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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第26話 真空の価値と鑑定の愚

公園での一幕を終え、吾輩が宿屋「フクロウの止まり木亭」に戻った頃には、胃の腑が空洞であることを訴え始めていた。

芸術論を戦わせるのも、物理の講釈を垂れるのも、結局はカロリーという名の熱量を消費する運動に他ならない。精神が高揚すればするほど、肉体という器は正直に燃料を要求する。人間とは、どこまでいっても管の集合体であり、その管の中を何かが通過しなければ、思想も哲学も生まれてはこないのである。

「……戻ったぞ」

吾輩が扉を開けると、そこには予想通りの怠惰な空気が漂っていた。

店主のレイは、カウンターの中で新聞らしき紙を広げ、欠伸を噛み殺している。ミナはテーブルの一角を占領し、何やら怪しげな光を放つ石ころを並べて、独り言を呟いていた。

「お帰りなさい、師匠! 遅かったですね!」

ミナが顔を上げる。その眼帯の下の瞳が、またしても期待に輝いているのが分かる。

「散歩が長引いただけだ。……レイ、飯はあるか。まともな固形物が食いたい」

「へいへい。ちょうど市場で良い羊肉が手に入ったとこだ。香草焼きでいいか?」

「構わん。固くて噛み切れぬような代物でなければな」

吾輩は指定席となった窓際のテーブルに腰を下ろした。

ここからは、往来を行き交う人々の姿がよく見える。彼らは相変わらず、虚空に浮かぶステータス画面とやらに一喜一憂しながら、忙しなく足を動かしている。まるで、見えざる糸に操られた操り人形の行進だ。

「師匠、見てくださいよこれ!」

ミナが手元の石を吾輩の目の前に突き出した。

「魔石です! 昨日の地下室で拾ったんですけど、これ、すごくないですか? 魔力がビンビン来てます!」

「……石ころだな」

吾輩は素っ気なく答えた。

「ただの石ころじゃありません! 『鑑定』スキルで見たら、レア度Aだったんですよ! Aですよ、A!」

鑑定。

またその言葉か。

吾輩は顔をしかめた。

この世界の住人は、物の価値を自らの目で見極めようとはしない。システムが弾き出した「ランク」という記号を盲信し、それがAであれば宝物として崇め、Fであればゴミとして捨て置く。

審美眼の放棄である。思考の怠慢である。

利休が河原の石ころに美を見出し、茶碗として愛でたような、精神の自由さがここにはない。

「……Aだから何だと言うのだ。その石が、君の魂を揺さぶるのかね。それとも、ただ高く売れるから嬉しいのかね」

「む……。そりゃあ、強い武器が作れますし、売ればお小遣いになりますけど……」

ミナは口を尖らせた。

「師匠は夢がないですねえ。レアアイテムってだけで、ワクワクするじゃないですか」

「ワクワクするのは、その記号に対してであって、石そのものに対してではないだろう。……まあいい。子供の収集癖にケチをつける趣味はない」

その時、店の扉が乱暴に開かれた。

カランカラン、とベルがけたたましく鳴る。

入ってきたのは、仕立ての良い服を着た、小太りの男であった。

指には金や宝石の指輪をこれ見よがしに嵌め、首からはジャラジャラと金鎖を下げている。顔は脂ぎり、その目は絶えず動き回り、金目のものを探して品定めをしている。見るからに成金という風情の男だ。

