第13話 静寂の値段と重力の代償
祝杯の翌朝、吾輩は奇妙な静寂の中で眼を覚ました。
いつもならば、階下からレイの怠惰なあくびや、ミナの騒々しい独り言、あるいは表通りを行き交う馬車の車輪の音が聞こえてくる時刻である。しかし、今日はどういうわけか、世界全体が真綿で包まれたように音がない。
「……耳が遠くなったか」
吾輩は枕元の三毛猫に問いかけたが、猫はただ「ニャー」と鳴いて、大きなあくびをしただけである。どうやら吾輩の聴覚に異常があるわけではないらしい。
身支度を整え、階段を下りる。
酒場には、レイが一人、カウンターで頬杖をついていた。その表情は、いつもの眠たげなものではなく、どこか困惑したような、あるいは諦めたような色を帯びている。
「おはよう、爺さん。……よく眠れたか」
「ああ。おかげさまでな。……それにしても静かだ。今日は祝日か何かかね」
「祝日? まさか」
レイは苦笑し、顎で窓の外をしゃくった。
「見てみな。傑作だぜ」
吾輩は窓に近づき、隙間から表通りを覗いた。
そこには、誰もいなかった。
昨日まであれほど芋を洗うが如く混雑していた通りが、まるで神隠しにでも遭ったかのように無人である。店の前の石畳には、昨日の戦闘で生じた亀裂が黒々と口を開けているばかりで、野良犬一匹通らない。
ただ、通りの向こう、建物の陰や路地の奥から、無数の視線を感じる。
恐怖、猜疑、そして畏怖。
それらの視線は、吾輩という「異物」を、遠巻きに観察しているのだ。
「……なるほど」
吾輩は窓から離れた。
「化け物を見る目だな」
「ああ。昨日のアレを見せられちゃあな」
レイは肩をすくめた。
「空に穴を開けて、魔族のゲートごと飲み込んじまうんだ。物理だか何だか知らねえが、あんなデタラメな力を見せつけられて、平気な顔をしてられるのは、俺たちみたいな馬鹿か、頭のネジが飛んだ連中くらいのもんだろうよ」
昨日の「擬似ブラックホール」。
あれは確かに、やりすぎであったかもしれない。重力崩壊という現象は、視覚的な派手さはなくとも、本能的な恐怖を呼び覚ます。底なしの穴。逃れられぬ闇。それは生物が根源的に恐れる「死」の具現化に他ならない。
「……客が来んのは、商売あがったりだな」
「全くだ。だがまあ、静かでいいさ。昨日の今日で、馬鹿騒ぎをする気分にもなれん」
レイは、カウンターの下から古びた酒瓶を取り出し、グラスに注いだ。朝から酒か。とがめる気力もない。
そこへ、裏口からミナが入ってきた。
いつもならば「おはようございます! 大賢者様の一番弟子、ミナです!」などと喚き散らすところだが、今日はおずおずとして、まるで叱られた子犬のように背中を丸めている。
「……おはようございます、師匠」
「どうした。元気が足りんぞ。朝飯を食いっぱぐれたか」
「いえ……その」
ミナは吾輩の前に座ると、上目遣いでこちらを見た。
「あの魔法……『重力崩壊』でしたっけ。あれ、私にも覚えられますか?」
「魔法ではない。物理だと言ったはずだ」
吾輩は即答した。
「それに、あれは君には教えられん。……いや、誰にも教えるつもりはない」
「どうしてですか! あれがあれば、魔王軍なんて怖くないのに!」
「怖いから、教えんのだよ」
吾輩は諭すように言った。
「いいかね、ミナ。力というものは、強ければ強いほど、それを使う者に重い代償を求める。昨日のあれは、空間そのものを歪める力だ。一歩間違えれば、この街ごと、いや君自身をも飲み込んで消滅させてしまう。制御不能な力は、もはや武器ではない。ただの災害だ」
「……災害」
「そうだ。文明というものは、火を制御することから始まった。だが、核分裂……いや、太陽の如き熱量を無闇に地上に持ち込めば、それは破滅を招く。吾輩は、君にそんな業を背負わせたくはない」
ミナは黙り込んだ。眼帯の下の右目が、微かに震えている。
彼女は、力を求めている。自身の孤独や、弱さを埋め合わせるための強大な力を。だが、その力の正体が、孤独をさらに深める「穴」であることに、薄々感づいてもいるのだろう。
「……分かりました。師匠がそう言うなら、諦めます」
ミナは小さく溜息をついた。
「でも、その代わり、今日は普通の魔法の授業をしてくださいね。座学じゃなくて、実技で」
「やれやれ。……まあ、散歩がてらなら付き合おう」
吾輩が立ち上がろうとした時、表の扉が静かに叩かれた。
ノックの音。
昨日のような乱暴な叩き方ではない。礼儀正しく、しかし拒絶を許さぬような、硬質な響きである。
レイが目配せをする。
吾輩は頷き、杖を手に取った。
「……開いているぞ」
扉が開くと、そこに立っていたのは、シルヴィアであった。
しかし、今日の彼女は、いつもの鎧姿でも、貴族のドレス姿でもない。全身を覆うような灰色の外套を纏い、フードを目深に被っている。まるでお忍びの密使だ。
「……朝早くからすまない、ナツメ殿」
彼女は素早く店内に入ると、すぐに扉を閉めた。その動作には、誰かに見られることを極端に警戒しているような切迫感があった。
「どうした。コソ泥のような真似をして」
「笑い事ではない。……事態は深刻だ」
