第16話 魔都の石垣と硝子の迷宮
地竜車が重苦しい車輪の音を止めたのは、日がとっぷりと暮れ、二つの月が中天にかかる頃であった。
目の前に聳え立つのは、城壁である。
単なる壁ではない。見上げるような高さの巨石が、隙間なく積み上げられ、その表面には淡い光を放つ魔法陣が、血管のように脈打っている。圧迫感というよりは、拒絶の意思を石に刻み込んだような、不愛想な建造物だ。文明というものは、発達すればするほど、外部に対して臆病になり、堅牢な殻に閉じこもる性質があるらしい。
「着いたぜ、爺さん。これが王都『アルカディア』だ」
レイが御者台から飛び降り、大きく伸びをした。
「やれやれ、尻が四つに割れるかと思った」
吾輩も車から這い出し、凝り固まった腰を伸ばした。懐の三毛猫も、不満げに「ニャー」と鳴いて、地面に降り立った。
城門の前には、長蛇の列ができていた。
行商人、冒険者、巡礼者。様々な身なりの人間が、入市の手続きを待っている。彼らの顔には、長旅の疲労と共に、都への期待と、検問に対する微かな緊張が張り付いている。
「並ばねばならんのか」
吾輩がうんざりして言うと、レイはニヤリと笑った。
「まともに行けばな。だが、こちとら王様のお招きだ。顔パスと行こうぜ」
レイは懐から、一枚の書状を取り出した。道中、シルヴィアから預かっていた紹介状である。王家の紋章が入った封蝋が、街灯の光を反射して鈍く輝いている。
門番は、全身を白銀の鎧で固めた騎士であった。田舎町の門番とは鍛え方が違う。微動だにせず、鋭い視線で通行人を値踏みしている。
「止まれ。身分証を」
騎士が事務的な声で言った。
レイが紹介状を差し出すと、騎士の目が僅かに見開かれた。
「……騎士団副団長、シルヴィア様からの書状か。確認する」
騎士は魔道具らしき片眼鏡を当て、書状を透かして見た。偽造防止の魔法でも掛かっているのだろう。やがて、彼は姿勢を正し、敬礼した。
「失礼した。通ってよし」
「へへ、話が早くて助かるねえ」
レイが軽口を叩き、地竜の手綱を引く。
吾輩たちが門をくぐろうとした時、騎士がふと、吾輩の方を見た。
「待て」
「……何かね」
吾輩は立ち止まり、杖をついた。
騎士の視線は、吾輩の顔ではなく、その全身から漂う「気配」のようなものを探っているようであった。
「貴殿……レベルは幾つだ」
またか。
吾輩は嘆息した。どこへ行っても数字だ。人間の中身を見ようとせず、額に貼り付けられた値札ばかりを気にする。
「さあな。数えるのを忘れたよ」
吾輩がそっけなく答えると、騎士は眉をひそめた。
「測定水晶を通していないのか。……まあいい。書状がある以上、怪しい者ではないだろうが、王都には強力な結界が張られている。魔力が極端に高い者や、異質なスキルを持つ者は、結界に反応して頭痛がすることがある。気をつけられよ」
「忠告、痛み入る」
吾輩は肩をすくめ、門を通過した。
一歩中に入った瞬間、吾輩はめまいを覚えた。
頭痛ではない。嘔吐感に近い、強烈な違和感である。
そこは、光の洪水であった。
石畳の道路の両脇には、ガス灯など比較にならぬほど明るい「魔石灯」が並び、昼間のように輝いている。建物は高く、四階、五階建ての煉瓦造りが密集し、その窓という窓から、人工的な明かりが漏れ出している。
そして、音だ。
馬車の車輪の音、人々の話し声、酒場の喧騒、どこからか聞こえる楽器の音色。それらが渾然一体となって、巨大な怪物の唸り声のように、鼓膜を圧迫してくる。
「……五月蝿い」
吾輩は思わず耳を覆った。
「すごい! 師匠、見てください! お祭りみたいです!」
ミナが歓声を上げて飛び跳ねる。
「あれが魔道具屋、あっちが高級レストラン! わあ、あんな高い塔もありますよ!」