背後には、護衛らしき屈強な男を二人従えている。

「ここか。噂の『大賢者』が逗留しているという宿は」

男は尊大な声で言った。

レイが面倒くさそうに顔を上げた。

「……いらっしゃい。食事か? それとも宿泊か?」

「ふん、こんな煤けた店で食事ができるか。私は商談に来たのだ」

男は鼻を鳴らし、店内を見回した。そして、窓際で茶を啜っていた吾輩を見つけると、大股で近づいてきた。

「あんたか。ナツメ・ソウセキというのは」

「……如何にも吾輩がナツメだが。君は誰かね」

「私はゼフィルス。王都でも五指に入る魔導具商会、『金色の翼』の会頭だ」

ゼフィルスと名乗った男は、勝手に吾輩の向かいの席に座り込んだ。椅子が悲鳴を上げる。

「単刀直入に言おう。先日の『白の塔』の一件で、あんたが手に入れた『古代の遺物』。それを譲ってほしい」

古代の遺物。

あの地下室にあった機械仕掛けの残骸のことか。

「……あれは、王宮騎士団が回収したはずだが」

「表向きのガラクタはな。だが、私の情報網によれば、あんたは『核』となる部品を持ち帰ったはずだ。……違うか?」

男の目が、蛇のように細められた。

なるほど。

吾輩の懐にある、あの手帳と硝子球のことか。どこから漏れたかは知らんが、ハイエナのような嗅覚だ。

「持ち帰った覚えはないな。……仮にあったとして、それをどうするつもりだ」

「決まっているだろう。研究して、量産して、売りさばくのさ」

ゼフィルスは下卑た笑みを浮かべた。

「古代兵器の動力源。もし解析できれば、魔石に代わる新たなエネルギー資源になる。巨万の富が転がり込むぞ。……あんたにも、相応の礼はする。金貨一千枚でどうだ」

金貨一千枚。

庶民が一生遊んで暮らせる額だ。レイが聞けば目を丸くして飛びつくかもしれない。

だが、吾輩の心は、氷のように冷え切っていた。

あの手帳の持ち主は、この世界に科学の光を灯そうとして挫折した。彼の遺した技術を、またしても金儲けと戦争の道具にしようというのか。

死者の魂を冒涜するにも程がある。

「……断る」

吾輩は静かに言った。

「何?」

「金の問題ではない。あれは、売り物ではないのだ」

「強欲な爺さんだ。……じゃあ、二千枚だ。これなら文句はあるまい」

「言葉が通じんな」

吾輩は茶を飲み干した。

「一億枚積まれても売らんよ。……あれは、吾輩の友人の形見のようなものだ。友の骨を売る趣味はない」

「友人? 数百年前の遺物が友人なわけあるか。ボケるのも大概にしろ」

ゼフィルスは苛立たしげに机を叩いた。

「いいから出せ。……まさか、隠し持っているのを知らないとでも思っているのか」

男は、懐から片眼鏡を取り出した。

魔道具『真実のルーペ』。隠蔽された魔力やアイテムを見通す、鑑定士必携の道具だという。

彼はそれを覗き込み、吾輩の懐あたりを凝視した。

「……ほら、あるじゃないか。その懐に。微弱だが、異質な波動を感じるぞ」

男は護衛に目配せをした。

「おい、確保しろ。……年寄りだ、手荒な真似はするなよ。商品に傷がつくと困る」

「へい」

護衛たちが、にじり寄ってくる。

レイがカウンターから飛び出そうとしたが、吾輩はそれを手で制した。

「……野暮な真似はよせ」

吾輩は、ゆっくりと懐に手を入れ、それを取り出した。

エジソン電球である。

フィラメントの切れた、ただのガラス球。

「これのことか」

吾輩はテーブルの上に、コトリとそれを置いた。

「……なんだ、これは?」

ゼフィルスは片眼鏡を当てて、しげしげとそれを眺めた。

「ただのガラス玉か? いや、中に何か入っているな。……『鑑定』!」

彼がスキルを発動した瞬間、ガラス球がぼんやりと光り、彼の片眼鏡に情報が表示されたのであろう。

ゼフィルスの顔が、期待から失望へ、そして怒りへと変わっていった。

「……は?」

彼は呆れたような声を出した。

