第25話 無色の画架とプリズムの幻影
不味い麦粥を啜り終えた後、吾輩は早々に宿を出ることにした。
朝から王立魔導学院などという象牙の塔の住人に説教を垂れたせいで、どうにも胸のあたりがむかむかする。あの手の連中は、一度追い払ったところで、蜂の如く仲間を連れて戻ってくるのが相場である。これ以上、貴重な午前中の時間を、彼らの退屈な自尊心を満たすために費やすのは御免だ。
「レイ、ミナ。吾輩は少し散歩に出る」
「へいよ。昼までには戻れよ、爺さん」
「お土産待ってます!」
二人の能天気な声を背に、吾輩は路地へと踏み出した。懐には三毛猫ではなく、昨夜手に入れた『道化の告白』が入っている。猫はどこかへ遊びに行ったらしい。薄情なものだが、そこが猫の良いところでもある。
王都の朝は、相変わらず活気に満ちていた。
だが、その活気は、神田の市場のような生活感のある騒々しさではない。何やら切迫した、強迫観念に駆られたような忙しなさである。
行き交う人々は、誰もが虚空に浮かぶ硝子板――ステータス画面とやらを睨みながら歩いている。
「今日の経験値効率は……」
「クエストの報酬が……」
ブツブツと呟くその姿は、まるで狐に化かされた病人のようだ。彼らは目の前の風景を見ていない。路傍に咲く花も、軒先で欠伸をする犬も、彼らにとっては「データ」以外の何物でもないのだろう。
「……味気ない世界だ」
吾輩は嘆息し、大通りを避けて公園らしき緑地へと足を踏み入れた。
そこは、王都の喧噪から切り離された、一種のエアポケットのような場所であった。
手入れの行き届いた芝生、噴水、そしてベンチ。
だが、そこでもやはり、異様な光景が繰り広げられていた。
「ハッ! セイヤッ!」
若い男が一人、一心不乱に木の幹を殴り続けている。
拳からは血が滲んでいるが、止める様子はない。彼の頭上には、時折『筋力+1』などという文字が浮かんでいるらしい。それを見ては、男は恍惚とした表情を浮かべ、また拳を振るう。
隣では、杖を持った女が、何もない空に向かって延々と火の玉を打ち上げている。
「熟練度上げ、熟練度上げ……」
呪文のように唱えながら、同じ動作を何百回と繰り返す。
これは修行ではない。作業だ。
彼らは、自らの肉体や精神を鍛えているのではない。ただ、システム上の数値を増やすために、単純作業を繰り返す機械に成り下がっている。
「……見るに堪えん」
吾輩は顔を背けた。
人間が人間であることを放棄し、数字の奴隷となる。その姿は、阿片窟で夢を見ている中毒者よりも、さらに救いようがないように思える。
吾輩は、そんな「作業場」と化した広場を離れ、さらに奥まった、人気のない池のほとりへと向かった。
そこには、奇妙な先客がいた。
古びたイーゼルを立て、キャンバスに向かっている一人の青年である。
身なりは貧しい。絵の具で汚れたスモックを着て、髪はボサボサだ。だが、その背中には、先ほどの連中のような殺伐とした空気がない。ただ静かに、目の前の風景と対峙している。
吾輩は興味を惹かれ、足音を忍ばせて近づいた。
キャンバスに描かれているのは、王都の空であった。
あの、毒々しいまでに青い、絵の具をぶちまけたような空ではない。
灰色と、薄い紫と、そして微かな金色の光が混じり合った、複雑で、どこか寂しげな空の色だ。
「……ほう」
吾輩は思わず声を漏らした。
「いい色だ」
青年は驚いたように振り返った。
痩せこけた頬に、大きな目。その瞳は、どこか怯えたような、しかし芯の強い光を宿している。
「……あ、ありがとうございます」
青年はどもりながら言った。
「でも、これ、未完成なんです。……あの空の色が、どうしても出せなくて」
彼は、筆の先で空を指した。
