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【異世界漱石】天賦の才を授かりしも、住みにくきは人の世なり【異世界より、硝子戸の中へ】  作者: 旅する書斎(☆ほしい)


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第12話 重力の檻と滑稽なる舞踏

魔族ゼギオンが放つ威圧感は、質量を持った黒い泥のように、あたりの空気を埋め尽くしていた。

逃げ去った群衆の喧噪が遠のき、後に残されたのは、奇妙に張り詰めた静寂である。店先の石畳はひび割れ、看板は傾き、毒々しい午後の日差しが、漆黒の鎧を纏った怪物の姿を浮き彫りにしている。それは、草枕の画工が描こうとしても筆が止まるような、美醜を超越した圧倒的な「暴力」の具現であった。

「……シルヴィア君、無理をするな」

吾輩は背後から声をかけた。

白銀の鎧を纏ったシルヴィアは、魔族の大剣を受け流しながらも、その足元はじりじりと後退している。細身の剣で巨岩を支えているようなものだ。物理的に考えれば、彼女の腕の骨はとっくに砕けていなければおかしい。それを繋ぎ止めているのは、彼女自身の気力か、あるいはこの世界の不条理な「スキル」とやらの恩恵か。

「退くわけにはいかん!」

シルヴィアが叫ぶ。額から玉のような汗が流れている。

「騎士団が民を見捨てて逃げたとあっては、末代までの恥だ!」

「名誉か。……命よりも重いものかね」

吾輩は嘆息した。武士道というものは、死ぬことと見つけたりと言うが、無駄死にを推奨しているわけではないだろう。

「ククク、威勢だけはいいな、女騎士」

ゼギオンが嗤った。

その巨体が、信じがたい速度で踏み込まれる。慣性の法則を無視している。あれだけの質量の物体が、予備動作もなく最高速度に達し、ピタリと止まる。まるで活動写真のフィルムを勝手に切り貼りしたような、不連続な動きだ。

ガギィン!

重い金属音が響き、シルヴィアの身体が紙屑のように吹き飛ばされた。

「ぐあっ……!」

彼女は店の壁に激突し、崩れ落ちた。

「副団長!」

ミナが悲鳴を上げ、杖を構える。

「我、深淵より来たりて、破滅を招く者なり! 食らえ、『黒炎弾』!」

少女の杖の先から、黒い炎の塊が放たれた。それは螺旋を描きながら魔族へと殺到する。

だが、ゼギオンは動こうともしなかった。

ただ、左手を軽く払っただけである。

バシュッ。

ミナの放った渾身の魔法は、まるで蝋燭の火を指で摘まむように、あっけなく消し止められた。

「……なっ?」

ミナが呆然と口を開ける。

「温いな。子供の火遊びか」

ゼギオンは退屈そうに欠伸を噛み殺した。

「貴様らの力は、所詮その程度か。借り物のスキル、底の浅い魔力。……興醒めだ」

彼はゆっくりと、吾輩の方へ向き直った。

「さて、ナツメと言ったな。貴様はどうだ。先ほどの障壁、あれは悪くなかったぞ」

「お褒めに預かり光栄だが、吾輩は君とダンスを踊るつもりはない」

吾輩は杖を突き、一歩前に出た。

「ダンス? ククク、殺し合いをそう呼ぶか。風流だな」

ゼギオンが大剣を片手でぶら下げる。

「ならば、ステップを踏ませてやろう。死の舞踏をな」

瞬間、彼の姿がブレた。

速い。

シルヴィアを吹き飛ばした時以上の速度である。

だが、吾輩の目は、その動きを冷静に分解していた。

彼が速く動ける理由。それは筋力でも魔力でもない。地面との「摩擦」だ。彼が大地を強く蹴ることで、その反作用として爆発的な推進力を得ている。物理の基本である。

いかに魔族とて、重力と摩擦の理から逃れることはできない。

「……そこだ」

吾輩は、ゼギオンが踏み込もうとした足元の石畳に、杖の先を向けた。

魔法ではない。物理定数の書き換え。

『天賦の才《摩擦係数・零》』

ゼギオンの足裏と、石畳の間の摩擦係数を、限りなくゼロにする。

ツルッ。

ゼギオンの巨体が、漫画のように滑った。

踏み込んだ力が空回りし、彼はバランスを崩して、前のめりに転倒しかける。

「なっ……!?」

魔族の口から、間抜けな声が漏れた。

どれほどの剛力を持っていようと、足場がなければ力は伝えられない。氷の上で相撲を取るようなものだ。

「おっと、足元が留守のようだぞ」

吾輩は、滑って体勢を崩したゼギオンの横を、すり抜けるようにかわした。

ズドン!