「『名称:壊れた照明器具』『ランク:F(廃棄物)』……だと?」

彼は硝子球を掴み上げ、放り投げようとした。

「ふざけるな! こんなゴミを大事そうに抱えていたのか! 私が欲しいのは、もっとこう、Sランクの魔道具とか、古代の魔導回路とか、そういうものだ!」

吾輩は、すかさず手を伸ばし、空中で硝子球をキャッチした。

「……乱暴に扱うな」

吾輩の声は、地底から響くように低かった。

「これはゴミではない。文明の結晶だ」

「ハッ! 鑑定スキルが『廃棄物』と判定したんだぞ! システムがゴミだと言ったら、それはゴミなんだよ!」

ゼフィルスは唾を飛ばして喚いた。

「あんた、ボケてるんじゃないか? そんな役に立たないガラクタに執着して。……これだから、レベルの低い人間は困る」

「役に立つ、か」

吾輩は、硝子球を愛おしげに掌で転がした。

「君たちは、常に『役に立つか否か』でしか物の価値を計れんのだな。ランクがSなら宝、Fならゴミ。……その貧困な想像力が、世界を狭くしていることに気づかんのか」

「負け惜しみを言うな! 価値とは客観的なデータだ! 数字だ! それが全てだ!」

「違うな」

吾輩は、静かに首を振った。

「価値とは、見出すものだ。……君には、このガラス球の中に何が見える」

「何って……ただの空っぽのガラスだろうが。中には変な黒い糸くずが入っているだけだ」

「空っぽではない」

吾輩は、硝子球を高く掲げた。窓からの光が透過し、フィラメントの影をテーブルに落とす。

「ここには『真空』が入っている」

「……は? シンクウ?」

「そうだ。何もない、という状態が、厳密に保存されている。……君は知っているか? この地上において、完全な無を作り出し、それを維持することが、どれほど困難で、高度な技術を要するかを」

吾輩は熱っぽく語り始めた。

「空気を抜く。ただそれだけのことに、人類は数千年の歳月を費やした。トリチェリの水銀柱、ゲーリケの半球実験。……多くの学者が、『無』の存在を証明するために生涯を捧げたのだ。このガラス球は、その英知の末端に位置する工業製品だ。魔法でポンと出した真空ではない。計算と加工技術の粋を集めて作られた、人工の『無』なのだよ」

ゼフィルスは、口をぽかんと開けていた。吾輩の言っている意味が、まるで理解できていない顔だ。

「……なにを訳の分からないことを。空っぽは空っぽだろうが」

「分からんか。……ならば、もう一つ教えてやろう」

吾輩は、硝子球を指先で弾いた。

チーン、と澄んだ音が響く。

「このガラス球は、ただの容器ではない。かつてこの世界に絶望し、それでもなお光を灯そうとした男の、魂の鳥籠だ」

「魂だの鳥籠だの、詩人気取りか? そんな戯言で、そのゴミのランクが上がるわけじゃあるまい」

「ランクなど、どうでもいい」

吾輩は冷徹に言い放った。

「君の『鑑定』スキルとやらは、既存のデータベースにある物差しでしか物を測れんのだろう。過去の誰かが決めた価値基準、システム上の定価。……そんな借物の眼鏡でしか世界を見られない君に、この『未知なる遺産』の価値が分かるはずもない」

「き、貴様……私を愚弄するか!」

「愚弄しているのではない。哀れんでいるのだ」

吾輩は、ゼフィルスの顔を真っ直ぐに見据えた。

「君は商人のくせに、自分の目を持っていない。システムに言われた通りの値段をつけ、右から左へ物を流すだけの流通機械だ。……そんな男に、この硝子球を触る資格はない」

「……言わせておけば!」

ゼフィルスは顔を真っ赤にして、護衛に合図を送った。

「やれ! このふざけた爺さんを痛めつけて、そのガラクタを叩き割ってやれ!」

護衛の男たちが、拳を鳴らして迫ってくる。

レイがカウンターを飛び越えようとした。

だが、それより早く、吾輩は動いた。

魔法など使わない。

ただ、テーブルの上の水差しを手に取り、中身をぶちまけただけだ。

バシャッ!

