第17話 白亜の牢獄と道化の芝居
王都の朝は、煤煙の匂いではなく、魔素とやらが焦げるような、一種独特の無機質な臭気で明けた。
吾輩が煎餅のように薄い布団から這い出すと、枕元の三毛猫も欠伸をして起き上がった。窓の外を見れば、あの忌々しい白の塔が、朝日に照らされて氷柱のように冷たく輝いている。昨夜は暗がりでよく見えなかったが、こうして白日の下に晒されると、その異様な滑らかさが際立つ。職人の手仕事による温かみが微塵もない、のっぺりとした巨大な墓標のようだ。
「……やれやれ、今日もまた、あの人工的な光の下で茶番を演じねばならんのか」
吾輩は洗面器の水で顔を洗い、手拭いで乱暴に拭った。
階下へ降りると、宿の老婆が朝食の支度をしていた。黒パンと山羊の乳、それに味の薄いスープ。質素だが、昨晩の脂っこい肉よりは吾輩の胃に優しい。
レイとミナも起きてきた。レイは二日酔いらしく、頭を抱えて呻いている。ミナだけが、新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせていた。
「師匠、今日はお城に行くうんですよね! 私、着ていく服がないです!」
「裸で行くわけにもいかんが、その薄汚れたローブで十分だ。王様に会うからといって、めかし込む必要はない」
「ええーっ、でも……」
ミナが不満げに唇を尖らせていると、宿の入り口が騒がしくなった。
カツカツと、金具の付いた靴が床を叩く音がする。
現れたのは、昨日の門番よりもさらに豪奢な、金色の刺繍が入った白マントを羽織る兵士であった。背後には数名の部下を従えている。
「ナツメ・ソウセキ殿とお見受けする。国王陛下よりの召喚状を持参した。直ちに登城されたし」
兵士は恭しく、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。その態度は、慇懃無礼という言葉を服着て歩かせたようなものである。
「朝飯もまだなのだがね」
吾輩が言うと、兵士は眉一つ動かさずに答えた。
「城にて用意があるとのこと。馬車も表に待たせてある」
「……用意周到なことだ」
吾輩は食べかけのパンを置き、立ち上がった。
「レイ、ミナ。行くぞ。タダ飯が食えるらしい」
「へっ、王宮料理か。悪くねえな」
レイがふらつきながら立ち上がる。
表には、窓にガラスを嵌め込んだ立派な箱馬車が止まっていた。御者台には御者が座り、馬は二頭立てである。昨日の地竜車とは雲泥の差だ。
乗り込むと、クッションの効いた座席が尻を沈み込ませる。
「わあ、ふかふかです!」
ミナが歓声を上げて跳ねる。
馬車は滑るように動き出した。石畳の継ぎ目を感じさせない。車輪にサスペンションの如き魔法が掛かっているのだろう。
窓の外を流れる景色は、旧市街の薄汚れた路地から、整然とした新市街の大通りへと変わっていく。
行き交う人々が、馬車の紋章を見て慌てて道を譲り、深々と頭を下げる。その姿を見て、吾輩は胸が悪くなった。
紋章一つ、馬車一つで、人間が人間に平伏する。中に乗っているのが、昨日は野宿をしていた薄汚い老人だとも知らずに。
権威とは、なんと空虚な入れ物であろうか。
「……気に入らねえ顔してるな、爺さん」
レイが向かいの席で足を組みながら言った。
「ああ。どうにも、この街の空気は肌に合わん。硝子戸の中に閉じ込められた蠅になった気分だ」
「蠅か。言い得て妙だな。……だが、その硝子戸を叩き割るのが、今日の仕事だろ」
「割るつもりはない。ただ、風通しを良くしたいだけだ」
馬車は大きな跳ね橋を渡り、いよいよ城壁の内側、王宮の敷地へと入った。
そこは、別世界であった。
塵一つ落ちていない白亜の回廊。手入れの行き届いた幾何学庭園。噴水が虹を作り、空には魔法で制御された色とりどりの鳥が舞っている。
美しすぎて、吐き気がする。
自然のままの不格好さを許さない、徹底的な管理と人工美。それは草枕の画工が求めた美とは対極にある、権力者の自己満足としての美であった。
馬車寄せに到着すると、数人の侍従が出迎えた。
案内されたのは、天井の高い謁見の間であった。
正面の玉座には、金糸の衣を纏った初老の男が座っている。国王アレクサンドロス三世。