制御を失ったゼギオンの大剣が、あくび亭の前の地面を叩き割り、土煙を上げる。

「き、貴様……何をした!」

ゼギオンが体勢を立て直そうとするが、足が滑って立ち上がれない。まるで生まれたての仔鹿だ。最強の軍団長にあるまじき醜態である。

「何もしていないさ。ただ、大地が君を拒絶したのだろう」

吾輩は冷ややかに言った。

「君は、己の力を過信しすぎている。地面があって初めて立てる、空気があって初めて呼吸ができる。そんな当たり前の『環境』への感謝を忘れて、ただ暴力を振るうから、しっぺ返しを食らうのだよ」

「黙れ! 小賢しい!」

ゼギオンは顔を真っ赤にして、魔力で空中に浮き上がろうとした。飛行魔法か。

だが、吾輩はそれを許さない。

「逃がさんよ。……レイ!」

吾輩が叫ぶと同時に、店の屋根の上から影が落ちてきた。

店主のレイである。

彼はいつもの眠そうな顔を捨て、野獣のような鋭い眼光で、巨大な棍棒を振りかぶっていた。

「へいよ! 隙ありだぜ、旦那!」

ドゴォォォン!

レイの棍棒が、浮き上がろうとしたゼギオンの脳天を直撃した。

凄まじい衝撃音が響く。

ゼギオンは再び地面に叩きつけられた。摩擦のない床の上で、彼はコマのようにくるくると回転し、店の壁に激突して止まった。

「ぐ、お……っ!」

ゼギオンが呻く。兜の一部がへこみ、黒い血が滴り落ちている。

「……やるな、レイ君。ただの飲んだくれではなかったらしい」

「へへ、これでも昔は鳴らしたもんでね」

レイは棍棒を肩に担ぎ、ニヤリと笑った。

シルヴィアも、ふらつきながら立ち上がった。ミナも駆け寄ってくる。

「……ナツメ殿、今のは……?」

「摩擦を消しただけだ。彼がどれほど速く動こうと、地面を蹴れなければただの木偶の坊だ」

吾輩は杖をつき、壁際で藻掻いている魔族を見下ろした。

「どうだね、ゼギオン君。理外の力とやらの味は」

「……おのれ、人間風情が……!」

ゼギオンは、よろめきながら立ち上がった。その瞳には、侮蔑ではなく、明確な殺意と、僅かな恐怖が宿っている。

「許さん。……この屈辱、死をもって償わせる!」

彼の全身から、漆黒の瘴気が噴き出した。

先ほどまでの物理的な威圧感とは違う。空間そのものを侵食するような、禍々しい魔力の奔流である。

空が暗くなる。

毒々しい青空が、インクを流したように黒く染まっていく。

「本気か」

レイが表情を強張らせた。

「おい爺さん、やばいぞ。あれは『魔界の門』を開こうとしてやがる」

「魔界の門?」

「奴のホームグラウンドさ。あそこから魔物を呼び出すつもりだ。この街ごと飲み込まれるぞ!」

ゼギオンの背後に、巨大な黒い渦が出現した。

そこから、無数の異形の腕が伸びてくる。亡者の呻き声のような音が、鼓膜を直接揺さぶる。

「見よ! これが絶望だ!」

ゼギオンが叫んだ。

「貴様らの小細工など通じぬ! 圧倒的な質量と数の暴力で、圧し潰してくれる!」

なるほど。

質で勝てぬなら量で、個で勝てぬなら群れで。

なんと卑小な発想だろうか。軍団長などと名乗る割には、やることが小悪党である。

「……嘆かわしい」

吾輩は呟いた。

「君は、どこまでも『力』の信奉者なのだな。数が多いことが正義、力が強いことが真理。……それは思考の放棄だ。精神の敗北だ」

吾輩は、黒い渦を見上げた。

あれを閉じなければならない。

だが、どうする。摩擦を消したところで、あの渦は消えない。熱量操作で焼き尽くすには、範囲が広すぎる。

(考えろ。吾輩の脳髄よ)

