第15話 嘆きの峡谷と共鳴する虚無
地竜車が「嘆きの谷」と呼ばれる峡谷に差し掛かったのは、正午を少し回った頃であった。
もっとも、この谷底に太陽の恩恵など届くはずもない。両側から屏風のように切り立った岩壁が迫り、空は細長い青い帯となって遥か頭上にへばりついているだけである。薄暗い谷底には、湿った風が常に吹き抜けており、それが岩の隙間を通り抜けるたびに、ヒューヒューと笛のような音を奏でる。なるほど、これが「嘆き」の正体か。
「陰気な場所だ。まるで、この世の不幸をすべて吹き溜まりにしたような趣がある」
吾輩は窓から岩肌を見上げ、独りごちた。
岩の表面は濡れて黒光りし、所々に奇妙な形をした苔がへばりついている。草枕の画工ならば、この荒涼とした風景にも何らかの美を見出すのかもしれないが、生憎と吾輩の美的感覚は、もう少し枯淡で、乾いたものを好む。ジメジメした陰気臭さは、胃弱の身には堪えるのだ。
「爺さん、窓から顔を出すなよ。いつ『鳥』が降ってくるか分からねえぞ」
御者台のレイが、声を潜めて警告してきた。
「鳥だと?」
「ああ。この谷には、人の顔をした鳥の化け物が住み着いている。泣き真似をして人を誘い込み、頭からバリバリと食っちまうんだとさ」
「人面鳥か。悪趣味な造形だ」
吾輩は顔をしかめた。顔が人間で体が鳥などというのは、進化の過程における神の悪ふざけとしか思えん。
隣に座るミナは、先ほどから青ざめた顔で膝を抱えている。中二病的な勇ましさはどこへやら、今はただの怯える少女である。
「……師匠。なんか、聞こえませんか?」
「風の音だろう」
「違います。もっとこう、女の人の泣き声みたいな……」
ミナが耳を塞いだ瞬間、風の音に混じって、甲高い叫び声が響き渡った。
キィィィィィィィ!
それは、ガラスを鉄の爪で引っ掻いたような、神経を直接ヤスリで削るような、不快極まりない金切り声であった。
「うわあっ!」
レイが悲鳴を上げ、地竜が棹立ちになって暴れる。
車体が激しく揺れ、吾輩は長椅子から転げ落ちそうになった。懐の三毛猫が「フギャッ」と抗議の声を上げる。
「何事だ!」
吾輩が窓の外を見ると、薄暗い空から、灰色の影がいくつも舞い降りてくるのが見えた。
翼開長は一間ほど。体は鷲のようだが、その首から上には、確かに女の顔がついていた。ただし、その顔は白粉を塗りたくったように白く、口は耳まで裂け、目は充血して赤く輝いている。
ハルピュイア。異世界の文献にはそう記されていた怪物だ。
「おいおい、大群じゃねえか! ツイてねえ!」
レイが棍棒を振り回すが、空を飛ぶ相手には分が悪い。
ハルピュイアたちは、上空を旋回しながら、さらに激しく喚き立てた。
ギャアアアアア! キィィィィィ!
ただの鳴き声ではない。魔力を帯びた「音の暴力」である。鼓膜が破れんばかりの轟音が、脳髄を掻き回し、思考力を奪っていく。
「あ、頭が……割れそうです……!」
ミナが床にうずくまり、嘔吐した。魔法の詠唱などできる状態ではない。
レイも耳を押さえて苦悶の表情を浮かべている。
地竜はパニックに陥り、暴走寸前だ。このままでは、峡谷の壁に激突して木っ端微塵になるだろう。
「……五月蝿い」
吾輩は、杖をついて立ち上がった。
頭痛がする。ただでさえ旅の疲れで神経が過敏になっているというのに、これ以上の騒音は我慢ならん。
音とは何か。
空気の振動である。疎密波である。
物理現象に過ぎないものが、なぜこうも人の精神を逆撫でするのか。それは、音が耳という器官を通して、脳に直接侵入してくるからだ。視覚は瞼を閉じれば遮断できるが、聴覚には蓋がない。そこにつけ込むとは、卑劣な習性である。
「君たち、少し静かにしたまえ」
吾輩は、車の屋根のハッチを押し開け、身を乗り出した。
頭上には、数十羽の人面鳥が狂喜乱舞している。吾輩が顔を出したのを見て、獲物が現れたとばかりに、一斉に急降下を開始した。
「キシャアアアア!」
先頭の一羽が、鋭い鉤爪を振りかざして迫る。
その口からは、物理的な衝撃波を伴う絶叫が放たれている。
吾輩は、杖を空に向けた。
魔法で対抗する必要はない。火球で焼き払うのも、雷で撃ち落とすのも、この狭い谷底では味方を巻き込む危険がある。
ならば、どうするか。
音には音を。波には波を。
「『逆位相』だ」
吾輩は、彼女らが発している音波の波形を瞬時に解析した。
周波数、振幅、位相。すべてが数値として吾輩の脳裏に展開される。
ステータス画面の演算能力など借りずとも、この程度の計算は書生の嗜みだ。
彼女らの悲鳴と、全く同じ波形で、しかし位相だけが半波長ずれた「逆の音」を生成し、ぶつける。
『天賦の才《波動干渉・静寂の領域》』
吾輩の杖の先から、目に見えぬ波動が同心円状に広がった。
その波動が、ハルピュイアたちの絶叫と衝突した瞬間。
フッ。
世界から、音が消えた。
あれほど響き渡っていた金切り声も、風の音も、地竜の足音さえも、すべてが唐突に消失したのである。
完全なる無音。
真空の中に放り出されたような、絶対的な静寂が谷底を支配した。
