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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第27話 共振する硝子と役人の定規

羊肉の脂が胃の腑に落ち着くと、人間というものは現金なもので、先ほどまでの憤りや世間への怨嗟といった角張った感情が、湯豆腐のように角が取れて丸くなる。

満腹とは、一種の麻酔である。

吾輩は窓際で渋茶を啜りながら、腹ごなしに例の手帳を開いた。

かつてこの世界に絶望した転生者が遺した、魂の記録である。

そこには、この世界の根幹に関わる、奇妙な記述があった。

『この世界は、巨大な計算機の中にある箱庭だ。魔法も、スキルも、ステータスも、すべては「管理者」によってプログラムされた法則に過ぎない。我々は、定められたレールの上を走らされる玩具の汽車だ』

管理者。プログラム。

耳慣れぬ単語だが、文脈から察するに、この世界を支配する造物主、あるいはその代行者のことであろう。

西洋の神学では、神は世界を時計仕掛けのように精巧に作り上げたと説くが、この書き手の絶望はもっと即物的な、システムへの徒労感に根差しているようだ。

「……管理者、か」

吾輩は独りごちた。

もしそのような存在がいるのなら、一度お目にかかりたいものだ。そして問いただしてやりたい。なぜ君は、人間の価値を数字などという無粋な物差しで計れるようにしたのか、と。

「師匠、難しい顔をしてますね。羊肉が消化不良ですか?」

ミナが覗き込んでくる。

「いや。消化不良を起こしているのは、この世界の仕組みそのものだよ」

吾輩が手帳を閉じようとした時、表の通りが再び騒がしくなった。

またか。

先ほどの商人が、用心棒でも連れて戻ってきたのか。懲りない連中だ。

だが、今度の足音は、乱暴な中にも規律があった。ザッ、ザッ、という、軍靴の響きである。

扉が開くと、現れたのは先ほどの商人ゼフィルスであった。しかし、その背後に従えているのは、粗野な護衛ではない。

紺色の制服を着込み、胸に天秤の紋章をつけた、役人風の男たちである。

「ここだ! ここに、違法な危険物を所持した男がいる!」

ゼフィルスが金切り声で叫び、吾輩を指差した。

役人たちの中央から、一人の男が進み出た。

銀縁の眼鏡をかけ、神経質そうに口元を引き結んだ、痩せぎすの男である。手には分厚い帳面と、羽根ペンを持っている。見るからに融通の利かなそうな、官僚主義の権化といった風貌だ。

「貴公がナツメ・ソウセキか」

男は抑揚のない声で問うた。

「如何にも。……君たちは?」

「私は王都魔導管理局、査察官のヴァレリウスである。ゼフィルス殿より、貴公が『未登録の古代遺物』を所持し、それを公共の場で乱用したとの通報を受けた」

査察官。

なんと嫌な響きだろうか。他人の生活に土足で踏み込み、重箱の隅をつついて埃を探す、公認の覗き屋である。

「乱用とは人聞きが悪いな。吾輩はただ、食事の邪魔をされたので、水を撒いて掃除をしただけだ」

「問答無用」

ヴァレリウスは眼鏡の位置を直した。

「この国において、古代遺物の所持は許可制である。ましてや、その遺物が未知の力を持つ場合、管理局による鑑定と、場合によっては没収が義務付けられている」

「没収、か。……要するに、泥棒の片棒を担ぎに来たわけだ」

吾輩はゼフィルスを一瞥した。小太りの商人は、役人の背後で勝ち誇ったような笑みを浮かべている。権力を金で買ったのか、あるいは法律という虎の威を借りに来たのか。どちらにせよ、卑劣な手合いだ。

