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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第24話 仮面の告白と象牙の塔

宿屋『フクロウの止まり木亭』の夜は、古寺のように静まり返っていた。

階下からは、時折レイの寝言や、床板がきしむ音が微かに聞こえてくるのみである。窓の外には、毒々しいまでに明るい二つの月が中天にかかり、白の塔が相変わらず無機質な光を放っているが、この薄汚れた一室だけは、外界の喧騒から切り離された別天地のようであった。

「……さて、と」

吾輩は枕元のランプの芯を少し上げ、先ほど古本屋で手に入れた『道化の告白』という書物を開いた。

革表紙は手脂で黒光りし、ページを捲るたびに、埃と黴の混じった、古文書特有の甘酸っぱい香りが立ち昇る。それは、知識の墓場の匂いであり、同時に、忘れ去られた魂の蘇生する匂いでもある。

三毛猫が、吾輩の膝の上で丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らしている。この振動が、書物を読む際の良い伴奏となるのだ。

読み始めてみると、この本は予想通り、実に陰気で、そして愉快な書物であった。

著者は、数百年前に存在したとされる王国の宮廷道化師であるらしい。彼は、来る日も来る日も白粉を塗りたくり、鈴のついた帽子を被り、玉座の前でトンボを切っては、王や貴族たちの機嫌を取っていた。

しかし、その仮面の下で、彼がいかに冷徹な観察眼を持っていたか。

《人間は皆、数字という名の衣装を纏いたがる。王は『レベル』という王冠を、騎士は『スキル』という剣を。だが、ひとたびその衣装を剥ぎ取れば、そこに残るのは、ただの怯えた猿に過ぎない》

《私は笑う。彼らが、自分の顔ではなく、仮面の美しさを競い合っているからだ。私は泣く。彼らが、仮面が肌に癒着して外れなくなっていることに気づいていないからだ》

吾輩は膝を打ちたくなる衝動に駆られた。

まさに、我が意を得たりである。

この世界の住人は、ステータス画面に表示される数値こそが己の正体だと信じ込んでいる。レベルが上がれば人間としての格が上がったと錯覚し、レアなスキルを得れば選ばれた存在になったと増長する。

だが、それは借り物の衣装に過ぎない。

システムという名の貸衣装屋が、気まぐれに貸し与えた羽織袴だ。ひとたびそのシステムが崩壊すれば、彼らは裸の王様として、寒風の中に放り出されることになるだろう。

「……呪い、か」

古本屋の老婆は、この本が呪われていると言った。読んだ者は発狂するか、失踪すると。

なるほど、分かる気がする。

この本には、世界の欺瞞が書かれている。人間社会という舞台の、書き割りの裏側が暴露されている。そのような「真実」に触れてしまえば、もはや今までのように、無邪気に舞台の上で踊り続けることはできまい。

真実を知ることは、ある種の狂気である。

正常な世界がおかしいのか、おかしいと感じる自分が狂っているのか。その境界線が曖昧になり、やがて社会という枠組みから脱落していく。それを世間では「発狂」や「失踪」と呼ぶのだろう。

