第22話 蜜の味と惰眠の権利
白亜の塔を出た時、東の空はすでに白み始めていた。
朝霧が立ち込める王都の街並みは、昨夜の狂騒が嘘のように静まり返っている。地下で世界を揺るがすような大騒動があったことなど、露知らぬ顔で眠りこけているのである。世界というものは、個人の事情になど頓着せず、ただ無神経に回転し続ける巨大な水車のようだ。
「……やれやれ、骨が軋む」
吾輩は煤だらけの着物の袖を払いながら、大きく伸びをした。
雷撃を身体に通した余韻か、指先がまだ微かに痺れている。電気療法と思えば健康に良いのかもしれんが、あのような荒療治は二度と御免だ。
「爺さん、大丈夫か。顔色が土気色だぞ」
隣を歩くレイが、心配そうに覗き込んでくる。彼もまた、あちこちに擦り傷を作り、自慢の革鎧は泥まみれだ。だが、その表情には、憑き物が落ちたような晴れやかさがある。
「心配無用だ。ただの寝不足と、空腹だよ」
吾輩は杖をつきなおした。
「それより、早く宿へ戻ろう。三毛猫が腹を空かせて待っている」
「また猫かよ。……まあ、いいけどな」
レイは苦笑し、背後のミナを振り返った。
「おいミナ、歩けるか」
「……うう、眠いですぅ」
少女は、レイの背中に半ばおぶさるようにして歩いている。魔力を使い果たしたのだろう。いつもの中二病的な虚勢はどこへやら、今はただの疲れ切った子供である。眼帯が少しずれているのが、いじらしいと言えなくもない。
吾輩たちは、まだ人影のまばらな大通りを抜け、旧市街の路地へと入った。
石畳を叩く靴音が、朝の静寂に吸い込まれていく。
道中、吾輩は懐の中にある硝子球の感触を確かめた。
あの古代兵器を止めた、エジソン電球。
かつてこの世界に絶望した転生者が遺した、科学の灯火。
それが今、吾輩の手の中で、ただの冷たいガラス玉に戻っている。役目を終えたのだ。
「……文明とは、儚いものだな」
吾輩は独りごちた。
高度な技術も、深遠な理論も、使い手が途絶えればただの遺物となる。魔法という安易なシステムに流れたこの世界で、彼の遺した「理屈」は、誰にも理解されずに朽ちていく運命だったのだろう。
だが、少なくとも吾輩は知っている。
このガラス玉の中に込められた、孤独な魂の叫びを。
「……供養は済んだ、と思いたいがね」
吾輩は小さく呟き、硝子球を懐の奥深くに仕舞い込んだ。
宿屋『フクロウの止まり木亭』にたどり着いたのは、朝日が完全に昇りきった頃であった。
扉を開けると、ロビーのソファで、宿の老婆が舟を漕いでいた。その膝の上で、三毛猫が丸くなっている。
「……戻ったか」
物音に気づいた老婆が、ゆっくりと目を開けた。
「遅いお帰りだね。……猫が待ちくたびれて、私の膝を占領しちまったよ」
「すまんことをした」
吾輩が近づくと、三毛猫は「ニャー」と一声鳴いて、吾輩の足元に飛び降りてきた。そして、煤で汚れた吾輩の着物に構わず、身体を擦り付けてくる。
「……ただいま」
吾輩はしゃがみ込み、猫の頭を撫でた。
温かい。
地下室の冷たい鉄塊とは違う、命の温もり。
世界を救ったという高揚感よりも、この小さな獣の体温の方が、吾輩の心をどれほど慰めてくれるか知れない。
「さあ、飯にしよう。……婆さん、何か食うものはあるか」
「あるよ。昨日の残りのシチューと、硬いパンだがね」
「それで十分だ」
吾輩たちは、泥のように重い身体を引きずってテーブルに着いた。
出された食事は、冷めていたが、五臓六腑に染み渡る味がした。
「……生き返る」
レイがパンをかじりながら言った。
「全くだ。……王宮の料理よりも、ここのシチューの方が、よほど口に合う」
吾輩も匙を動かした。
ミナは、食べながら既に船を漕いでいる。
「……限界だな」
レイがミナを抱え上げた。
「俺たちは先に休むぜ。爺さんも、無理するなよ」
「ああ。吾輩もすぐに寝る」
二人が部屋へ消えた後、吾輩は最後の一口を腹に収め、茶を啜った。
窓の外では、街が活動を始めている。
荷車の音、商人の売り声。昨日と変わらぬ、平和な日常の音だ。
彼らは知らない。自分たちの足元で、数時間前まで世界を滅ぼしかねない危機が進行していたことを。
知らぬが仏と言うが、大衆とは常に、薄氷の上で踊る道化のようなものだ。
だが、それを嘲笑う気にはなれなかった。
その無知な平穏を守るために、吾輩のようなへそ曲がりが、少しばかり骨を折るのも、まあ悪くはない。
「……さて、寝るとするか」
吾輩は三毛猫を抱き上げ、三階の自室へと向かった。
煎餅のような薄い布団に横たわると、意識は瞬く間に泥沼の底へと沈んでいった。
次に目を覚ましたのは、日が西に傾きかけた頃であった。
「……よく寝た」
吾輩は欠伸をしながら起き上がった。
身体の節々が痛むが、気力は充実している。
枕元には三毛猫がいない。またどこかへ散歩に出かけたのだろう。
階下へ降りると、ロビーが何やら騒がしい。
「だから、ナツメ先生にお会いしたいと言っているのです!」
「先生は寝ておる。邪魔をするんじゃないよ」
聞き覚えのある声と、宿の老婆のしわがれた声が言い争っている。
吾輩が階段の途中から覗くと、そこにいたのは、王宮の侍従らしき男であった。豪奢な制服を着て、手には大きな包みを持っている。