「泥棒とは心外な。これは法に基づく正当な執行である」

ヴァレリウスは帳面を開いた。

「貴公が所持している硝子球。直ちに提出したまえ。抵抗すれば、公務執行妨害および危険物所持法違反で拘束する」

「……法律か」

吾輩は嘆息した。

法とは本来、正義を守るためのものであるはずだ。だが、運用する人間が腐っていれば、それは弱者を縛り上げ、強者を肥え太らせるだけの鎖にしかならない。

坊っちゃんの赤シャツが、規則や慣例を盾にして他人を追い詰めたように、この男もまた、法の番人という仮面を被った、ただの俗物なのだろう。

「断る」

吾輩は即答した。

「何?」

「これは危険物ではない。友人の形見だ。それに、この硝子球の価値は、君たちのような無粋な定規では測れない」

「価値を決めるのは貴公ではない。システムだ」

ヴァレリウスは冷徹に言い放った。

「全ての物品には、定められたランクと価格がある。それが秩序だ。貴公のような素人が、勝手な価値観で物を独占することは許されん」

「秩序、ねえ」

吾輩は立ち上がった。

「君、その秩序とやらは、誰のためのものだ。人間のためか、それとも帳面のためか」

「無論、国家の安寧のためだ」

「嘘をつけ。……君はただ、自分の帳面の数字が合わないのが気に入らないだけだろう。あるいは、この商人に鼻薬でも嗅がされたか」

「き、貴様! 侮辱罪を追加するぞ!」

ヴァレリウスの顔が紅潮した。図星らしい。

「やってしまえ! その硝子玉を奪い取れ!」

ゼフィルスが叫ぶ。

役人たちが一斉に杖を構えた。彼らの持つ杖は、量産品のようで、先端に安っぽい魔石が嵌め込まれている。

「抵抗するな! 『束縛のバインド・チェーン』!」

数人の役人が同時に魔法を放った。

空中に光の鎖が現れ、蛇のように吾輩に向かって伸びてくる。

「……五月蝿いな」

吾輩は、テーブルの上の硝子球を手に取った。

「君たち、硝子という物質の特性を知っているか」

「何を……?」

「硬くて、脆い。そして何より、よく響くのだよ」

吾輩は、持っていた樫の杖で、硝子球の側面を軽く叩いた。

チン。

澄んだ音がした。

だが、それは始まりに過ぎない。

吾輩は、その音の周波数を解析し、それを増幅させ、空間全体に共鳴させるイメージを構築した。

すべての物体には、固有振動数というものがある。

それに合わせた振動を与え続ければ、どんなに堅固な構造物でも、内部から崩壊する。タコマ橋が風で落ちたのも、ワイングラスが歌声で割れるのも、この理屈だ。

「聞け。これが『共振』の歌だ」

吾輩は杖で床をドンと突いた。

『天賦の才《波動共振・固有振動数》』

キィィィィィィィン!

耳には聞こえない、しかし鼓膜を圧迫する強烈な高周波が、店内を満たした。

狙うのは、人間ではない。

彼らが頼りにしている「道具」だ。

彼らの杖の先端にある安物の魔石。そして、ヴァレリウスのかけている眼鏡のレンズ。

それらの結晶構造が持つ固有振動数に対し、的確な音波を叩き込む。

ピシッ。

音がした。

「な、なんだ?」

役人の一人が杖を見た。

パリーン!

次の瞬間、杖の先にはまっていた魔石が、一斉に砕け散った。

「うわあっ!」

「魔石が!」

魔法の媒体を失った光の鎖が、霧散して消える。

「な、何をした!?」

ヴァレリウスが叫ぼうとした時、彼の鼻の上でも異変が起きた。

パリン。

銀縁の眼鏡のレンズに亀裂が入り、粉々に砕け散ったのである。

「ああっ! 私の眼鏡が!」

ヴァレリウスは慌てて顔を覆い、その場にうずくまった。

「……道具に頼りすぎるからだ」

吾輩は静かに言った。

「君たちは、魔法という借り物の力、眼鏡という借り物の視界でしか世界を見ていない。だから、そのレンズが割れた途端に、何もできなくなる」

吾輩は、硝子球を高く掲げた。

このエジソン電球は割れていない。なぜなら、吾輩がその振動数を計算し、共振の対象から外しているからだ。

「見よ。真の理を知る者の道具は、決して砕けない。……砕けるのは、君たちの薄っぺらい権威と、その曇ったレンズだけだ」

「ひ、ひぃぃ……」

ゼフィルスが腰を抜かして後ずさりする。

護衛の役人たちも、武器を失い、狼狽している。

「……帰りたまえ」

吾輩は杖を突きつけた。

「そして、その商人に伝えるがいい。『物の価値を知らぬ者に、宝を持つ資格はない』とな」

「お、覚えていろ! 管理局への反逆だぞ! ただで済むと思うな!」

ヴァレリウスは割れた眼鏡を押さえながら、捨て台詞を吐いて逃げ出した。役人たちも、這うようにして後を追う。ゼフィルスに至っては、顔面蒼白で失禁しているようだった。

嵐が去った後の店内には、割れた魔石とレンズの破片がキラキラと散らばっていた。

「……すげえ」

カウンターの中で、レイが口を開けていた。

「爺さん、あんた何をやったんだ? 音だけで相手の武器を壊すなんて、聞いたことがねえぞ」

「物理だよ。……共鳴現象だ」

吾輩は席に戻り、茶の残りを飲み干した。

「オペラ歌手が高い声でグラスを割るのと同じだ。もっとも、彼らの道具があまりに安物で、構造が均一すぎたのが敗因だがな」

「……師匠」

ミナが、尊敬と畏怖の入り混じった目で吾輩を見ている。

「やっぱり、師匠はすごいです。……でも、大丈夫ですか? あんな偉い人たちを敵に回して」

「大丈夫なものか」

吾輩は苦笑した。

「これでまた、この街での暮らしにくさが増したことは間違いない。……智に働けば角が立つとは、よく言ったものだ」

吾輩は窓の外を見た。

あの毒々しい空の下、権威とシステムに守られた彼らは、きっとまた新たな手立てを考えて、吾輩を排除しようとするだろう。

だが、不思議と不安はなかった。

懐の中の硝子球と手帳。そして、目の前にいるこのおかしな連中。

彼らがいる限り、吾輩はまだ、この異世界で「猫背」のまま生きていけるような気がした。

「……レイ、掃除を頼む。破片が足に刺さると危ない」

「へいへい。人使いの荒い賢者様だ」

レイが箒を持ってくる。

日常が戻ってくる。

しかし、その日常の皮一枚下には、管理者とかいう存在の作った冷徹なシステムが、脈々と流れているのだ。

吾輩はその事実に、薄ら寒いものを感じながらも、午後の惰眠を貪るために、三毛猫を探して二階へと上がっていった。

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