少女が指差した先、街の中央に、天を突くような巨塔が聳え立っていた。
白亜の塔である。その先端は夜空に没し、雲を突き抜けているように見える。塔の周囲には、光の輪が幾重にも回転し、そこから街全体に向けて、目に見えぬ波動が放出されている。
「あれが『王城』であり、この国の魔力の中枢、『白の塔』だ」
レイが教えてくれた。
「あの塔が結界を維持し、街中の魔石にエネルギーを供給している。言ってみれば、馬鹿でかい心臓だな」
「心臓か。……どうりで、脈動がうるさいわけだ」
吾輩はその塔を見上げた。
美しいと言えば美しい。だが、その美しさは、どこか冷たく、無機質である。エッフェル塔を見た時のような、鉄骨の威圧感とも違う。もっと精神的な、管理と支配の象徴としての圧迫感がある。
「まるで、パノラマ館の書割の中に迷い込んだようだな」
吾輩は独りごちた。
行き交う人々もまた、どこか浮ついている。
彼らは皆、小奇麗な服を着て、笑い、喋り、忙しなく歩いている。だが、その目は笑っていない。あるいは、何かに憑かれたように、虚空に浮かぶ「ステータス画面」を睨みながら、ブツブツと独り言を言っている者もいる。
「レベル上げの効率が……」
「新スキルの相場が……」
すれ違いざまに聞こえてくるのは、そんな即物的な単語ばかりだ。
彼らは生きているのではない。「生活」という名のゲームをプレイしているのだ。効率よく、損をしないように、少しでも高い数値を求めて。
「……嘆かわしいことだ」
吾輩は呟いた。
文明が進めば進むほど、人間は孤独になり、精神は摩耗していく。こころの先生が明治の世に感じた孤独は、この異世界において、極限まで増幅されているように思える。
「さあて、まずは宿だ。爺さん、いいとこ知ってるぜ」
レイが地竜車を大通りの方へ向けようとした。
「待て」
吾輩は止めた。
「あんな騒々しい場所で寝られるものか。吾輩は、もう少し静かな場所がいい」
「静かな場所って言ってもな。王都はどこもこんなもんだぞ」
「裏通りがあるだろう。……あそこへ行け」
吾輩は、一本路地を入った、薄暗い通りを指差した。
「おいおい、あそこは『旧市街』だぞ。治安も悪いし、建物もボロい。賢者様が泊まるような場所じゃねえ」
「ボロい方が落ち着く。それに、治安が悪いのは慣れている」
吾輩は頑として譲らなかった。
煌びやかな表通りは、吾輩の神経を逆撫でする。少しばかり煤けて、影のある場所の方が、まだしも人間の住処らしい温もりがあるというものだ。
レイは渋々、地竜車を裏通りへと進めた。
表通りの光が届かぬ旧市街は、確かに薄汚れていた。石畳はひび割れ、野良猫がゴミ箱を漁っている。だが、そこには生活の匂いがあった。煮炊きする煙の匂い、古びた木の匂い。
「ここがいい」
吾輩は、一軒の古びた宿屋の前で車を止めさせた。
看板には『フクロウの止まり木亭』と書かれている。塗装は剥げ、扉は傾いているが、窓からは暖かそうな暖炉の光が漏れていた。
「へいへい。物好きなこった」
レイが苦笑いしながら、荷物を下ろす。
中に入ると、ロビーは狭く、埃っぽかった。カウンターの奥で、老婆が一人、編み物をしている。
「空いているかね」
吾輩が尋ねると、老婆はゆっくりと顔を上げた。その顔は皺だらけで、干した林檎のようである。
「……ああ、空いてるよ。全部空いてる」
老婆は枯れた声で答えた。
「一泊、銀貨五枚。食事はつかないよ」
「構わん」
吾輩は銀貨を置いた。
通された部屋は、三階の角部屋であった。
床は歩くたびにギシギシと鳴り、ベッドは煎餅のように薄い。だが、窓を開ければ、眼下には静かな裏路地が見え、遠くにはあの忌々しい「白の塔」が、夜空に白々しく輝いているのが見えた。