その横には、やけに若作りな男が一人、侍っていた。紫のローブを着て、手には杖を持っている。目つきが狐のように細く、狡猾そうな光を宿している。
「面を上げよ」
よく通る声が響いた。
吾輩は顔を上げた。跪いたりはしない。ただ杖をついて、直立したままである。
「……無礼者! 陛下の御前であるぞ! 控えよ!」
紫のローブの男が叫んだ。宮廷魔導師長、とでもいう役職だろうか。赤シャツの腰巾着、野だを彷彿とさせる小者感が漂っている。
「構わん」
王が手で制した。
「余が呼んだのだ。異界の賢者よ、遠路はるばる大儀であった」
王の視線は、吾輩の顔ではなく、やはりその背後に漂うステータスとやらを見ているようであった。
「ナツメ・ソウセキと言ったな。……報告は聞いている。詠唱破棄による広範囲殲滅魔法、および魔族軍団長の撃退。誠に見事な手並みである」
「殲滅などした覚えはない。少しばかり、物理の理を説いただけだ」
「物理……。聞き慣れぬ言葉だが、それがそなたの世界の魔法か」
王は興味深そうに身を乗り出した。
「単刀直入に言おう。そなたを我が国の『筆頭宮廷魔導師』として迎えたい。魔王軍との戦いが激化する今、そなたのような強大な力を持つ者は、国家の宝として遇されねばならん」
やはり、そう来たか。
首輪をつけて、餌を与え、番犬として飼い慣らす。分かりやすい提案だ。
「断る」
吾輩は即答した。
謁見の間がざわめいた。
「……なんと?」
「吾輩は学者だ。どこかの組織に属して、命令通りに杖を振るような真似はできん。それに、吾輩は猫を飼っている。宮仕えなどしていては、猫の世話がおろそかになる」
「猫……? たかが愛玩動物のために、王の誘いを蹴るというのか」
紫のローブの男が、信じられないという顔で言った。
「たかが、とは聞き捨てならんな。あの猫は、そこいらの人間よりもよほど高尚な魂を持っている」
「貴様……!」
「待て、ガストン」
王が再び制した。ガストンというのか、この狐男は。
「では、こうしよう。組織には属さずともよい。ただ、余の依頼があった時のみ、力を貸してくれればよい。その代わり、王都での生活は全面的に保証しよう。……悪い話ではあるまい」
王は譲歩したつもりなのだろう。だが、その言葉の裏には、結局は「金と生活で縛り付ける」という意図が透けて見える。
「生活の保証か。……結構なことだ。だが、吾輩は自分の食い扶持くらい、自分で稼ぐつもりだ。それに、王都の飯は美味いが、どうにも消化に悪い」
吾輩は、王の目を真っ直ぐに見据えた。
「陛下。一つお尋ねしたい」
「何だ」
「この王都は、随分と綺麗だ。塵一つなく、輝いている。だが、その光が強すぎて、足元の影が見えなくなっているのではないかね」
王の眉がピクリと動いた。
「影、とは」
「昨日、下町の酒場で小耳に挟んだのだよ。孤児院の子供たちが消えている、とな。神隠しか、あるいは人攫いか。……これほど煌びやかな魔法障壁を持ちながら、なぜ足元の子供一人が守れんのか。吾輩にはそれが不思議でならん」
謁見の間の空気が、急速に冷え込んだ。
ガストンが、顔色を変えて一歩踏み出した。
「無礼な! 根も葉もない市井の噂を、陛下の御前で持ち出すとは! 衛兵、この狂人を摘み出せ!」
「図星かね」
吾輩は冷ややかに笑った。
「噂に過ぎぬなら、笑い飛ばせばよい。それを色あせて怒るとは、何か心当たりでもあるのか」
「き、貴様……!」
ガストンが杖を振り上げた。
「余所者が、調子に乗るなよ! 私の『天賦の才』で、その減らず口をきけなくしてやる!」
彼が杖を振ると、空中に無数の光の矢が現れた。
『光雨』
聖属性の上級魔法らしい。
だが、吾輩は動じない。
光とは何か。電磁波である。波である以上、干渉し、回折し、そして反射する。
吾輩は懐から、あの硝子球を取り出した。昨日、地下室で見つけたエジソン電球だ。
「……古い道具だが、鏡代わりにはなる」
吾輩は硝子球を掲げた。
『天賦の才《光学的反射・全反射》』
球体の表面に、目に見えぬ屈折率の膜を展開する。
ガストンの放った光の矢は、吾輩に当たる直前で、まるでビリヤードの球のように鋭角に跳ね返った。
シュシュシュッ!
