第23話 無用の長物と活字の夜
王都の夜は、毒々しいまでに明るい。
空には二つの月が浮かび、地上には魔石灯の列が続いている。それらが放つ光は、ガス灯の柔らかさも、行灯の暖かみもなく、ただ物理的な明るさだけを強調した、無神経な輝きであった。影さえもが、あまりの光量に縮こまり、路地の隅へと追いやられているように見える。
「……眩しいな」
吾輩は目を細め、杖で石畳を叩いた。
「まるで、眠ることを忘れた子供の玩具箱だ。こうも煌々と照らされては、幽霊も出る幕がない」
「幽霊? 出るんですか、師匠!」
隣を歩くミナが、期待と恐怖の入り混じった声で食いついてくる。眼帯の下の瞳がどうなっているかは知らぬが、露出している左目は、夜行性の獣のように爛々と輝いている。
「出んよ。これだけ人工の光が溢れていては、闇に潜む魑魅魍魎も、居心地が悪くて逃げ出してしまうだろう」
「ちぇっ、つまんないの」
ミナは唇を尖らせ、手にした杖をブンブンと振り回した。危ないことこの上ない。
「おいおい、爺さん。散歩ってのはいいが、どこへ行くつもりだ。この先は職人街だぞ。酒場もねえし、面白い見世物もねえ」
レイが欠伸を噛み殺しながらついてくる。彼は、酒が飲めない散歩には興味がないらしい。
「本屋だ」
吾輩は短く答えた。
「本屋? 魔導書なら、この前行った店にあるだろう」
「あんなものは本ではない。ただの説明書だ。吾輩が探しているのは、もっとこう、魂の滋養になるような、役に立たない文字の羅列だよ」
「役に立たねえ文字? ……また変なことを言い出すな、この爺さんは」
レイは呆れて肩をすくめたが、それでも帰ろうとはせずに着いてくる。根がお人好しなのか、あるいは単に暇なのか。おそらく両方であろう。
吾輩たちは、賑やかな大通りを外れ、迷路のような路地へと足を踏み入れた。
職人街と呼ばれるこの界隈は、表通りの喧騒とは打って変わり、静まり返っていた。槌音も絶え、多くの工房は戸を閉ざしている。ただ、所々の窓から漏れるランプの灯りが、職人たちの夜なべ仕事を告げているだけであった。
カツ、カツ、と杖の音が響く。
しばらく歩くと、崩れかけた煉瓦造りの建物の角に、今にも消え入りそうな看板がぶら下がっているのを見つけた。
『古書・稀覯本 蜘蛛の糸』
なんと陰気な名前だろう。だが、その陰気さが、吾輩の嗅覚を刺激した。
「……ここだ」
「うわあ、お化け屋敷みたい」
ミナが身震いをする。
「本屋というよりは、魔女の隠れ家だな」
レイも顔をしかめる。
構うものか。吾輩は、軋む音を立てる木の扉を押し開けた。
チリン、と錆びたベルが鳴る。
店内は、期待通りの黴臭さに満ちていた。
床から天井まで、乱雑に積み上げられた本の山。通路は人が一人やっと通れるほどの隙間しかない。埃と紙の匂いが、澱んだ空気の中で沈殿している。これだ。この窒息しそうなほどの密閉感こそが、古本屋の醍醐味である。
「……いらっしゃい」
本の山の奥から、しわがれた声がした。
カウンターらしき机の向こうに、一人の老婆が埋もれるように座っていた。鼻眼鏡をかけ、分厚い本に顔をうずめている。まるで、文字の海に溺死した土左衛門のような風情だ。
「見るだけかね。それとも、何か探し物かい」
老婆は顔も上げずに言った。
「活字を探している。……魔術の使い方は書いてない、ただの読み物をな」
吾輩が言うと、老婆はピクリと眉を動かし、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は濁っているようでいて、奥底に鋭い光を宿している。
「……読み物、かね。珍しい客だ」
老婆はよっこらせと立ち上がり、ランプを掲げた。
「今の世の中、文字を読むのはスキルの習得か、商売の帳簿をつける時くらいのものさ。物語だの哲学だのを求める物好きは、絶滅したと思っていたがね」
「絶滅危惧種として保護してもらいたいところだが、生憎と繁殖する相手もいなくてな」
吾輩が軽口を叩くと、老婆はヒヒヒと乾いた笑い声を上げた。
「いいだろう。……そこの棚だ。埃を被っているが、中身は腐っちゃいないよ」
老婆が指差したのは、店の最奥、蜘蛛の巣が張った暗い一角であった。
吾輩は杖をつき、その棚の前へと進んだ。