「みんなは、あの空を『青』だと言います。『スカイブルー』という色コードで決まっていると。でも、僕にはそうは見えないんです。もっとこう、いろんな色が混ざり合って、叫んでいるような……」
「君の目は正しいよ」
吾輩は、池の縁に立った。
「空の色は単色ではない。大気中の塵や水蒸気が、太陽の光を散乱させて生まれる色だ。光の波長によって、青にも見えれば、赤にも見える。見る者の心の在り様によっても、その色は変わる」
「……光の、散乱?」
「物理だよ。……レイリー散乱という」
吾輩は杖で空を指した。
「君が描いているその色は、君の心の色だ。システムが決めた色コードなどという無粋なものより、よほど真実に近い」
青年の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか……! 僕、ギルドの人たちには馬鹿にされてばかりで……。『そんな役に立たない絵を描いて何になる』って。『レベルも上がらないし、金にもならない』って」
「愚か者の戯言だ。耳を貸す必要はない」
吾輩は断言した。
「芸術とは、役に立つか立たないかで計るものではない。魂を揺さぶるかどうかだ。君の絵には、少なくとも吾輩の足を止めさせるだけの力がある」
「……嬉しいです。初めて、そんなことを言われました」
青年は涙ぐんだ。
その時、無粋な足音が静寂を破った。
「おい、またここにいたのか、落ちこぼれ」
現れたのは、派手な服を着た男たちであった。
腰には剣を下げ、胸には何やら立派なギルドの紋章をつけている。先日、あくび亭で騒いでいた冒険者たちと同類の手合いだ。
「レベル5の『絵描き』なんていうゴミジョブが、一丁前に芸術家気取りか?」
男の一人が、イーゼルを蹴り飛ばした。
ガシャン!
キャンバスが地面に落ち、泥にまみれる。
「ああっ!」
青年が悲鳴を上げて駆け寄る。
「何をするんだ! 僕の大切な絵が!」
「うるせえよ。ここは俺たちの縄張りだ。邪魔なんだよ、その貧乏臭い道具が」
男たちは嘲笑いながら、さらに絵の具箱を踏みつけた。
チューブが破裂し、極彩色の絵の具が地面に広がる。
「……やめたまえ」
吾輩は静かに言った。
「ああん? なんだ爺さん、このゴミの連れか?」
男がすごんでくる。
「ゴミではない。画材だ。そして、君たちが踏み躙ったのは、ただの布と絵の具ではない。一人の人間の尊厳だ」
「尊厳? はっ、笑わせるな」
男は唾を吐いた。
「この世界じゃな、レベルとステータスが全てなんだよ。こいつみたいに、何の役にも立たないスキルしか持ってない奴は、生きているだけで迷惑なんだよ」
「……そうか」
吾輩は杖を握り直した。
「ならば、君たちは役に立つのかね」
「当たり前だろ! 俺たちはレベル30越えのランカーだぞ! 魔物を倒して、街の経済に貢献してるんだ!」
「魔物を倒すのが役に立つなら、君たちのような害獣を駆除するのも、また社会貢献と言えるかもしれんな」
「……何だと?」
男の顔色が変わる。
「爺さん、死にたいのか?」
剣が抜かれた。殺気が肌を刺す。
青年が震えながら、吾輩の前に出ようとした。
「逃げてください、お爺さん! この人たちは本気です!」
「下がりなさい」
吾輩は青年を手で制した。
「君は、その絵を拾ってやりたまえ。泥を拭けば、まだ助かるかもしれん」
「で、でも……」
「いいから拾え。……芸術を守るのは、画家の仕事だ。外敵を排除するのは、暇人の仕事だよ」
吾輩は、男たちの前に立ちはだかった。
「さて、君たち。レベル30と言ったな」
「おうよ。怖じ気づいたか?」
「いや。……ただ、君たちの見ている世界が、いかに狭く、色褪せているかを教えてやろうと思ってな」
吾輩は、懐からあの硝子球を取り出した。