「……吾輩は、とうの昔に狂っているのかもしれんな」

吾輩は自嘲気味に呟き、ページを捲った。

こころの先生が、明治の世に馴染めず、自らのエゴイズムに沈潜していったように、吾輩もまた、この異世界という巨大な虚構の中で、異物として浮遊している。

だが、不思議と寂しくはなかった。

この本を書いた道化師もまた、孤独な異物であったのだから。

時空を超えて、同じように世界を斜めから睨みつけていた友を得たような、奇妙な連帯感があった。

「ニャー」

三毛猫が、夢の中で何かを捕まえたのか、小さく鳴いて足を動かした。

「……そうだな。お前も、仮面など被らんからな」

吾輩は猫の耳を軽く摘まんだ。

猫はいい。レベルもスキルも関係なく、ただ猫として生き、猫として眠る。その潔さが、人間には決定的に欠けている。

本を読み進めるうちに、いつしか東の空が白み始めていた。

徹夜をしてしまったらしい。だが、頭は妙に冴えていた。脳髄が、古いインクの毒気にあてられて、覚醒しているようだ。

「……朝か」

吾輩は本を閉じ、大きく伸びをした。

窓を開けると、朝霧の中に、王都の街並みが青白く浮かび上がっていた。

白の塔が、朝日に照らされて、巨大な象牙の角のように輝いている。

「象牙の塔、とはよく言ったものだ」

学者が現実に背を向け、殻に閉じこもる様を揶揄した言葉だが、この世界の魔導師たちもまた、あの塔の中で、数字という名の積み木遊びに興じているに過ぎないのではないか。

昨夜の学生たちの顔が目に浮かぶ。

『俺たちは選ばれたエリートだ』

彼らはそう言った。

何も生み出さず、何も守らず、ただ与えられた特権にあぐらをかいて、他者を見下す。

「……不愉快な連中だ」

吾輩は顔を洗い、着物を整えた。

今日は、まだ予定がない。

またあの古本屋へ行って、老婆と無駄話でもするか。それとも、昨日のラーメン屋で、コカトリスの出汁の秘密でも探るか。

そんなことを考えていると、階下から騒がしい声が聞こえてきた。

「おい、店主! ここにナツメ・ソウセキという男がいるはずだ! 出せ!」

「朝からうるせえな。うちはまだ開店前だぞ」

レイの不機嫌そうな声と、何やら甲高い、神経質な男の声が言い争っている。

またか。

吾輩は嘆息した。英雄になった覚えはないが、どうやら有名税の取り立ては、予想以上に厳しいらしい。

「……レイ、客かね」

吾輩が階段の上から声をかけると、ロビーにいた数人の男たちが一斉に見上げた。

そこにいたのは、昨夜の古本屋で追い払った学生たちではなかった。

もっと年配の、しかし学生たちと同じような、尊大な空気を纏った男たちである。

全員が、お揃いの濃紺のローブを着ている。胸には、金糸で刺繍された紋章。杖を持っているが、それは武器というよりは、権威を示すステッキのように装飾過多な代物であった。

先頭に立つ男は、白髪交じりの髪を撫でつけ、鼻の上に銀縁の眼鏡を乗せている。神経質そうに釣り上がった目と、への字に結ばれた薄い唇。見るからに「教頭」といった風情の男だ。

