫌う。故に、この世界の住人は、思考するという最もエネルギーを浪費する工程を省略され、ただ「正解」とされる行動をなぞるように設計されている』

なるほど、言い得て妙だ。

昨日の役人然り、魔導師然り。彼らはマニュアルという名のレールの上を走る機関車だ。脱線することを何よりも恐れ、石炭をくべられるままに走り続ける。その先に何があるかも知らずに。

「……爺さん、起きているか」

ドアがノックされ、レイが顔を出した。

「下りてこないのか。今日は『英雄』様の凱旋パレードだぞ」

「英雄?」

「ああ。魔王軍の幹部を討ち取ったとかで、王都中がお祭り騒ぎだ。顔くらい見ておかないと、話の種にもならねえぞ」

「英雄、か」

吾輩は手帳を懐に仕舞い、立ち上がった。

英雄とは、大衆の欲望が生み出した偶像であり、同時にシステムが作り上げた最高の「成功例」であろう。一度、その面構えを拝んでやるのも、文明批評の材料としては悪くない。

「行こう。……ただし、人混みで揉まれるのは御免だがな」

宿を出ると、大通りは立錐の余地もないほどの人だかりであった。

家々の窓からは花吹雪が舞い、路面には色とりどりの絨毯が敷かれている。人々は手に手に小旗を振り、口々に英雄の名を叫んでいる。その熱狂ぶりは、日露戦争の提灯行列を彷彿とさせるが、どこか目が虚ろで、熱病に浮かされたような危うさがある。

「来ましたよ、師匠! あれが勇者アレクス様です!」

ミナが人波をかき分けて戻ってきた。興奮で頬を紅潮させている。

「すごい装備です! 全身、Sランクのミスリル製ですよ!」

やがて、騎馬隊の先導と共に、一台の豪奢なオープン馬車が現れた。

その上に、一人の青年が立っていた。

金髪碧眼。均整の取れた肢体。白銀の鎧は一点の曇りもなく輝き、腰には伝説の聖剣らしきものを佩いている。まさしく、絵に描いたような英雄である。

だが、吾輩の目が捉えたのは、その煌びやかな外見ではない。

彼の目だ。

その目は、群衆を見ていなかった。風景も見ていない。

彼の視線は、常に虚空の一点、おそらくは彼にだけ見える「ステータス画面」に釘付けになっていたのである。

時折、愛想笑いを浮かべて手を振るが、その動作はあまりに機械的で、まるでブリキの玩具がゼンマイ仕掛けで動いているかのようだ。

「……死んでいるな」

吾輩は独りごちた。

「え? 何がですか?」

ミナが聞き返す。

「目がだよ。あれは、生きている人間の目ではない。数字に魂を食われた、抜け殻の目だ」

馬車が、吾輩たちの前を通り過ぎようとした、その時である。

英雄アレクスが、ふと視線を巡らせ、吾輩のところでピタリと止まった。

彼には見えているのだろう。

吾輩の頭上に浮かぶ、システムのエラー表示か、あるいは測定不能な数値の羅列が。

「……止まれ」

アレクスが手を挙げると、馬車は急停止した。

群衆がどよめく。

英雄は軽やかに馬車から飛び降り、一直線に吾輩の方へと歩み寄ってきた。

「……貴様、何者だ」

その声は、美声ではあるが、抑揚がなかった。

「通りすがりの老人だよ」

吾輩は杖をつき、泰然と答えた。

「嘘をつくな」

アレクスは、虚空を睨みながら言った。

「僕の『真理の目』には映っている。貴様のステータスは、バグだらけだ。レベルも、職業も、数値が規定外を表示している。……そんな存在は、この世界にあってはならない」

「あってはならない、とは穏やかではないな」

吾輩は鼻で笑った。

「君、世界にあるものは、すべからく存在する権利があるのだよ。君の持っている小さな定規で測れないからといって、存在を否定するのは傲慢というものだ」

「定規ではない。法則だ」

アレクスは、腰の聖剣に手をかけた。

「この世界は、完璧な数式で管理されている。効率的にレベルを上げ、最適な装備を整え、最短ルートで魔王を倒す。それが『正義』だ。……貴様のようなノイズは、処理効率を下げる」