エジソン電球。昨夜は光を放ったが、今はただのガラス玉だ。
だが、ガラスにはガラスの性質がある。
屈折。反射。そして、分光。
「光あれ」
吾輩は呟き、太陽の光を硝子球に集めた。
魔法ではない。レンズの原理だ。
そして、硝子球の内部構造、その屈折率を、脳内の計算式に従って瞬時に書き換える。
『天賦の才《光学的干渉・プリズム分光》』
硝子球を通った光が、七色に分解され、扇状に広がった。
それは、虹であった。
男たちの目の前に、目も眩むような鮮やかな光の帯が出現する。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
単なる七色ではない。それぞれの色の間に、無数のグラデーションが存在する、無限の色彩のスペクトルだ。
「うわっ、なんだ!?」
「目が、目がチカチカする!」
男たちが顔を覆う。
「君たちが『青』だと信じ込んでいた光の中には、これだけの色が含まれているのだよ」
吾輩は静かに説いた。
「世界は、君たちが思っているほど単純ではない。数字一つで割り切れるものでもない。この無限の色相を見ても、まだ『白か黒か』『強いか弱いか』などという貧相な物差しでしか物を測れんのか」
「う、うるせえ! 目潰しか! 卑怯な!」
男の一人が、目を押さえながら剣を振り回した。
だが、視界を奪われた剣など、当たるはずもない。
吾輩は杖で、男の持っていた剣の腹を軽く叩いた。
カィン。
硬質な音が響き、剣が手から離れて地面に落ちる。
「……帰れ」
吾輩は言った。
「そして、家に帰って鏡を見るがいい。君たちの顔が、いかに単調で、つまらない色をしているかを確認するためにな」
男たちは、這うようにして逃げ出した。
「お、覚えてろ!」
「呪い使いだ!」
捨て台詞を残し、彼らは公園の外へと消えていった。
静寂が戻る。
吾輩は硝子球を下ろした。七色の光が消え、いつもの風景が戻ってくる。
「……すごいです」
青年が、泥を拭ったキャンバスを抱えて、呆然と立っていた。
「今の光……魔法ですか?」
「物理だよ。太陽の光を分けただけだ」
吾輩は答えた。
「君の言っていた通りだ。空の色は一つではない。世界には、無限の色が隠されている。……それを見つけるのが、君の仕事だろう」
青年は、大きく頷いた。その瞳には、先ほどまでの怯えはなく、新たな創作意欲の炎が宿っていた。
「はい! 僕、描きます! 誰に何と言われようと、僕に見える世界を描き続けます!」
「結構なことだ」
吾輩は、泥まみれの絵の具箱から、一本のチューブを拾い上げた。
「セルリアンブルーか。……悪くない色だ」
それを青年に渡すと、吾輩は踵を返した。
「お爺さん! お名前は!」
背後から声がかかる。
「……通りすがりの、暇人だよ」
吾輩は手をひらりと振って、歩き出した。
名乗るほどの者ではない。
ただ、若き芸術家の魂が、無粋な数字の暴力によって折られるのを防ぎたかっただけだ。それは、かつて『草枕』で画工の世界に遊ぼうとした、吾輩なりの感傷に過ぎない。
公園を出ると、正午の鐘が鳴っていた。
腹が減った。
朝の麦粥は消化が良すぎる。
「レイの店に戻るか。……今日は、何かまともなものを作らせよう」
吾輩は杖をつき、雑踏の中へと戻っていった。
行き交う人々は、相変わらずステータス画面を見つめ、数字の奴隷として歩いている。
だが、吾輩の目には、彼らの背後に広がる街の風景が、先ほどよりも少しだけ色彩豊かに見えた。
世界は美しい。
ただ、人間がそれを忘れているだけなのだ。
懐の『道化の告白』が、衣擦れの音と共に、カサリと鳴った。
その音は、まるで「その通りだ」と同意してくれているかのように、吾輩の胸に響いたのである。