手帳に書き残したあの転生者の言葉が蘇る。

『魔法は便利だ。だが、それは人間を堕落させる』

そうだ。魔法というシステムに対抗するには、魔法のルールに乗ってはいけない。

システムの外側。物理の根源。

「……重力か」

吾輩は閃いた。

あの渦は、空間を歪めて繋げている。ならば、その歪みをさらに強く、極限まで捻じ曲げてやればどうなるか。

「シルヴィア君、ミナ君。あの男の注意を引いてくれ。一瞬でいい」

「……分かった!」

シルヴィアが即座に応じた。

「任せてください! 我が最大の爆裂魔法、見せてあげます!」

ミナが杖を掲げる。

二人が左右に展開し、ゼギオンに向かって突撃する。

「無駄だ!」

ゼギオンが腕を振るう。瘴気の波が二人を襲う。

その隙だ。

吾輩は杖を、黒い渦の中心に向けた。

詠唱はいらない。

必要なのは、万有引力の法則。アインシュタインの一般相対性理論。

質量は空間を歪め、光さえも曲げる。

「『事象の地平線』を見せてやろう」

吾輩は、渦の中心にある一点の重力定数を、天文学的な数値へと書き換えた。

『天賦の才《重力崩壊・擬似ブラックホール》』

ズズズ……という、地響きのような音がした。

黒い渦が、内側へ向かって急速に収縮を始めたのである。

「な、なんだ!?」

ゼギオンが振り返る。

魔界から伸びてきた無数の腕が、悲鳴を上げて渦の中心へと吸い込まれていく。いや、腕だけではない。周囲の空気、光、そしてゼギオンの放った瘴気までもが、逃れられぬ重力の井戸へと落ちていく。

「馬鹿な……! ゲートが、吸い込まれている!?」

「吸い込まれているのではない。自重で潰れているのだ」

吾輩は杖を握りしめたまま、額に汗を浮かべていた。

流石にきつい。

物理法則をここまで極端に捻じ曲げるのは、吾輩の精神力をも削り取るらしい。頭痛がする。胃が痛む。

だが、止めるわけにはいかない。

「閉じろ!」

吾輩が叫ぶと、黒い渦はキュウゥゥンという高周波を放ちながら、針の穴ほどの点にまで圧縮され――

パシュン。

軽い音を立てて、消滅した。

あとに残ったのは、強烈な突風と、何事もなかったかのような静寂だけであった。

「……ゲートが、消えた?」

ゼギオンは、呆然と空を見上げていた。

彼の切り札は、物理という名の理不尽な消しゴムによって、跡形もなく消し去られたのである。

「……さて」

吾輩は、荒い息を吐きながら、ゼギオンに向き直った。

「授業は終わりだ。それとも、まだ補習が必要かね」

ゼギオンは、肩を震わせていた。

怒りか、屈辱か。

彼はゆっくりとこちらを向き、その紅蓮の瞳で吾輩を睨みつけた。

「……ナツメ。貴様、何者だ」

「ただの書生だと言ったはずだ」

「嘘をつけ。……あのような理外の術、魔王様ですら使いこなせぬかもしれん」

ゼギオンは、ふっと力を抜いた。

全身から発していた瘴気が霧散していく。

「……興が削がれた」

彼は大剣を鞘に収めた。

「今日は引こう。我が切り札を破った敬意を表してな」

「逃げるのか」

「戦術的撤退と言え。……それに、貴様との勝負、ここで決着をつけるには惜しい気がしてきた」

ゼギオンは、ニヤリと笑った。それは、先ほどまでの傲慢な嘲笑ではなく、好敵手を見つけた戦士の、猛々しい笑みであった。

「首を洗って待っていろ、ナツメ。次会う時は、その『物理』とやらごと、貴様を叩き潰してやる」

言い残すと、彼は背中の翼を広げ、一気に空へと舞い上がった。

ソニックブームを残し、黒い点は瞬く間に空の彼方へと消えていった。

「……やれやれ」

吾輩はその場にへたり込んだ。

膝が笑っている。杖がなければ倒れていただろう。

「じ、爺さん! 大丈夫か!」

レイが駆け寄ってくる。シルヴィアとミナも、心配そうな顔で覗き込んでくる。

「……ああ。腹が減っただけだ」

吾輩は強がりを言った。

「まったく、異世界というのは、どこまで行っても騒々しい。……静かに昼寝もできんよ」

吾輩は空を見上げた。

黒く染まっていた空は、いつの間にか元の毒々しい青色に戻っていた。

だが、その青さは、心なしか以前よりも深く、澄んで見えた。

「……勝った、のか?」

ミナが、信じられないという顔で呟いた。

「勝ったわけではない。相手が勝手に帰っただけだ」

吾輩は立ち上がり、埃を払った。

「さあ、店に戻ろう。……レイ、とびきりの酒と、魚を用意しろ。今日は、少しばかり祝杯を上げたい気分だ」

「おうよ! 任せときな!」

レイが満面の笑みで答えた。

こうして、吾輩の異世界での、最も騒がしく、最も物理的な一日は幕を閉じた。

だが、吾輩は予感していた。

あの魔族、ゼギオンとの縁は、これだけでは終わらないだろうと。

そして、この「物理」という厄介な力が、吾輩をさらなる面倒事へと巻き込んでいくであろうことを。

三毛猫が、店の奥から顔を出して「ニャー」と鳴いた。

その呑気な声に迎えられ、吾輩は久しぶりに、心からの苦笑を漏らしたのである。

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