「悪くない」
吾輩は荷物を置き、三毛猫をベッドに放した。猫はクンクンと匂いを嗅ぎ回り、やがて枕元で丸くなった。
「師匠、お腹空きましたー!」
ミナが隣の部屋から顔を出した。
「食事に行きましょうよ! 王都の料理、楽しみにしてたんです!」
「……やれやれ」
吾輩は重い腰を上げた。
腹は減っている。それに、この街の空気を、もう少し肌で感じておく必要もあるだろう。
外に出ると、夜風が少し冷たかった。
レイの案内で、旧市街と新市街の境界あたりにある、大衆食堂に入った。
『満腹亭』という、何ともひねりのない名前の店である。
中は労働者たちでごった返していた。ジョッキをぶつけ合う音、肉を焼く煙、笑い声。冒険者ギルドの喧騒に似ているが、ここには殺気がない。ただ、一日の労働を終えた安堵感と、明日への活力の匂いがある。
「おお、ここの串焼きは絶品だぜ」
レイが大量の肉とエールを注文した。
運ばれてきた肉は、何の肉かは分からぬが、香ばしい匂いを放っている。一口齧ると、溢れるような肉汁が口の中に広がった。
「……美味い」
吾輩は素直に認めた。
「でしょう! やっぱり、肉ですよ肉!」
ミナが口の周りを脂だらけにして頬張っている。
「爺さん、王都も捨てたもんじゃねえだろ」
レイがニヤリと笑った。
「ああ。少なくとも、この肉には嘘がない」
吾輩はエールを一口飲んだ。苦味が心地よい。
その時、隣のテーブルから、不穏な話し声が聞こえてきた。
「聞いたかよ。また『神隠し』があったらしいぜ」
「またか。今度はどこの地区だ」
「スラム街だよ。孤児院のガキが三人、いなくなったそうだ」
「怖いねえ。……やっぱり、魔王軍の仕業かね」
「いや、噂じゃあ、貴族の道楽だっていうぜ。生贄にしてるとか、人体実験をしてるとか……」
「おい、滅多なことを言うな。騎士団に聞かれたら捕まるぞ」
男たちは声を潜め、周囲を窺った。
神隠し。人体実験。
穏やかではない単語だ。
やはり、この煌びやかな王都の光の陰には、どす黒い闇が潜んでいるらしい。
「……嫌な話だ」
吾輩は呟き、ジョッキを置いた。
肉の味が、少しだけ落ちたような気がした。
「気にすんなよ、爺さん」
レイが小声で言った。
「王都にゃあ、表と裏がある。光が強けりゃ影も濃い。……俺たちは、あまり深入りしねえ方がいい」
レイの目は真剣であった。彼は、この街の裏側をよく知っているのだろう。
「分かっている。……吾輩は、面倒ごとは御免だ」
そう口では言いながらも、吾輩の脳裏には、地下室で見つけたあの手帳の言葉が蘇っていた。
『私は、この世界に絶望した』
あの転生者もまた、この王都の闇に触れ、そして消えていったのだろうか。
店を出ると、白の塔が、相変わらず冷ややかな光で見下ろしていた。
その光は、まるで監視塔のサーチライトのように、街の隅々までを暴き出そうとしているようでもあり、同時に、何かを隠蔽しようとしているようでもあった。
「……帰ろう」
吾輩は杖をついた。
宿に戻り、煎餅のようなベッドに横たわったが、なかなか寝付けなかった。
窓の外では、定期的に巡回する騎士団の足音が、カツカツと石畳を叩いている。
鉄の規律。管理された平和。
ここは、硝子戸の中のように安全かもしれないが、同時に窒息しそうなほど窮屈な鳥籠のようでもある。
「……智に働けば角が立つ、か」
吾輩は天井のシミを見つめながら呟いた。
明日には、王からの呼び出しが来るだろう。
そこで吾輩は、どのような「角」を立てることになるのか。あるいは、丸め込まれてしまうのか。
懐の猫が、小さく寝息を立て始めた。
その規則正しいリズムだけが、今の吾輩にとっての唯一の救いであった。