「……?」
急降下していたハルピュイアたちが、空中で体勢を崩した。
彼女らは、自らの声が武器であり、同時に仲間との連携を取るための信号でもあったのだ。それが突然聞こえなくなったことで、平衡感覚を失い、パニックに陥ったらしい。
口をパクパクさせているが、何も聞こえない。
自分の声さえ聞こえないという恐怖は、いかばかりであろうか。
彼女らは、糸の切れた凧のようにきりもみ回転しながら、次々と地面に墜落していった。
ドサッ、ドサッ、という音さえもしない。無声映画を見ているような、奇妙な光景である。
「……ふん、他愛もない」
吾輩は杖を下ろした。
音を消すだけで無力化できるとは、案外と脆い生き物だ。己の武器に頼りすぎた生物の末路である。
吾輩は、静寂の領域を解除した。
途端に、風の音と、レイの荒い息遣いが戻ってきた。
「……はあ、はあ。……おい爺さん、今、何をしたんだ? 急に耳が聞こえなくなって、焦ったぞ」
レイが涙目で言った。
「毒を以て毒を制す、音を以て音を消しただけだ。……掃除は君に任せるよ」
吾輩は顎で地面をしゃくった。
地面には、墜落して脳震盪を起こしたハルピュイアたちが、だらしなく転がっている。
「へっ、上等だ! 耳の仇、取らせてもらうぜ!」
レイは棍棒を握り直し、雄叫びを上げて飛び降りていった。
一方的な掃討戦が始まった。
吾輩はその様子を見る気にもなれず、車内に戻った。
ミナが、まだ青い顔をして震えている。
「……師匠。怖かったです……」
「もう終わったよ。音は止んだ」
吾輩はミナの頭に手を置いた。
「音というものは、心に波紋を広げる。不安や恐怖という波紋をな。だが、その源を断ってしまえば、ただの空気の振動に過ぎん。……恐れることはない」
「……はい」
ミナは、少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。
やがてレイが戻ってきた。棍棒には緑色の体液が付着している。
「片付いたぜ。魔石もたっぷりだ。……しっかし、爺さんの魔法はいつもデタラメだな。音を消すなんて、高等魔術でも聞いたことがねえ」
「魔法ではない。物理だと言っているだろう」
吾輩は繰り返した。
「波の干渉だよ。山と谷を合わせれば平らになる。それだけの理屈だ」
「へえ、山と谷ねえ。……まあいいや、助かったよ」
地竜車は再び動き出した。
谷を抜ける頃には、日も傾きかけていた。
前方の視界が開け、荒涼とした岩肌の向こうに、広大な平原が広がっているのが見えた。
「嘆きの谷」を越えたのだ。
「やれやれ、ようやく静かになったか」
吾輩は窓を開け、風を入れた。
先ほどの湿った風とは違う、乾いた土の匂いのする風だ。
それにしても、と吾輩は考える。
あの人面鳥どもは、なぜあのように喚き散らすのか。
生存競争のためか、威嚇のためか。あるいは、その醜悪な姿に生まれついた我が身の不幸を嘆いているのか。
もしそうだとすれば、吾輩がその声を消してやったのは、ある種の慈悲であったのかもしれない。
己の嘆きさえ聞こえなくなれば、少しは安らかに眠れるだろうから。
「……感傷だな」
吾輩は自嘲した。
ただの怪物を相手に、何を文学的な解釈を垂れているのか。
所詮はデータ上の存在、経験値の塊に過ぎないものを。
「師匠、見てください! あれ!」
ミナが窓から身を乗り出して指差した。
平原の遥か彼方、夕暮れの地平線に、巨大なシルエットが浮かび上がっていた。
天を突くような高い塔。幾重にも重なる城壁。そして、街全体を覆うように輝く、巨大な魔法障壁のドーム。
王都である。
この国の心臓部であり、権力と欲望、そして欺瞞が渦巻く伏魔殿。
「……あれが、王都か」
吾輩は目を細めた。
美しいと言えば美しい。だが、その美しさは、人工的で、どこか冷たい。あの魔法障壁の輝きは、外部の敵を拒むと同時に、内部の腐敗を閉じ込める蓋のようにも見える。
「着きましたね、師匠! あそこに行けば、美味しいものがたくさんありますよ!」
ミナが無邪気にはしゃぐ。
「ああ。毒もたくさんありそうだがな」
吾輩は皮肉を言ったが、少女の耳には届いていないようだ。
「さあ、ラストスパートだ! 今夜は王都のふかふかベッドで寝るぞ!」
レイが鞭を振るう。
地竜が最後の力を振り絞って速度を上げた。
車輪が回る。ゴトゴトという振動が、吾輩の尻に伝わる。
旅の終わりは近い。そして、新しい厄介事の始まりも。
吾輩は懐の三毛猫を撫でながら、ぼんやりと王都の灯りを眺めた。
あの輝きの中に、吾輩の求める「硝子戸の中」のような平穏な場所は、果たして存在するのであろうか。
おそらく、ないだろう。
智に働けば角が立つ。
王都などという、智と欲がぶつかり合う場所で、角を立てずに生きていくのは至難の業だ。
だが、まあいい。
角が立つのも、また一興。
吾輩は、明治の文士としての矜持を胸に、杖を握り直した。
異世界の中心で、思う存分、へそ曲がりを通してやるのも、悪くはない。
地竜車は、夕闇迫る平原を、一筋の砂煙を上げて突き進んでいった。




