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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第19話 擬似の麺条と権力の裏書き

路地裏の熱狂を背に、吾輩たちは逃げるように薄暗い小路を歩いていた。

背後からは、なおも「大賢者万歳」だの「騎士団ざまあみろ」だのという、無責任な歓声が追いかけてくる。彼らは、吾輩が勝ったから手を叩いているに過ぎない。もし吾輩があの白マントの男たちに切り刻まれていたなら、同じ口で「哀れな年寄りだ」と囁き合い、翌日には忘却の彼方へ葬り去っていたことであろう。

大衆とは、常に残酷な傍観者である。彼らにとって、他人の不幸は蜜の味であり、他人の勝利は一時の気晴らしに過ぎない。

「……五月蝿いことだ」

吾輩は杖で石畳をカツンと鳴らした。

「師匠、すごかったです! あんな風に魔法を跳ね返すなんて! あれも『物理』なんですか?」

ミナが興奮冷めやらぬ様子で、吾輩の袖を引っ張る。その眼帯の下の瞳が、どのような色を帯びているか知らぬが、露出している左目は、まるで活動写真のスターを見るような心酔の色を湛えている。

「物理だよ。運動量保存の法則だ。向かってくる物体に対し、それと同等以上の衝撃を逆方向から与えれば、物体は止まるか、あるいは跳ね返る。ビリヤードの球と同じ理屈だ」

「ビリヤード……? また不思議な言葉ですね」

「玉突きの遊戯のことだ。……まあ、君たちには馬の耳に念仏かもしれんが」

吾輩は嘆息した。

「おい爺さん、悠長に講釈を垂れてる場合じゃねえぞ」

レイが険しい顔で並んで歩く。いつもの眠そうなふやけた表情は消え、スラムの野良犬のような鋭い警戒心が見え隠れしている。

刚才さっきの連中は、ただの騎士じゃねえ。王宮直属の『特務隊』だ。ガストンの手足となって、汚れ仕事を専門に請け負う連中だぞ」

「特務、か。……聞こえはいいが、要するに権力公認のゴロツキということだろう」

「そうだ。奴らに手を出したってことは、爺さん、あんたは完全に国に喧嘩を売ったことになる。指名手配は免れねえぞ」

「構わんよ」

吾輩は平然と答えた。

「売られた喧嘩を買った覚えはないが、降りかかる火の粉を払っただけだ。正当防衛というやつだ。それに、あのような人攫いを公然と行う国になど、敬意を払う義理はない」

「……あんた、本当に肝が据わってるな。それとも、ただのボケ老人か?」

レイは呆れたように肩をすくめたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。どうやらこの男も、根っこの部分では権威というものを好まない、へそ曲がりの同類らしい。

しばらく歩くと、旧市街のさらに奥まった一角に、赤提灯ならぬ、煤けた魔石灯をぶら下げた一軒の屋台が見えてきた。

暖簾のれんには、異世界の文字で『東方麺』と書かれている。

漂ってくる匂いは、先ほどのトマトと油の臭気とは違い、どこか醤油に似た、発酵した豆の香ばしさと、出汁の香りが混じっている。

「……ほう」

吾輩は足を止めた。

「ここだ。ここなら、あるいは」

「へえ、こんな所に店があったのか。知らなかったな」

レイも鼻をひくつかせた。

暖簾をくぐると、中はカウンターだけの狭い店であった。客はいない。奥で、頭に手拭いを巻いた老爺が一人、湯気の立つ鍋を見つめている。

「やってるかね」

吾輩が声をかけると、老爺はゆっくりと振り返った。その顔は、枯れ木のように皺だらけで、しかし眼光だけは妙に鋭い。

「……いらっしゃい。見ない顔だね」

「旅の者だ。……蕎麦はあるか」

「ソバ? ……ああ、東の国の黒い麺か。生憎と、粉がない」

やはりか。

吾輩が落胆しかけた時、老爺はニヤリと笑って続けた。

「だが、似たようなもんならあるぞ。小麦の粉に、木灰の汁を混ぜて打った、黄色い麺だ。喉越しは悪くない」

「……頂こう」

吾輩は席に着いた。背に腹は代えられない。それに、木灰の汁、すなわち「かんすい」を使うとなれば、それは中華そばに近いものであろう。異世界でラーメンにありつけるとは思わなかった。

