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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第18話 パンのみにて生きるにあらず

王都の大通りを外れ、石畳の継ぎ目が目立つ下町へ足を踏み入れると、そこには鼻腔を刺激する雑多な匂いが充満していた。

香辛料の鋭い香り、馬糞の臭気、そして何やら油で揚げたような脂っこい匂い。これらが渾然となって、胃袋を鷲掴みにするような暴力を振るってくる。

「……やはり、蕎麦はないか」

吾輩は嘆息した。

レイに案内されたのは、古びた屋台が軒を連ねる市場の一角であった。そこで供されるのは、麦粉を練って伸ばした紐状のものを、トマトや香草で煮込んだ西洋風の料理ばかりである。パスタとかいうらしい。

「爺さん、贅沢を言うなよ。ここの麺は腰があって美味いぞ」

レイがフォークで器用に麺を巻き取りながら言った。

「腰があるのと、硬いのとは違う。それに、この赤いソースはどうも血の池地獄を連想させて、食欲が減退する」

吾輩は皿の上の惨状を睨みつけた。

「美味しいですよ、師匠! ほら、あーん」

ミナが自分の皿からフォークを差し出してくる。その口元には、既に赤いソースがべっとりと付着しており、まるで人を食った後の鬼女のようだ。

「遠慮しておく。吾輩は、もっと淡白で、喉越しを楽しむような、枯淡の境地を味わいたいのだ」

「コタン? どこの田舎の料理ですか」

話が通じない。

味覚というものは、その土地の文化と精神の表れである。こってりとしたソースで素材の味を塗りつぶすこの世界の料理は、魔法で安直に結果を求める彼らの精神構造と軌を一にしているように思えてならない。