水が、護衛たちの足元に広がる。

「うわっ、何をしやがる!」

男たちが足を滑らせそうになる。

「『摩擦係数』の操作など、するまでもない」

吾輩は杖を突き、床に広がった水溜まりを指差した。

「ただの水だ。だが、この床は石畳で、油汚れが付着している。そこに水を撒けばどうなるか。……物理の基本だよ」

護衛の一人が、踏ん張ろうとして足を滑らせ、見事に転倒した。

ドシン!

その衝撃で、もう一人の護衛もバランスを崩し、将棋倒しになる。

「ぐえっ!」

無様なものだ。

「……何をしている! さっさと立て!」

ゼフィルスが喚く。

「お引き取り願おうか」

吾輩は、転がっている護衛たちを跨ぎ、ゼフィルスの前に立った。

「この店は、食事をする場所だ。商談をする場所でも、乱闘をする場所でもない。……それに、君のつけているその香水、臭いがきつすぎて、料理の味が分からなくなる」

「な、なんだと……!」

「帰れと言っているのだ。……それとも、君も『慣性の法則』を体験したいかね」

吾輩が杖を少し持ち上げると、ゼフィルスは「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさりした。

先日のマクシミリアンの噂を聞いているのだろう。この老人が、見た目通りの弱者ではないことを、本能が警告したらしい。

「お、覚えていろ! 『金色の翼』を敵に回したことを後悔させてやる!」

ゼフィルスは、転がっている護衛たちを蹴飛ばし、逃げるように店を出て行った。

「……いてて。ちくしょう」

護衛たちも、慌てて這い出し、主人の後を追っていく。

店内に、再び静寂が戻った。

「……やれやれ」

吾輩は椅子に座り直し、ため息をついた。

「せっかくの食事が台無しだ」

「……すげえな、爺さん」

レイが呆れたように言った。

「大商会の会頭を、水一杯で追い返すとはな。……それに、あの説教。真空がどうとか、俺にはさっぱり分からなかったが、なんだか凄味だけはあったぞ」

「はったりだよ」

吾輩は苦笑した。

「相手が理屈を知らぬのをいいことに、煙に巻いただけだ」

「でも、師匠」

ミナが、硝子球を覗き込みながら言った。

「この中には、本当に『無』が入ってるんですか?」

「ああ。空気がない。だから、中の線が燃え尽きずに光るのだ」

吾輩は硝子球を指で弾いた。

「何もないことが、役に立つこともある。……世の中、数字やランクだけで測れるものばかりではないということだよ」

「……ふうん」

ミナは分かったような分からないような顔をして、自分の拾った魔石を見つめ直した。

「じゃあ、この石も、ランクAだけど、本当はもっと凄い価値があるかもしれないですね!」

「さあな。それは君が見つけることだ」

吾輩は、ようやく運ばれてきた羊肉の香草焼きにナイフを入れた。

肉は柔らかく、香草の香りが食欲をそそる。

「……美味い」

口に運ぶと、肉汁が溢れ出した。

これだ。

金貨一千枚よりも、Sランクの魔道具よりも、今の吾輩にとっては、この一皿の料理の方が遥かに価値がある。

「価値とは、主観的なものだ」

吾輩は、窓の外の青空を見上げた。

あの毒々しい空の下、人々は相変わらず数字に追い立てられて生きている。

だが、この薄暗い酒場の中で、不味い麦粥や、美味い羊肉を食い、猫を撫で、ガラクタを愛でる生活。

それこそが、吾輩にとっての「Sランク」なのかもしれない。

懐の硝子球が、心なしか温かい。

それは物理的な熱ではなく、自分の価値観を守り通したという、小さな誇りの熱であった。

「……レイ、おかわりだ。今日は奢ってくれ」

「へいへい。出世払いでな」

レイが苦笑いしながら、ビールサーバーの栓をひねった。

吾輩は、この奇妙で騒がしい、しかし憎めない異世界での一日を、もう少しだけ楽しんでやることにした。

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