処理効率。正義。

彼にとって、その二つは同義語らしい。

「なるほど。君は英雄というよりは、優秀な掃除機のようなものだな」

吾輩は皮肉を言った。

「ゴミを吸い取り、部屋を綺麗にすることだけが目的で、なぜ部屋を綺麗にするのか、その部屋で誰がどう暮らすのかには興味がない」

「……減らず口を」

アレクスが剣を抜いた。

白銀の刀身が、太陽の光を反射してぎらりと輝く。

「排除する。……それが『最適解』だ」

「待て! いきなり何をする!」

レイが割り込もうとしたが、アレクスは見向きもしない。

「邪魔だ、NPC」

彼が軽く手を振ると、見えない衝撃波がレイを弾き飛ばした。

「ぐわっ!」

レイが路地の壁に叩きつけられる。

「レイ!」

ミナが悲鳴を上げる。

「……君」

吾輩の声が、地底から響くように低くなった。

「今、彼を何と呼んだ」

「エヌピーシー。……背景の一部だと言ったんだ。数値を稼ぐための舞台装置に過ぎない」

アレクスの顔には、悪意さえなかった。ただ、事実を淡々と述べたという風情である。彼にとって、自分以外の人間は、ゲームの駒以下の存在なのだ。

「……許せん」

吾輩の胸の奥で、静かな、しかし熱い怒りの炎が灯った。

坊っちゃんが、画策を弄する赤シャツに対して抱いた怒りとは違う。もっと根源的な、人間としての尊厳を踏みにじられたことへの義憤である。

「君は、人間を記号に還元した。……その罪は重いぞ」

吾輩は杖を構えた。

「演算開始。……対象、前方一名。脅威度、Sランク。……殲滅モード移行」

アレクスがブツブツと呟き、剣を振り上げた。

その剣には、膨大な魔力が収束している。一撃で城壁をも粉砕するであろう、必殺の光だ。

だが、吾輩は動じない。

「剣など、所詮は鉄の板だ」

吾輩は、懐からあの硝子球を取り出した。

昨夜、共振で眼鏡を割った時と同じだ。物質には、必ず構造的な弱点がある。

「君のその自慢の聖剣。……分子の結合が、少々『整いすぎている』ようだがね」

精巧に作られた工業製品ほど、想定外の負荷には脆い。遊びがないからだ。

アレクスが踏み込み、剣を振り下ろす。

「『聖なる一閃ホーリー・スラッシュ』!」

光の刃が迫る。

吾輩は、硝子球を盾にするように掲げた。

防御ではない。

剣が硝子球に触れる、その瞬間の「接触点」における、熱エネルギーの移動だ。

運動エネルギーを、すべて熱エネルギーに変換する。

『天賦の才《エネルギー保存・熱交換》』

ジュッ!

瞬時に数千度の高熱が発生した。

硝子球は融点が高い特殊なガラスだが、アレクスの聖剣は、極限まで研ぎ澄まされた金属である。一点に集中した高熱は、刀身の分子結合を瞬時に解き、液状化させる。

グニャリ。

アレクスが振り下ろした聖剣は、飴細工のように折れ曲がり、ドロリと溶けて地面に落ちた。

「……な?」

アレクスが、折れた剣の柄を握ったまま、呆然と立ち尽くす。

「な、なんだ……? ありえない……。この剣は『破壊不能』属性がついているはず……」

「属性など知らん。金属は熱すれば溶ける。ただの物理現象だ」

吾輩は硝子球を懐に戻した。少し熱くなっているが、火傷するほどではない。

「……馬鹿な。データにない。バグだ……バグだ……」

アレクスは後ずさりし、頭を抱えた。

「再計算……再計算……」

彼は壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返し、虚空の画面を必死に操作しようとしている。

その姿は、英雄の威厳など欠片もなく、ただ想定外の事態にパニックを起こした、哀れなシステム依存者に過ぎなかった。

「……帰りたまえ」

吾輩は静かに言った。

「君が戦っているのは、魔王ではない。自分自身の強迫観念だ。……そんな錆びついた精神では、何も守れんし、誰も救えんよ」

「う、うわああああ!」

アレクスは絶叫し、折れた剣を投げ捨てて逃げ出した。

群衆は、何が起きたのか理解できず、静まり返っている。

英雄が、薄汚れた老人に敗走した。その事実は、彼らの信じる「レベル至上主義」の根幹を揺るがすものであったろう。

「……爺さん」

レイが、痛む脇腹を押さえながら起き上がってきた。

「また派手にやったな。……国の英雄を、メンタルごとへし折っちまうとは」

「彼のためだよ。早いうちに鼻を折っておかねば、いずれ取り返しのつかない大怪我をする」

吾輩は肩をすくめた。

「それより、大丈夫か。NPC扱いされて、腹が立ったろう」

「へっ、慣れっこさ。……だが、爺さんが怒ってくれたおかげで、スカッとしたぜ」

レイはニヤリと笑った。

ミナも、尊敬の眼差しで吾輩を見上げている。

「師匠……やっぱり、すごいです。物理って、最強ですね!」

「最強ではない。最適解なだけだ」

吾輩は、アレクスが言い放った言葉を皮肉って返した。

騒ぎを聞きつけた衛兵たちが駆けつけてくるのが見えた。

「……潮時だな。ずらかるぞ」

吾輩たちは、群衆の隙間を縫って、路地裏へと姿を消した。

王都の片隅、薄暗い路地を歩きながら、吾輩は考える。

あの英雄アレクス。彼もまた、この歪んだ世界の被害者なのだろう。

「管理者」とやらが作った箱庭の中で、数字を追いかけるだけの虚しいゲーム。

そのゲーム盤をひっくり返すのが、吾輩の役目なのかもしれない。

「……まあ、柄ではないがな」

吾輩は懐の硝子球を撫でた。

今はただ、この小さな球体に宿る「理屈」の光を、消さぬように守り抜くことだけを考えよう。

空を見上げると、二つの月が、昨日よりも少しだけ大きく、こちらを覗き込んでいるように見えた。

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