レイとミナは、入り口付近で手持ち無沙汰にしている。ミナは何やら古びた地図のようなものを引っ張り出し、レイは欠伸をして柱に寄りかかっている。彼らには、この空間の聖性が理解できんらしい。
棚には、革表紙の重厚な本が並んでいた。
背表紙の文字は、現代の共通語ではない。シルヴィアの屋敷で見たのと同じ、古代語である。
『失われた都の夢』『虚無への独白』『道化の告白』
タイトルだけで、吾輩の心は躍った。ここには、システム化される前の、人間の生の声が眠っている。効率や利益のために書かれたのではない、魂の排泄物としての文章。
吾輩は一冊を手に取った。
『道化の告白』。著者は不明。
ページをめくると、手書きの文字が目に飛び込んできた。
《私は笑う。世界が泣いているからだ。私は泣く。世界が笑っているからだ。仮面の下の素顔を、誰も知ろうとはしない……》
「……ほう」
悪くない。
内容は、宮廷道化師として生きた男の、世間に対する呪詛と、哀愁に満ちた独白録であった。権力者の顔色を窺い、道化を演じながら、その実、誰よりも醒めた目で世界を見ていた男の記録。
まるで、どこかの世界で教師をしていた、偏屈な男の手記のようだ。
「気に入ったかね」
背後から老婆の声がした。
「ああ。……シンパシーを感じるよ」
「それは結構。……だが、それを買っていくには、金だけじゃあ足りないよ」
「何?」
吾輩が振り返ると、老婆はニヤリと笑った。歯が数本抜けている。
「その本はね、呪われているんだよ。前の持ち主は、それを読んで発狂した。その前の持ち主は、読み終わった翌日に失踪した。……あんた、それに耐えられるだけの『正気』を持っているかい」
呪い。
またその手の話か。
「脅し文句にしては陳腐だな。書物というものは、多かれ少なかれ読者の精神を蝕む毒を含んでいるものだ。毒にも薬にもならん本など、読む価値はない」
吾輩は平然と言い放った。
「発狂結構。失踪上等。……吾輩の精神は、そんな柔なものではないよ」
「……ヒヒ、威勢がいいねえ」
老婆は満足げに頷いた。
その時である。
店の扉が、乱暴に開かれた。
「おい婆さん! あるか! 『絶炎の魔道書』は!」
ドカドカと入ってきたのは、数人の若者であった。
身なりは良いが、品がない。胸には、どこかの魔術学院の校章らしきバッジをつけている。王都の貴族の子弟といったところか。
「……うるさいねえ。ここは酒場じゃないんだよ」
老婆が顔をしかめる。
「うるさいとは何だ! 俺たちは客だぞ!」
リーダー格の若者が、カウンターをバンと叩いた。
「明日の試験までに、上級魔法を覚えなきゃならないんだ。金なら払う。一番手っ取り早くレベルが上がるやつを出せ!」
「手っ取り早く、ねえ」
老婆は冷ややかな目で若者たちを見た。
「生憎と、うちはスキルブック屋じゃないんだ。楽をして賢くなりたければ、他を当たりな」
「なんだと!? このボロ屋が、客を選り好みするのか!」
若者が杖を振り上げた。短絡的だ。思い通りにならなければすぐに暴力に訴える。この世界の若者の精神構造は、幼児の段階で止まっているのか。
「おい、やめろ」
レイが柱から背中を離し、低く言った。
「婆さんが困ってるだろうが。ガキはミルクでも飲んで寝てな」
「なっ、なんだ貴様は! 薄汚い野郎だ!」
若者たちがレイを睨みつける。
「俺たちは王立学院の生徒だぞ! 無礼な口を利くと、どうなるか分かっているのか!」
「王立学院だか動物園だか知らねえが、マナーのなってねえ奴は客じゃねえ。帰んな」
レイが威圧的に一歩踏み出すと、若者たちはたじろいだ。実戦経験の差だ。レイから漂う血の匂いに、温室育ちの彼らは本能的に恐怖したのだろう。
だが、恐怖は時として、無謀な攻撃性を生む。
「や、やっちまえ! こんな店、焼き払ってやる!」
若者の一人が、錯乱したように詠唱を始めた。
「炎よ、集え! 我が怒りを薪として……」
狭い店内で火を使えばどうなるか。古本はよく燃える。一瞬で火の海だ。
「……馬鹿者が」
吾輩は嘆息し、本を閉じた。
杖を握るまでもない。
「『燃焼の三要素』を知らんのか」
吾輩は呟き、若者の手元を指差した。
可燃物、熱源、そして酸素。この三つが揃わなければ、火は起きない。
『天賦の才《酸素遮断・窒息》』
若者の手元の空間から、酸素分子だけを弾き出す。