シルヴィアはフードを外した。その顔色は蒼白で、目の下には薄く隈ができている。一晩中、寝ていないらしい。
「昨日の戦い、王都に報告が届いた。……早馬だけでなく、魔法通信でな」
「ほう。仕事が早いな」
「感心している場合か。国王陛下が、貴殿に興味を持たれた。……いや、もっと正確に言えば、貴殿のその『規格外の力』を、国家の管理下に置こうと動き出したのだ」
国家権力。
吾輩が最も忌み嫌う、巨大で、顔のない怪物である。
「管理下、か。……要するに、首輪をつけたいということかね」
「そうだ。教会は貴殿を『異端』と断じたが、軍部と王宮魔導師団は違う。彼らは貴殿を『兵器』として見ている。魔王軍に対抗するための、切り札としてな」
シルヴィアは、苦渋に満ちた表情で続けた。
「近々、王都から使者が来る。……召喚状を持ってな。拒否すれば、反逆罪に問われる可能性が高い」
「反逆罪。……吾輩はこの国の国民ではないのだがね」
「この世界にいる限り、強者はすべからく王の剣となるか、あるいは折られるかの二択だ。……それが、この国の『常識』なのだよ」
彼女は悔しげに拳を握りしめた。
騎士団の副団長としての立場と、吾輩という一個人を案じる気持ちとの板挟みになっているのだろう。草枕の画工が、人情の世界に足を取られて苦悩したように、彼女もまた、組織の論理と個人の感情の間で揺れ動いている。
「……で、どうするつもりだ、爺さん」
レイが口を挟んだ。
「王都へ行くか? それとも、夜逃げでもするか?」
「逃げんよ」
吾輩は椅子に座り直し、冷めた茶を一口すすった。
「逃げれば、追っ手がかかる。そうなれば、行く先々で騒動を起こすことになる。それは吾輩の望むところではない」
「じゃあ、大人しく首輪をつけられるのか?」
「まさか」
吾輩は鼻で笑った。
「犬になる趣味はない。……だが、王という人物には、多少の興味はある。一国の主が、どれほどの度量を持っているのか、あるいはただの飾り物なのか。それを見極めてからでも、身の振り方を決めるのは遅くあるまい」
「……会うつもりか、陛下に」
シルヴィアが驚いたように言った。
「向こうが来いと言うなら、行ってやろうではないか。ただし、吾輩の流儀でな」
吾輩は杖を突いた。
「智に働けば角が立つ。だが、時にはその角で、権力という分厚い壁に風穴を開けてやるのも、文士の務めかもしれん」
その時、懐の中で三毛猫が「ニャー」と鳴いた。
まるで、「また面倒なことになったな」と呆れているような声である。
「……そう言うな。これもまた、異世界探訪の一興だ」
吾輩は猫の頭を撫でた。
「それに、王都には美味い菓子があるかもしれんしな」
軽口を叩いてみたが、店内の重苦しい空気は晴れなかった。
ミナが不安そうに吾輩の袖を引く。
「師匠……王都に行っちゃうんですか? 私たちも、一緒に行けますか?」
「……さてな」
吾輩は言葉を濁した。
これは吾輩個人の問題だ。彼らを巻き込むわけにはいかない。
だが、この「夜明け前の行灯」の連中は、どうにもお節介で、義理堅い。吾輩が一人で行くと言っても、勝手についてくるに違いない。坊っちゃんにおける山嵐のように、一度決めたら梃子でも動かぬ連中だ。
「……まあ、いいだろう。王都見物と洒落込むのも悪くはない」
吾輩が言うと、ミナはパッと顔を輝かせた。
「やった! 王都! 私、行ったことないんです!」
「俺も久しぶりだな。あそこの裏街には、いい酒場がある」
レイもニヤリと笑った。
シルヴィアだけが、深いため息をついた。
「……貴殿らは、本当に呑気だな。国家反逆の危機だというのに」
「深刻になったところで、事態が好転するわけでもあるまい。……明日は明日の風が吹く。今日は今日の飯を食う。それだけのことだ」
吾輩は立ち上がった。
「さて、ミナ。散歩に行くぞ。魔法の練習だったな」
「はいっ!」
吾輩は杖を持ち、店を出た。
表通りは相変わらず無人であったが、空を見上げれば、あの毒々しい青空が広がっていた。
昨日のブラックホールの痕跡は、もうどこにもない。空はただ、無関心にそこにあるだけだ。
「……虚しいものだ」
吾輩は独りごちた。
どれほど強大な力を行使しようとも、世界はすぐに修復され、何事もなかったかのように日常が続く。人間一人の営みなど、大自然……いや、この世界のシステムから見れば、瞬きするほどの些事に過ぎないのだろう。
「師匠、早く早く!」
ミナが先へ駆けていく。
その小さな背中を見ながら、吾輩はふと思った。
もし、吾輩がこの世界から消えたとしても、彼女は吾輩のことを覚えていてくれるだろうか。
それとも、ステータス画面から名前が消えるように、あっさりと忘れ去られてしまうのだろうか。
「……感傷だな」
吾輩は首を振った。
そんなことを考えるのは、胃の調子が悪い証拠だ。
吾輩は杖を突き、人気のない街を歩き出した。
その足取りは、昨日よりも少しだけ重く、そして確かなものになっていた。
遠くで、教会の鐘が鳴っている。
それは、新しい波乱の幕開けを告げる合図のようにも、過ぎ去った平穏への鎮魂歌のようにも聞こえた。