光の矢が、ガストンの足元に降り注ぐ。
「うわあっ!?」
ガストンは悲鳴を上げて飛び跳ねた。自慢の紫のローブが焦げ、情けない悲鳴を上げて床を転げ回る。
「……お粗末だな」
吾輩は硝子球を懐に仕舞った。
「光を操るなら、反射角の計算くらいはしておくことだ。入社角と反射角は等しい。中学生でも知っている理屈だよ」
静寂。
王も、衛兵たちも、言葉を失っていた。
宮廷一の魔導師が、指一本触れられずに自滅したのである。
「……ナツメ殿」
王が、低い声で言った。その瞳から、先ほどまでの「値踏み」の色が消え、代わりに底知れぬ警戒の色が浮かんでいる。
「そなた、一体何を知っている」
「何も知らんよ。ただ、臭うと言っているのだ。この白亜の城の地下から、腐った泥の臭いがな」
吾輩は踵を返した。
「話は終わりだ。……もし、その臭いの元を断つ気があるなら、また呼ぶがいい。その時は、知恵くらいは貸してやらんこともない」
「待て! 誰が帰っていいと言った!」
ガストンが焦げたローブで立ち上がり、喚いた。
「行かせてやれ」
王が力なく言った。
「……陛下?」
「手を出せば、城が壊れる。……奴は、そういう男だ」
王の言葉を背中で聞きながら、吾輩は悠然と謁見の間を後にした。
レイとミナが、呆気にとられた顔で待っていた。
「おい爺さん、何やったんだ。中からすげえ音がしたぞ」
「少しばかり、理科の実験をしただけだ。……帰ろう。ここの空気は悪い」
吾輩は二人を促し、馬車に乗ることなく、徒歩で城門へと向かった。
白亜の回廊を歩きながら、吾輩は考える。
あのガストンという男。そして、王のあの反応。
単なる噂ではない。やはり、この王都の闇には、権力の中枢が絡んでいる。
子供たちの失踪。人体実験。
それらが、この歪な「ステータス至上主義」と無関係であるはずがない。
「……智に働けば角が立つが、角を立てねば突けぬ闇もある、か」
吾輩は独りごちて、杖をついた。
門を出ると、下界の雑多な空気が、むしろ清々しく感じられた。
だが、吾輩の心の中には、新たな、そして今まで以上に厄介な「しがらみ」の予感が、重くのしかかっていたのである。
「師匠、お昼はどうします? またお肉食べます?」
ミナが無邪気に聞いてくる。
「……そうだな。今日は蕎麦でも手繰りたい気分だが、そんなものはないだろうな」
「ソバ? なんですかそれ」
「細長くて、喉越しを楽しむ、東洋の粋な食い物だ」
「へえー! 食べてみたいです!」
平和な会話を交わしながら、吾輩たちは坂道を下っていった。
その背後で、白の塔が、巨大な監視者のように、じっとこちらを見下ろしているのを背中に感じながら。