「あいよ。全部乗せでいいかい」

「構わん。三人前だ」

老爺は手際よく麺を湯に放り込んだ。

待つこと数分。

目の前に置かれたのは、湯気を立てる丼であった。

琥珀色のスープの中に、縮れた黄色い麺が泳いでいる。具は、炙ったチャーシューのような肉と、ねぎに似た野菜、そして煮卵だ。

見た目は、まさしく浅草の屋台で食べる支那そばである。

「……頂く」

吾輩は割り箸ならぬ、二本の細い木の棒を手に取り、麺を啜り上げた。

ズルズルッ。

「……!」

口の中に広がる、鶏ガラに似た鳥の出汁と、醤油のような塩気。麺は少し粉っぽいが、確かな弾力がある。

「美味い!」

ミナが叫んだ。

「なにこれ、すごいです! つるつるしてて、スープが絡んで!」

「ほう、こいつは驚いた。王都にこんな隠し球があったとはな」

レイも夢中で麺を啜っている。

吾輩も、無言で箸を進めた。

蕎麦ではない。しかし、これはこれで、一つの完成された宇宙である。

パスタのようにソースで誤魔化すのではなく、スープと麺という最小限の要素で勝負をする。その潔さが、吾輩の美学に合致する。

「……悪くない」

吾輩はスープを飲み干し、ふうと息をついた。

「親父、いい仕事だ。このスープ、ただの鳥ではないな」

「コカトリスのガラだよ。三日三晩煮込んだ」

老爺は無愛想に答えたが、その表情には職人特有の自負が滲んでいた。

「コカトリスか。石化の毒を持つ怪物だと聞いたが、出汁にすると毒が抜けるのかね」

「毒袋を取り除けば、極上の旨味が出る。……あんたら、刚才さっき騎士団と揉めてた連中だろう」

唐突に、老爺が言った。

箸を持つ手が止まる。

「……見ていたのか」

「噂だよ。下町の噂は、風より速い。白マントを小麦粉まみれにして追い返した爺さんがいるってな」

老爺は布巾でカウンターを拭きながら、吾輩をじろりと見た。

「気をつけな。奴らは執念深いぞ。特にガストンって男は、蛇のようにねちっこい。自分の面子を潰されたとなりゃ、どんな手を使ってでも報復に来る」

「……忠告、痛み入る」

吾輩は茶を啜った。

「だが、吾輩は逃げ隠れするつもりはない。悪いのは向こうだ。子供をさらって人体実験など、言語道断ではないか」

「正義感か。……結構なことだが、正義で腹は膨れんし、命も守れんぞ」

老爺は寂しげに笑った。

「昔、俺の息子もそう言って、騎士団の不正を暴こうとした。……翌日、城の裏手で死体になって見つかったよ。魔物に襲われたという処理でな」

店内の空気が重く沈んだ。

レイが箸を置き、ミナが俯く。

この王都の闇は、吾輩が想像していたよりも深く、そして根深いらしい。

「……すまないことを聞いた」

「いいさ。もう十年も前のことだ」

老爺は鍋の火を落とした。

「だから、あんたたちには死んでほしくないんだよ。……美味いと言って食ってくれる客は、貴重だからな」

「……親父」

吾輩は懐から、金貨を一枚取り出し、カウンターに置いた。

「釣りはいらん。……また来る。この麺が食えるうちは、吾輩は死なんよ」

「……へん、伊達な爺さんだ」

老爺は金貨を受け取り、少しだけ目元を緩めた。

店を出ると、夜の帳が完全に下りていた。

旧市街の路地は暗く、遠くに見える「白の塔」の輝きだけが、不気味に空を焦がしている。

「さて、どうする」

レイが言った。

「宿に戻るか? 騎士団が待ち伏せしているかもしれんぞ」

「だろうな。……だが、あの煎餅布団でも、野宿よりはマシだ」

吾輩は杖をつき、歩き出した。

「もし待ち伏せがあれば、また物理の授業をしてやるだけだ。夜間講習というやつだな」

「はは、違いない」

レイが笑い、ミナも元気を取り戻してついてくる。