「……仕方がない。パンで我慢するか」

吾輩は、硬い黒パンをスープに浸した。

その時である。

市場の奥から、悲鳴が聞こえた。

「嫌だ! 離して! お父さん!」

子供の声だ。続いて、どよめきと、怒号が響く。

「おい、静かにしろガキ!」

「公務執行妨害で逮捕するぞ!」

吾輩はパンを置いた。

レイもフォークを止め、瞬時に目つきを変えた。先ほどまでの昼行灯のようなふやけた表情は消え、獲物を狙う野獣の眼光が宿っている。

「……きな臭いな」

「ああ。どうやら、食事の邪魔が入ったようだ」

吾輩は立ち上がり、杖を手に取った。

人だかりをかき分けて進むと、そこには不愉快な光景が広がっていた。

三人の男が、一人の少女を取り囲んでいる。少女は十歳にも満たないだろう。粗末な衣服を纏い、必死に抵抗しているが、男の一人に腕を掴まれ、引きずられている。

男たちは、あの上等な白マントを羽織っていた。

今朝、吾輩を城へ迎えに来た兵士と同じ、王宮騎士団の紋章が入っている。だが、その顔つきは騎士と呼ぶにはあまりに下卑ており、権力を傘に着たゴロツキそのものであった。

「何を見ている! これは王命による『素質調査』だ!」

男の一人が、遠巻きに見ている群衆に向かって怒鳴った。

「この娘には、稀有な魔力の素質がある。国のために保護し、教育を施すのだ。邪魔をする者は反逆罪とみなす!」

「保護? 嘘をつけ!」

群衆の中から、一人の男が飛び出した。少女の父親だろうか。エプロン姿の、見るからに善良そうなパン屋の親父だ。

「先月連れて行かれた隣の家の息子は、二度と帰ってこなかったぞ! お前たちは、子供をどこへやっているんだ!」

「黙れ下郎!」

白マントの騎士が、腰の剣を抜き放った。

「貴様、我々を愚弄するか。騎士団への侮辱は重罪だぞ」

切っ先が、父親の喉元に突きつけられる。

群衆は息を呑み、後ずさりをした。誰も助けようとはしない。いや、できないのだ。圧倒的な権力と暴力の前では、正義感などというものは風前の灯火に過ぎない。

坊っちゃんが、理不尽な教頭や赤シャツに対して孤独な戦いを挑んだように、正義というのは常に、孤独で、非力なものなのかもしれない。

だが、吾輩は見て見ぬふりができるほど、大人にはなりきれていないらしい。

「……待て」

吾輩は、群衆の中から進み出た。

「誰だ、貴様は」

騎士が振り返る。

「通りすがりの、蕎麦好きの老人だよ」

吾輩は杖をつき、ゆっくりと彼らに近づいた。

「食事中に騒がしいのでね。どうした、その剣はパンを切るためのものか。それにしては、少しばかり大きすぎるようだが」

「……あ、爺さん!」

レイとミナが慌てて追いついてくる。

「何だこの薄汚いジジイは。浮浪者か?」

騎士は鼻で笑い、剣を父親から吾輩へと向け直した。

「失せろ。でなくば、その薄汚い着物ごと切り刻むぞ」

「威勢がいいな。だが、君たちのやっていることは、騎士の仕事というよりは、人攫いのそれに見えるがね」

「貴様……!」

騎士の顔が怒りで歪んだ。

「我々は、ガストン宮廷魔導師長の命を受けて動いている! 国の未来を担う優秀な人材を発掘しているのだ!」

ガストン。

また、あの狐男の名前か。

今朝の謁見の間で、吾輩の物理攻撃に手も足も出なかったあの男が、裏でこのような卑劣な真似を指揮しているとは。

「人材発掘、か。……聞こえはいいが、要するにモルモット集めだろう」

吾輩は冷ややかに言った。

「先日の『神隠し』の噂、やはり出所は白の塔であったか。子供をさらって、何をするつもりだ。人体実験か、それとも魔力の電池にでもする気か」

「き、貴様、なぜそれを……!?」

騎士が狼狽した。図星らしい。

「知れたことだ。腐った泥の臭いは、どれほど香水を振りかけても隠せぬものだよ」

吾輩は杖を構えた。

「娘を放せ。さもなくば、君たちに『慣性の法則』というものを思い出させてやる」

「狂人が! 死ね!」

騎士が剣を振り上げた。

同時に、残りの二人も詠唱を始める。

「『風のウィンド・カッター』!」

「『雷撃ライトニング』!」

魔法と剣の同時攻撃。一般人ならば、一瞬で肉塊に変えられているところだ。

だが、吾輩は動じない。

物理の世界において、全ての運動は予測可能である。

「遅い」

吾輩は呟き、杖を横になぎ払った。

魔法ではない。ただの運動エネルギーの操作だ。

『天賦の才《運動量保存・反転》』

迫り来る剣と魔法。その運動ベクトルを、180度反転させる。

ガギィン! ドォン!

騎士の剣は、見えない壁に弾かれたように跳ね返り、自分自身の鎧を強打した。風の刃と雷撃は、逆流して術者たちを襲う。

「ぐわああっ!」

「な、なんだ!?」

三人の男たちは、自らの攻撃を受けて吹き飛んだ。

パン屋の屋台に突っ込み、小麦粉を被って真っ白になる。白マントが本当の白装束になったわけだ。

「……な、何をした?」

リーダー格の騎士が、小麦粉まみれで起き上がり、震える声で問うた。

「何もしていない。君たちが投げた石が、壁に当たって跳ね返ってきただけだ」

吾輩は杖を下ろし、彼らを見下ろした。

「作用・反作用の法則だ。他人に害意を向ければ、それは必ず自分に返ってくる。因果応報というやつだよ」

「ば、化け物……! 覚えていろ!」

男たちは、捨て台詞を残して逃げ出した。

王都の騎士ともあろう者が、随分と逃げ足が速い。

「……ありがとうございます、ありがとうございます!」

パン屋の親父が、涙を流して吾輩の手を握りしめた。少女も、父親の腰にしがみついて泣いている。

「礼には及ばん。……飯が不味くなるのが嫌だっただけだ」

吾輩は照れ隠しにそっぽを向いた。

群衆から、歓声と拍手が巻き起こった。

「すげえぞ、爺さん!」

「騎士団を追い払っちまった!」

「英雄だ!」

またか。

吾輩は顔をしかめた。

彼らは、吾輩が勝ったから拍手をしているだけだ。もし吾輩が負けていたら、彼らは同じ口で「馬鹿な年寄りだ」と嘲笑ったことだろう。

大衆とは、常に無責任な傍観者である。

「行くぞ、レイ、ミナ」

吾輩は群衆をかき分け、その場を離れた。

「待ってくださいよ、師匠!」

ミナがついてくる。レイも、やれやれといった顔で後に続く。

路地裏に入り、ようやく喧騒が遠のいた。

「……爺さん、やっちまったな」

レイが低い声で言った。

「騎士団に喧嘩を売った上に、ガストンの名前まで出しちまった。これで完全に、国を敵に回したぞ」

「向こうが売ってきたのだ。吾輩はただ、返品したに過ぎん」

「返品ねえ。……だが、これで王都にはいられなくなったかもしれんぞ」

「構わんさ。元々、この街の空気は肌に合わん」

吾輩は、懐の硝子球に触れた。

あの地下室で拾った電球。科学の遺産。

そして今、目の当たりにした、魔法文明の暗部。

子供を犠牲にしてまで、彼らは何を求めているのか。より高いステータスか、より強力な魔法か。

「……人は、高みに登ろうとすればするほど、足元の泥沼にはまり込んでいくものらしい」

吾輩は独りごちた。

「師匠、これからどうするんですか?」

ミナが不安そうに尋ねる。

「まずは、本来の目的を果たす」

「本来の目的?」

「蕎麦だ」

吾輩は真顔で答えた。

「腹が減っては戦もできん。……どこかに、まともな麺料理を出す店はないのかね」

レイとミナは顔を見合わせ、それから同時に吹き出した。

「ははは! あんたって人は、本当に……」

「もう、師匠ったら! こんな時に!」

笑い声が、路地裏に響く。

その笑い声を聞きながら、吾輩は少しだけ救われた気分になった。

どんなに世界が狂っていても、腹は減るし、滑稽なことには笑える。

その当たり前の「人間らしさ」こそが、あの数値化されたステータス画面に対抗しうる、唯一の武器なのかもしれない。

「……笑うな。吾輩は真剣なのだ」

吾輩は咳払いをして、歩き出した。

だが、その背中は、昨日までよりも少しだけ、猫背が伸びていたかもしれない。

影が濃くなる王都の路地を、三人の奇妙な一行は、まだ見ぬ「美味いもの」を求めて彷徨うのであった。

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