ボシュッ。
若者の杖の先に灯りかけた炎が、音もなく消えた。
「え……?」
若者が呆然とする。
「な、なぜだ!? 詠唱は完璧だったのに!」
「詠唱が完璧でも、理屈が通っていなければ現象は起きんよ」
吾輩は書架の陰から姿を現した。
「君たち、魔法を覚える前に、まずはロウソクの火がなぜ燃えるか、その理屈を勉強したまえ。ファラデーという偉い学者が書いた『ロウソクの科学』という本がある。まあ、この世界にはないだろうがな」
「な、なんだこの爺さんは!」
若者たちが吾輩を指差す。
「無礼な! 俺たちは選ばれたエリートだぞ! こんな古臭い店で、カビの生えた本を漁っているような底辺とは違うんだ!」
「エリート、か」
吾輩は鼻で笑った。
「知識を詰め込み、数字を競い、他者を見下すことでしか己の価値を確認できん者を、吾輩の世界では『ガリ勉』と呼んで軽蔑したものだがね」
吾輩は、手にした『道化の告白』を掲げた。
「君たちは、この本をゴミだと言うだろう。スキルも覚えず、レベルも上がらず、何の役にも立たないと。……だがな、ここには『心』が書いてある。悩み、苦しみ、それでも生きようとした人間の記録がある」
吾輩は、若者たちの目を一人一人見据えた。
「君たちに、その価値が分かるか。効率と結果だけを求める君たちの薄っぺらい精神に、このインクの重みが耐えられるか」
「……な、何を訳の分からないことを!」
若者たちは顔を見合わせ、後ずさりをした。
吾輩の言葉の意味が分からないのではない。吾輩の背後に漂う、圧倒的な「格」の違いに気圧されているのだ。数字ではない、存在としての重圧に。
「レイ、追い払え。……本の虫が驚いて逃げてしまう」
「へいよ」
レイがボキボキと指を鳴らして近づくと、若者たちは「お、覚えてろ!」と捨て台詞を残して、逃げるように店を飛び出していった。
静寂が戻る。
「……やれやれ」
吾輩は肩の力を抜いた。
「騒がしい夜だ。これでは、幽霊も寄り付かん」
「……ヒヒ、いいものを見せてもらったよ」
カウンターの奥で、老婆が笑っていた。
「あんた、ただの書生じゃあないね。……その本、持って行きな。代金はいらないよ」
「タダというわけにはいかん。……労働の対価は払う主義だ」
吾輩はポケットから、王宮で出されたクッキーを包んだ紙を取り出し、カウンターに置いた。
「金貨はないが、これでどうだ。王様の菓子だ。甘いものは脳に良い」
老婆は目を丸くし、それからクッキーを一枚摘んで口に入れた。
「……甘いねえ。久しぶりに、こんな上等なものを食ったよ」
老婆は満足げに目を細めた。
「持って行きな。その本は、あんたに読まれるのを待っていたんだから」
「感謝する」
吾輩は『道化の告白』を懐に仕舞った。
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
路地の暗がりの中で、ミナが興奮気味に言った。
「師匠、かっこよかったです! あいつら、尻尾を巻いて逃げちゃいましたね!」
「かっこいいのではない。年寄りの説教だ。……嫌われるだけだよ」
吾輩は自嘲した。
「でも爺さん、いいのか? あいつら、また面倒な連中を連れてくるかもしれんぞ」
レイが心配そうに言う。
「その時はその時だ。……それに、吾輩には強い味方ができたからな」
吾輩は懐の本を叩いた。
「こいつを読んで、古人の知恵を借りれば、小僧っ子の数人や数十人、言葉の綾で煙に巻くことなど造作もない」
「へっ、さすがは大賢者様だ。……いや、文豪先生と言うべきか」
レイがニヤリと笑う。
三人は、月明かりの下を並んで歩いた。
二つの月が、静かに影を落としている。
その影は、昼間の毒々しい日差しの下で見るよりも、どこか優しく、そして深みを含んでいるように見えた。
「さて、帰って読書だ」
吾輩は杖をつき、歩調を早めた。
懐の中の本が、微かに熱を帯びているような気がした。それは魔法の熱ではない。時を超えて、誰かの想いが伝わってくる、確かな体温のようなものであった。
「……智に働けば角が立つが、本を読めば情が移る。……それもまた、悪くはない」
吾輩は独りごちて、あくび亭の灯りを目指した。
遠くで、夜警の笛が鳴っている。
異世界の夜は、まだ始まったばかりである。