宿屋『フクロウの止まり木亭』に戻ると、意外にも周囲は静まり返っていた。騎士団の姿はない。

だが、ロビーに入った瞬間、吾輩は違和感を覚えた。

いつもの編み物をしている老婆がいない。

代わりに、ロビーの古びたソファに、一人の人物が座っていた。

深々とフードを被った、小柄な人影である。

「……誰だ」

レイが即座に剣の柄に手をかける。

人影はゆっくりと立ち上がり、フードを外した。

現れたのは、金髪の少年であった。いや、少女か。中性的な美貌に、あどけなさが残る顔立ち。しかし、その瞳は深い湖のように静かで、年齢不相応な知性を宿している。

身なりは質素だが、仕立ての良い服を着ている。どこかの貴族の子供だろうか。

「お待ちしておりました、ナツメ・ソウセキ殿」

少年は、鈴を転がすような声で言った。

「私は、アルフレッド。……この国の、第三王子です」

王子。

またしても、厄介な肩書きを持った人物の登場である。

吾輩は、やれやれと天井を仰いだ。

「王族が、こんなどぶ板のような宿に何の用かね。社会見学か」

「いいえ。……あなたに、助けを求めに来たのです」

アルフレッドと名乗った少年は、真剣な眼差しで吾輩を見つめた。

「ガストン宮廷魔導師長の暴走を止め、兄上……国王陛下を正気に戻すために」

事態は、吾輩の意志とは無関係に、急速にきな臭い方向へと転がり始めていた。

人攫いの次は、お家騒動か。

坊っちゃんが、田舎の中学校で赤シャツと狸の権力闘争に巻き込まれたように、吾輩もまた、この異世界の王都で、権力の泥沼に足を踏み入れようとしているらしい。

「断る、と言ったら?」

吾輩が試すように言うと、少年は悲しげに微笑んだ。

「それでも構いません。ですが、あなたが今日助けたあの少女……彼女はまだ、安全圏にいるわけではありませんよ」

「……何?」

「特務隊は、一度目をつけた獲物は逃がしません。今頃、彼女の家には……」

吾輩の脳裏に、あのパン屋の親父と、泣きじゃくる少女の顔が浮かんだ。

「……卑劣な」

吾輩は杖を強く握りしめた。

「分かりました。話を聞きましょう」

吾輩はソファにどかりと腰を下ろした。

「ただし、吾輩は気が短い。手短に頼むよ」

少年は深く頭を下げた。

「感謝します。……実は、白の塔の地下で、禁断の儀式が行われようとしているのです」

「儀式?」

「はい。『神降ろし』の儀式。……子供たちの命を触媒にして、古代の兵器を蘇らせる、狂気の実験です」

古代兵器。

また、ろくでもない単語が出てきたものだ。

吾輩は懐の硝子球、あのエジソン電球に触れた。

かつてこの世界にいた転生者は、科学の光で世界を照らそうとした。だが、今のこの国の支配者たちは、子供の命を燃やして、破壊の炎を呼び起こそうとしている。

文明の退化どころではない。これは、人間性の崩壊だ。

「……話は見えた」

吾輩は立ち上がった。

「その儀式とやら、いつ行われるのだ」

「明日の夜。……満月の刻です」

明日の夜。時間がない。

「レイ、ミナ。……忙しくなるぞ」

「へっ、最初からそのつもりだろ、爺さん」

「はいっ! 悪の魔導師をやっつけましょう!」

二人が頼もしく頷く。

吾輩は、窓の外を見た。

白の塔が、相変わらず冷ややかな光を放っている。だが、今はその光が、単なる照明ではなく、巨大な墓標の燐光のように見えた。

「智に働けば角が立つ。……だが、時にはその角で、腐った壁を突き崩さねばならん時もある」

吾輩は独りごちた。

異世界の「先生」として、最後の授業をする時が来たようだ。

科目は「道徳」、そして教材は「物理」である。

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