「……騒々しいな。吾輩の安眠を妨害するのは誰だ」
吾輩が声をかけると、侍従はパッと顔を輝かせた。
「おお、先生! お待ちしておりました!」
男は恭しく一礼した。
「国王陛下よりの勅命により、約束の品をお持ちいたしました」
「約束の品?」
「はい。『国で一番美味い菓子』でございます」
ああ、そういえば。
別れ際に、そんな軽口を叩いたような気がする。まさか、本当に持ってくるとは。王という人種も、案外と律儀なものらしい。
「……通せ」
吾輩はロビーのテーブルを指差した。
侍従はうやうやしく包みを解いた。
中から現れたのは、漆塗りの重箱のような木箱であった。蓋を開けると、甘い香りがふわりと漂う。
そこには、宝石のように色とりどりの菓子が並んでいた。
砂糖漬けの果実、焼き菓子、そして見たこともないゼリーのようなもの。
「これは、王室御用達の菓子職人、ジャン・ピエールが、先生のために特別に焼き上げたものでございます」
「ほう。……では、頂こうか」
吾輩は一つ、琥珀色をしたゼリーのようなものを摘み上げた。
口に含む。
「……!」
強烈な甘みではない。果実の酸味と、上品な甘さが絶妙な均衡を保ちながら、舌の上で溶けていく。
「……悪くない」
吾輩は唸った。
「羊羹のような粘り気がありながら、後味は淡雪のごとく消える。……なるほど、これが王の食卓か」
「お気に召しましたか」
「ああ。少なくとも、この国の政治よりは、菓子職人の腕の方が信用できるようだ」
吾輩が皮肉を言うと、侍従は苦笑いをした。
「……陛下からは、伝言も預かっております」
侍従は姿勢を正した。
「『白の塔は掃除された。これよりは、風通しも良くなるであろう』と」
「そうか」
吾輩は二つ目の菓子、ナッツの入ったクッキーをかじった。
ガストン一派は一掃され、王も心を入れ替えたということか。
「……陛下に伝えてくれ。『窓を開け放つのは結構だが、網戸くらいはつけておけ。でないと、また変な虫が入ってくるぞ』とな」
「……は、はい。必ずお伝えします」
侍従は目を丸くしたが、深く頭を下げて去っていった。
「爺さん、なんだかいい匂いがするぞ」
鼻をひくつかせながら、レイが起きてきた。ミナも目をこすりながらついてくる。
「おお! すげえ! 高級菓子じゃねえか!」
レイが箱の中身を見て歓声を上げた。
「師匠、これ食べていいんですか!?」
ミナが涎を垂らさんばかりの顔で見つめてくる。
「構わんよ。吾輩一人では食いきれん」
「やったー!」
二人は餓鬼のように菓子に群がった。
「うめえ! これ、一個で銀貨何枚するんだ?」
「んー! ほっぺたが落ちそうです!」
その様子を眺めながら、吾輩は茶を啜った。
平和だ。
昨夜の死闘が嘘のような、弛緩した空気が流れている。
だが、この平和も、いつまで続くかは分からん。智に働けば角が立つ世の中だ。またすぐに、どこからか厄介事が舞い込んでくるに違いない。
「……まあ、その時はその時だ」
吾輩は、三つ目の菓子に手を伸ばした。
今はこの甘味と、惰眠の余韻に浸る権利があるはずだ。
その時、宿の入り口から、三毛猫がひょっこりと帰ってきた。
口には、何やら干し魚のようなものをくわえている。どこかの家の軒先から失敬してきたのだろう。
「やれやれ、お前もたくましいことだ」
吾輩は苦笑し、猫を手招きした。
「おいで。お前にも、王様の菓子を分けてやろう」
猫は魚を置き、吾輩の膝に飛び乗った。
そして、差し出した菓子をクンクンと嗅ぎ、興味なさそうにプイと横を向いた。
どうやら、猫にとっては、王室御用達の菓子よりも、盗んできた干し魚の方が価値があるらしい。
「……違いない」
吾輩は猫の背中を撫でた。
権威や名声など、猫にとっては無意味なものだ。そして本来、人間にとってもそうあるべきなのかもしれない。
ステータスだのレベルだのといった数字に踊らされ、本当に美味いものの味を忘れてしまっては、生きている意味がない。
「……師匠、何を笑ってるんですか?」
ミナが口をもぐもぐさせながら聞いた。
「いや。猫に教えられたと思ってな」
「猫に? 何をですか?」
「生きる極意だよ」
吾輩は立ち上がり、窓を開けた。
夕暮れの風が入ってくる。
白の塔は、相変わらず街を見下ろしているが、その輝きは昨日までのような冷たさを失い、どこか人間臭い、暖かみを帯びているように見えた。
「さて、明日は何をしようか」
「クエストに行きましょうよ! 私、新しい魔法を試したいんです!」
「俺は昼まで寝る。……と言いたいが、酒代を稼がないとな」
レイが肩をすくめる。
「吾輩は、そうだな。……古本屋巡りでもするか」
吾輩は杖をついた。
この異世界にも、まだ吾輩の知らない「言葉」が眠っているかもしれない。魔法やスキルではなく、人間の魂が刻まれた、真の言葉が。
それを探すのも、悪くない暇つぶしだ。
「……じゃあ、行こうか」
「え? 今からですか?」
「散歩だよ。腹ごなしには丁度いい」
吾輩は店を出た。
二つの月が昇り始めている。
影法師が三つ、長く伸びていく。
その先には、まだ見ぬ明日が、ぼんやりとだが、確かに広がっていたのである。