「貴様が、ナツメか」

男は、吾輩を見るなり、侮蔑の色を隠そうともせずに言った。

「如何にも吾輩がナツメだが。……君たちは?」

「私は、王立魔導学院の教授、バルトアンデルスである。こちらは学院の理事たちだ」

王立魔導学院。

この国のエリート魔導師を育成する最高学府であり、権威と既得権益の総本山であるらしい。昨夜の若造どもが所属している動物園だ。

「教授殿が、朝早くから何の用かね。課外授業の誘いならお断りするよ」

吾輩が階段を下りていくと、バルトアンデルスは鼻を鳴らした。

「ふん、減らず口を。……単刀直入に言おう。昨夜、我が学院の生徒に対し、暴行を働いたそうだな」

「暴行? 人聞きが悪いな」

吾輩はロビーの椅子に腰を下ろした。

「彼らが店を焼こうとしたので、少しばかり理科の実験を見せてやっただけだ。酸素がなければ火は燃えん、とな」

「黙れ! 生徒たちは、精神的苦痛を受けたと訴えている! 魔力を封じられ、侮辱的な言葉を浴びせられたと!」

バルトアンデルスは顔を紅潮させて叫んだ。

「彼らは、将来この国を背負って立つ選ばれた人材だ。それを、どこの馬の骨とも知れぬ老いぼれが、傷つけるなど言語道断! 即刻、謝罪してもらおう!」

なるほど。

子供の喧嘩に親が出てくる、とはよく言ったものだが、ここでは学校が出てくるらしい。過保護も極まれりだ。

「……謝罪、か」

吾輩は、テーブルの上に置かれた冷めた茶を一口すすった。

「君、教育者なら、まずは生徒の言い分だけでなく、事の経緯を調べるのが筋ではないかね。彼らが古本屋で何をしようとしたか、知っているのか」

「問答無用! 我が学院の生徒が、市井のゴロツキに後れを取るなどあってはならんのだ! これは学院のメンツに関わる問題だ!」

メンツ。

またその言葉だ。

彼らにとって重要なのは、正義でも真実でもない。組織の体面と、自分たちの権威が傷つかないことだけなのだ。

赤シャツが、自分の非を認めず、論理をすり替えて坊っちゃんを追い詰めたやり口とそっくりである。

「……くだらん」

吾輩は吐き捨てるように言った。

「メンツだの権威だの、そんなものはメッキの剥げたブリキの勲章と同じだ。君たちは、生徒に魔法を教える前に、恥という概念を教えた方がいい」

「き、貴様……!」

バルトアンデルスの後ろにいた理事たちが、杖を構えた。

「教授への侮辱は許さん!」

「ここであの世へ送ってやる!」

「やめろ!」

レイがカウンターから飛び出し、棍棒を構えて割って入った。

「店の中で暴れるんじゃねえ! 弁償させるぞ!」

「ふん、冒険者風情が。我々に逆らって、この国で生きていけると思うなよ」

バルトアンデルスは冷ややかに笑った。

「我々は王宮とも太いパイプを持っている。その気になれば、こんな店など明日には取り潰せるのだぞ」

権力を笠に着た脅迫。

典型的な小悪党の台詞だ。

だが、吾輩の心は、不思議と凪いでいた。

怒りよりも、呆れと、そして哀れみが勝っていたからだ。

「……君たちは、象牙の塔に閉じこもって、外の世界が見えなくなっているらしいな」

吾輩は立ち上がり、懐から一冊の本を取り出した。

昨夜読んだ、『道化の告白』である。

「この本を知っているか」

「……何だ、その薄汚い古本は」

「『道化の告白』だ。かつてこの国にいた道化師が書いた、魂の記録だよ」

吾輩は本を掲げた。

「ここには、君たちのような人間が描かれている。仮面を被り、数字で飾り立て、中身のない権威にしがみつく、哀れな道化としてな」

「何を訳の分からないことを!」

「分からないか。……ならば、少しばかり『実演』してみせよう」

吾輩は、杖ではなく、その本を持ったまま、バルトアンデルスの方へ歩み寄った。

「君、レベルは幾つだ」

「は? ……レベルなど、とうにカンスト(上限到達)している! 私は大魔導師だ!」

「そうか。では、そのカンストした魔力で、この本を燃やしてみたまえ」

吾輩は本を差し出した。

「はっ、馬鹿にするな! そんなボロ本、指先一つで灰にできるわ!」

バルトアンデルスは、無造作に指を弾いた。

着火イグニッション

初歩的な火魔法だ。

だが、本は燃えなかった。

「……な?」

バルトアンデルスは眉をひそめ、もう一度指を弾いた。

火球ファイアボール

今度は少し大きな火の玉が、本に直撃した。

しかし、炎は本の表紙を舐めるように滑り、煙一つ立てずに消滅した。

「な、なぜだ!? なぜ燃えん!」

バルトアンデルスが狼狽する。

「魔力が……吸われている?」

理事たちもざわめき始めた。

「魔法防御か? いや、結界の反応はないぞ」

「物理だよ」

吾輩は静かに言った。

「この本の表紙には、特殊な加工がしてあるわけではない。ただ、吾輩が少しばかり、熱伝導率を操作しただけだ」

『天賦の才《熱伝導率・無限大》』

本に与えられた熱エネルギーを、瞬時に周囲の空間へ拡散させる。熱が一点に留まらない限り、物質の発火点には到達しない。

「どんなに強大な魔力で熱を与えても、それが逃げてしまえば、紙一枚焦がすことはできん。……君たちの権威と同じだよ」

吾輩は、バルトアンデルスの目の前に本を突きつけた。

「君たちは、学院という看板、教授という肩書き、レベルという数字で武装しているつもりだろうが、その実体は、熱を持たない空っぽの器だ。情熱も、信念も、真理への探究心もない。ただシステムの上で胡坐をかいているだけだ」

吾輩は、冷徹な目で彼を見下ろした。

「だから、君の言葉には熱がない。熱がないから、人の心には届かんし、燃やすこともできんのだよ」

バルトアンデルスは、顔面蒼白になって後ずさりをした。

魔法を無効化されたことへの恐怖ではない。

自分の存在そのものを、根底から否定されたことへの、根源的な恐怖である。

「き、貴様……何者だ……」

「ただの書生だと言ったはずだ。……帰るがいい。そして、生徒たちに伝えろ。『悔しかったら、レベルを上げる前に、本を読め』とな」

吾輩は踵を返した。

「……行くぞ、レイ。朝飯の続きだ」

「へ、へいよ」

レイも呆気にとられていたが、慌てて厨房へと戻っていった。

バルトアンデルスたちは、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて逃げるように店を出て行った。捨て台詞さえ吐く余裕もなかったらしい。

静寂が戻る。

「……ふう」

吾輩は大きく息を吐き、椅子に座り込んだ。

疲れた。

朝から説教などするものではない。

「師匠! かっこよすぎです!」

二階からミナが駆け下りてきた。見ていたらしい。

「また伝説を作っちゃいましたね! 『王立学院の教授を、古本一冊で撃退した男』! これはいけますよ!」

「……茶化すな」

吾輩は苦笑した。

だが、手の中にある『道化の告白』は、先ほどよりも少しだけ、掌に馴染んでいるような気がした。

この本を守れたこと。それだけは、悪い気分ではなかった。

「さて、飯だ。……レイ、今日はパンではなく、米が食いたい気分だが」

「米? そんなもんねえよ。麦粥で我慢しな」

「……やれやれ」

吾輩は窓の外を見た。

白の塔が、相変わらずすまして立っている。

その足元にある「象牙の塔」に、少しばかりひびを入れてやった。

そのひび割れから、新しい風が吹き込むことを願いつつ、吾輩は不味い麦粥をすするのであった。

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